インターハイ予選が進む中、金曜の夜。
次の準々決勝の相手チームの分析を終えた俺は、気分転換にリビングへ向かった。ソファでは、父さんが一人、ビールを片手にテレビでサッカーを観戦していた。
「……お、悠人。リハビリ、順調か」
「まあね」
俺は父さんの隣にどかっと腰を下ろした。Jリーグのナイトゲーム、ベイサイド横浜とFC川崎の神奈川ダービーだった。
「……選手として、もう一回ピッチに立つのは、難しそうか」
父さんが、画面を見たまま、ぽつりと言った。
「……そのことだけど。もう、選手は引退したんだ。監督とも、話した」
俺は、手元の分析ノートに視線を落とした。
「でもね、別の道が、見えてきた気がする」
父さんは、それ以上何も聞かなかった。ただ、ビールを一口飲んで、「そうか」と言った。
その「そうか」が、責めでも慰めでもなく、ただ受け止めてくれる言葉に聞こえた。
小さい頃はよくこうして、父さんやじいちゃんと一緒にサッカーを見た。俺が「今の監督の采配はなってない」なんて生意気な解説をするのを、二人はいつも楽しそうに聞いてくれていた。
だが中学に上がり、父さんに反発するようになってからは、こんな時間はもう何年もなかったかもしれない。
父さんはビールを片手に、静かに試合を観ている。俺も黙って画面を見つめる。
会話はない。
だがその沈黙は、少しも気まずくはなかった。
試合は、1対1のまま、後半の終盤に差し掛かっていた。
両チームとも、勝ちに行く気迫が、画面越しでも伝わってくる緊迫した展開だった。
俺は、いつもの癖で、戦術的な分析を、心の中で呟いていた。
(……今日の主審、いい審判だな)
荒れそうな試合展開なのに、カードを出すタイミングが絶妙だ。出すべきところでは毅然と出し、流すべきところではアドバンテージを的確に取る。おかげで、試合が不必要に止まらず、テンポがいい。選手たちのストレスも、最小限に見える。
(ポジショニングもいい。常に、ボールと、ファールが起きやすい密集地帯を、同一視野に捉えている。だから、判断に迷いがない)
隣に座った父さんの視線は、少し違っていた。
(……今のプレー、普通の審判ならカードだ。でも、ダービーの終盤という試合の温度を読んで、あえて流した。見事なゲームコントロールだ……)
俺はそんな専門家気取りの分析を、頭の中で繰り広げていた。
その時だった。
テレビ画面の中で、主審が、突然、プレーと全く関係のない方向を指さし、甲高いホイッスルを鳴らして、試合を止めた。
「……ん? なんだ?」
父さんが、思わず声を上げる。
スタジアムは騒然。
何が起きたか分からず、解説者も「どうしたんでしょうか?」と混乱している。カメラが、審判が指さす先、バックスタンドの観客席を、慌ててズームアップする。
そこには、血相を変えて何か叫んでいる観客が数人、いた。
実況のアナウンサーは、どうも場内に急病人がいるらしいと告げた。
次の瞬間、主審は両チームのメディカルスタッフに、ピッチを横切って観客席へ向かうよう、明確に、手で指示を出したようだった。
その一切の迷いのない、毅然とした的確さと決断の速さに、選手たちも動いた。
「……見ろ、悠人。すごいな……」
父さんの視線の先で、両チームの選手たちが、動いていた。
彼らは救護スタッフのために通路を確保し、自発的にタオルを掲げて人垣を作り、倒れた観客のプライバシーを守ろうとしている。
敵も味方も関係ない。ただ、一人の人間のためにピッチの上の全員が心を一つにしていた。
試合は、30分近く中断した。
やがて、観客が無事にメディカルスタッフの手によって、救急隊に引き渡されたことがアナウンスされると、スタジアムはその日一番の、勝者も敗者もない、温かい拍手に包まれた。
中断による選手のウォームアップの後、試合が静かに再開された。
その一部始終を俺は、言葉を失って、見つめていた。
「……すごい」
隣で父さんも頷いた。
「すごいな、審判って。試合を創るだけじゃなく、会場全体を見て、守ってるんだな」
その何の飾りもない素直な感動の言葉が、俺の心のど真ん中にまっすぐに突き刺さった。
俺が中学の時に見た、あの孤高の審判。
俺が目指すべきかと迷っている、アナリストという頭脳。
でも、今、目の前で見たあのホイッスルは、そのどちらとも、全く違う意味を持っていた。
ルールを司るだけじゃない。戦術を分析するだけでもない。
あのピッチという空間にいる、全ての人間をリスペクトし、サッカーというスポーツそのものの尊厳を守る。
それこそが、審判という仕事の、本当の姿なのかもしれない。
俺はテレビの画面から、ゆっくりと父さんの横顔に視線を移した。
父さんは、ただ、純粋な尊敬の眼差しで、画面の中の主審の姿を追っていた。
見ているものは同じ。見えている世界は、少し違う。
四年前、頼りなく見えた父。
ずっと、反発してきた。
何も言わないが、この人は親として家族をずっと守ってきたんだ。
その温かい視線は、俺が心のどこかでずっと求めていた、失われた何かを思い出させてくれるようだった。
その事実が俺の中で、ずっとつっかえていた最後の何かが、すうっと溶けていくのを感じた。
だったら。
あのピッチという舞台を、誰の味方にもならず、誰よりも公平に守る側に立つ。
主役ではない。でも、主役がいられる場所を作る。
それは、父さんが選んだ生き方と、根っこで同じものだ。
俺は、もう、迷っていなかった。
俺の進むべき道は、たった一つしかない。
父さんが、ふとこちらを向いて、俺と視線が合った。
「……どうした、悠人?」
「……別に」
俺は、少しだけ照れくさくて、視線を逸らした。
そして、小さな、しかし自分でも驚くほど晴れやかな声で、こう言ったのだ。
「なあ父さん。俺、リスペクトという言葉の意味がやっと分かった気がする」
その夜。
俺は、自分の部屋に戻ると、スマートフォンの画面を開いた。
今日の試合に関する、ネットニュースを読むためだ。あの感動的な出来事が、世の中ではどう伝えられているのか、知りたかった。
案の定、トップニュースには『Jリーグの試合で観客救護、審判の迅速な判断に称賛の声』という見出しが、誇らしげに躍っていた。記事のコメント欄も、「素晴らしい判断だった」「これぞスポーツマンシップだ」という、賞賛の言葉で溢れている。
俺は、自分のことのように嬉しくなり、誇らしい気持ちで、画面をスクロールした。
だが、SNSのトレンドワードから、試合の感想を検索した、その時だった。
――#又吉主審
そのハッシュタグに紐づけられていたのは、賞賛だけではなかった。
『中断長すぎ。試合ぶち壊しだろ』
『選手のコンディション考えてないのか? プロ失格だ』
『どうせ目立ちたかっただけだろ。偽善者』
目を疑うような、心無い言葉の洪水。
昨日、あれほどスタジアムを温かい拍手で満たしたはずの、一人の人間の命を救った崇高な判断が、いとも簡単に、匿名の悪意によって貶められ、唾棄されていた。
頭に、カッと血が上る。
ふざけるな。お前らに、何が分かるんだ。
俺は、スマートフォンの画面を、叩き割りそうなほどの力で握りしめた。
だが、その怒りが頂点に達した瞬間、ふっと、俺の頭は、逆に氷のように冷えていった。
そうだ。
これが、現実なんだ。
俺が中学の時に見た、あの孤高の審判。彼は、きっと、こういう悪意にも、たった一人で、ずっと耐えてきたんだ。
俺が目指そうとしている道は、決して、賞賛だけが待っている、華やかな舞台じゃない。
ひとつひとつの判定は味方チームには『善』でも、相手チーム側から見ると『悪』に見えてしまう。
むしろ、その何倍もの理不尽な批判と、孤独が待ち受けている道なんだ。
でも俺の心は、少しも揺らがなかった。
むしろ、燃え上がっていた。
だからこそ、俺がやらなければならない。
俺は、静かにスマートフォンの電源を落とした。
机の引き出しから、ベイサイド横浜のスカウト、黒田さんの名刺を取り出す。
そして、その隣に、まだ何も書かれていない、大学の進路希望調査のプリントを置いた。
アナリストへの道か、審判への道か。
俺の心は、もう決まっていた。
だが、その決意を、本当の意味で自分のものにするためには、まだ、やり遂げなければならないことが、一つだけ残っていた。
俺たちの、最後の夏を。
次の準々決勝の相手チームの分析を終えた俺は、気分転換にリビングへ向かった。ソファでは、父さんが一人、ビールを片手にテレビでサッカーを観戦していた。
「……お、悠人。リハビリ、順調か」
「まあね」
俺は父さんの隣にどかっと腰を下ろした。Jリーグのナイトゲーム、ベイサイド横浜とFC川崎の神奈川ダービーだった。
「……選手として、もう一回ピッチに立つのは、難しそうか」
父さんが、画面を見たまま、ぽつりと言った。
「……そのことだけど。もう、選手は引退したんだ。監督とも、話した」
俺は、手元の分析ノートに視線を落とした。
「でもね、別の道が、見えてきた気がする」
父さんは、それ以上何も聞かなかった。ただ、ビールを一口飲んで、「そうか」と言った。
その「そうか」が、責めでも慰めでもなく、ただ受け止めてくれる言葉に聞こえた。
小さい頃はよくこうして、父さんやじいちゃんと一緒にサッカーを見た。俺が「今の監督の采配はなってない」なんて生意気な解説をするのを、二人はいつも楽しそうに聞いてくれていた。
だが中学に上がり、父さんに反発するようになってからは、こんな時間はもう何年もなかったかもしれない。
父さんはビールを片手に、静かに試合を観ている。俺も黙って画面を見つめる。
会話はない。
だがその沈黙は、少しも気まずくはなかった。
試合は、1対1のまま、後半の終盤に差し掛かっていた。
両チームとも、勝ちに行く気迫が、画面越しでも伝わってくる緊迫した展開だった。
俺は、いつもの癖で、戦術的な分析を、心の中で呟いていた。
(……今日の主審、いい審判だな)
荒れそうな試合展開なのに、カードを出すタイミングが絶妙だ。出すべきところでは毅然と出し、流すべきところではアドバンテージを的確に取る。おかげで、試合が不必要に止まらず、テンポがいい。選手たちのストレスも、最小限に見える。
(ポジショニングもいい。常に、ボールと、ファールが起きやすい密集地帯を、同一視野に捉えている。だから、判断に迷いがない)
隣に座った父さんの視線は、少し違っていた。
(……今のプレー、普通の審判ならカードだ。でも、ダービーの終盤という試合の温度を読んで、あえて流した。見事なゲームコントロールだ……)
俺はそんな専門家気取りの分析を、頭の中で繰り広げていた。
その時だった。
テレビ画面の中で、主審が、突然、プレーと全く関係のない方向を指さし、甲高いホイッスルを鳴らして、試合を止めた。
「……ん? なんだ?」
父さんが、思わず声を上げる。
スタジアムは騒然。
何が起きたか分からず、解説者も「どうしたんでしょうか?」と混乱している。カメラが、審判が指さす先、バックスタンドの観客席を、慌ててズームアップする。
そこには、血相を変えて何か叫んでいる観客が数人、いた。
実況のアナウンサーは、どうも場内に急病人がいるらしいと告げた。
次の瞬間、主審は両チームのメディカルスタッフに、ピッチを横切って観客席へ向かうよう、明確に、手で指示を出したようだった。
その一切の迷いのない、毅然とした的確さと決断の速さに、選手たちも動いた。
「……見ろ、悠人。すごいな……」
父さんの視線の先で、両チームの選手たちが、動いていた。
彼らは救護スタッフのために通路を確保し、自発的にタオルを掲げて人垣を作り、倒れた観客のプライバシーを守ろうとしている。
敵も味方も関係ない。ただ、一人の人間のためにピッチの上の全員が心を一つにしていた。
試合は、30分近く中断した。
やがて、観客が無事にメディカルスタッフの手によって、救急隊に引き渡されたことがアナウンスされると、スタジアムはその日一番の、勝者も敗者もない、温かい拍手に包まれた。
中断による選手のウォームアップの後、試合が静かに再開された。
その一部始終を俺は、言葉を失って、見つめていた。
「……すごい」
隣で父さんも頷いた。
「すごいな、審判って。試合を創るだけじゃなく、会場全体を見て、守ってるんだな」
その何の飾りもない素直な感動の言葉が、俺の心のど真ん中にまっすぐに突き刺さった。
俺が中学の時に見た、あの孤高の審判。
俺が目指すべきかと迷っている、アナリストという頭脳。
でも、今、目の前で見たあのホイッスルは、そのどちらとも、全く違う意味を持っていた。
ルールを司るだけじゃない。戦術を分析するだけでもない。
あのピッチという空間にいる、全ての人間をリスペクトし、サッカーというスポーツそのものの尊厳を守る。
それこそが、審判という仕事の、本当の姿なのかもしれない。
俺はテレビの画面から、ゆっくりと父さんの横顔に視線を移した。
父さんは、ただ、純粋な尊敬の眼差しで、画面の中の主審の姿を追っていた。
見ているものは同じ。見えている世界は、少し違う。
四年前、頼りなく見えた父。
ずっと、反発してきた。
何も言わないが、この人は親として家族をずっと守ってきたんだ。
その温かい視線は、俺が心のどこかでずっと求めていた、失われた何かを思い出させてくれるようだった。
その事実が俺の中で、ずっとつっかえていた最後の何かが、すうっと溶けていくのを感じた。
だったら。
あのピッチという舞台を、誰の味方にもならず、誰よりも公平に守る側に立つ。
主役ではない。でも、主役がいられる場所を作る。
それは、父さんが選んだ生き方と、根っこで同じものだ。
俺は、もう、迷っていなかった。
俺の進むべき道は、たった一つしかない。
父さんが、ふとこちらを向いて、俺と視線が合った。
「……どうした、悠人?」
「……別に」
俺は、少しだけ照れくさくて、視線を逸らした。
そして、小さな、しかし自分でも驚くほど晴れやかな声で、こう言ったのだ。
「なあ父さん。俺、リスペクトという言葉の意味がやっと分かった気がする」
その夜。
俺は、自分の部屋に戻ると、スマートフォンの画面を開いた。
今日の試合に関する、ネットニュースを読むためだ。あの感動的な出来事が、世の中ではどう伝えられているのか、知りたかった。
案の定、トップニュースには『Jリーグの試合で観客救護、審判の迅速な判断に称賛の声』という見出しが、誇らしげに躍っていた。記事のコメント欄も、「素晴らしい判断だった」「これぞスポーツマンシップだ」という、賞賛の言葉で溢れている。
俺は、自分のことのように嬉しくなり、誇らしい気持ちで、画面をスクロールした。
だが、SNSのトレンドワードから、試合の感想を検索した、その時だった。
――#又吉主審
そのハッシュタグに紐づけられていたのは、賞賛だけではなかった。
『中断長すぎ。試合ぶち壊しだろ』
『選手のコンディション考えてないのか? プロ失格だ』
『どうせ目立ちたかっただけだろ。偽善者』
目を疑うような、心無い言葉の洪水。
昨日、あれほどスタジアムを温かい拍手で満たしたはずの、一人の人間の命を救った崇高な判断が、いとも簡単に、匿名の悪意によって貶められ、唾棄されていた。
頭に、カッと血が上る。
ふざけるな。お前らに、何が分かるんだ。
俺は、スマートフォンの画面を、叩き割りそうなほどの力で握りしめた。
だが、その怒りが頂点に達した瞬間、ふっと、俺の頭は、逆に氷のように冷えていった。
そうだ。
これが、現実なんだ。
俺が中学の時に見た、あの孤高の審判。彼は、きっと、こういう悪意にも、たった一人で、ずっと耐えてきたんだ。
俺が目指そうとしている道は、決して、賞賛だけが待っている、華やかな舞台じゃない。
ひとつひとつの判定は味方チームには『善』でも、相手チーム側から見ると『悪』に見えてしまう。
むしろ、その何倍もの理不尽な批判と、孤独が待ち受けている道なんだ。
でも俺の心は、少しも揺らがなかった。
むしろ、燃え上がっていた。
だからこそ、俺がやらなければならない。
俺は、静かにスマートフォンの電源を落とした。
机の引き出しから、ベイサイド横浜のスカウト、黒田さんの名刺を取り出す。
そして、その隣に、まだ何も書かれていない、大学の進路希望調査のプリントを置いた。
アナリストへの道か、審判への道か。
俺の心は、もう決まっていた。
だが、その決意を、本当の意味で自分のものにするためには、まだ、やり遂げなければならないことが、一つだけ残っていた。
俺たちの、最後の夏を。
