ホイッスルが、まるで世界から他の全ての音を消し去るかのように、初夏の空に甲高く鳴り響いた。
試合終了。
スコアボードに刻まれた1-0の文字が、俺の正しさを証明している。熱狂と安堵が渦巻くスタンドの喧騒を、俺は意識的に耳から締め出した。歓声も、称賛も、今の俺には不要なノイズでしかない。
(俺が決めて、俺が勝つ。それだけだ。もう、誰にも後悔させないし、俺も後悔しない)
喜びを爆発させ、雄叫びを上げながら駆け寄ってくるチームメイトたちの輪。その中心には、本来なら俺がいるべきなのかもしれない。だが、俺は彼らに背を向け、一人、給水ボトルが並んだベンチへと歩き出した。決勝点を叩き込んだ右足の筋肉が、勝利の代償である心地よい痙攣を繰り返している。
地区大会準決勝。後半アディショナルタイムまで0-0という、両チームの消耗戦。誰もが延長戦を覚悟したあの息の詰まる時間帯に、均衡を破ったのは俺の放った一撃だった。
ペナルティエリア手前、DFを二人、鋭いフェイントで立て続けに剥がした。完全に抜け出した。
その瞬間、視界の右端に、アキの姿が映った。
逆サイド、ゴール前。
完全にフリー。
GKも、DFも、誰もいない。パスを出せば、ほぼ確実にゴールだった。
だが俺は、パスを選ばなかった。
自分で打つ。
それだけを考えて、体勢的にはやや強引だったが右足を振り抜いた。
GKが一歩も動けないまま、ボールはネットの右上隅に突き刺さった。
ゴール。
スタンドが沸く。チームメイトが駆け寄ってくる。
俺は、その歓声を、どこか遠くに感じていた。
「おい、ユウト!」
地響きのような声。振り返ると、サイドバックの黒沢健二郎が、泥と汗で汚れた顔を般若のように歪ませて立っていた。その太い首筋には、怒りの血管が浮き出ている。
「なんだよ、ケンジ。勝ったんだからいいだろ」
「よくねえよ! あの場面、完全にフリーのアキがいただろうが! なんでパスを出さねえんだ! チームで戦ってるってこと、てめえは忘れちまったのか!」
健二郎の指さす先で、ボランチの佐伯彰人、通称アキが、俺たちを見ていた。
「ナイスゴール、悠人」
アキは、そう言った。穏やかな声だった。
だが、その目は笑っていなかった。
俺には分かった。あいつは、フリーでゴール前に走り込んでいた。パスさえ来れば、自分が決められた。そのことを、誰よりも分かっている。
それでも「ナイスゴール」と言う。
その一言が、健二郎の怒声よりも、俺には居心地が悪かった。
だが、俺は心の底から湧き上がる侮蔑を隠しもせず、鼻で笑ってやった。
「パスを出してもタイミングが合う保証はない。あの瞬間、俺が打つのが一番早かった。それだけだ。お前みたいに後ろで守ってるだけじゃ、その理屈は分かんねえか」
「てめえ…………!」
健二郎の拳が、ギリ、と音を立てて握り締められる。その殺気を、
「まあまあ、二人とも熱くなるなって!」
と巨体のサイドバック、望月先輩が笑いながら割って入る。
「勝ったんだから良しとしよう! ほら、ユウトもケンジも、監督に呼ばれる前にさっさと整列!」
お調子者の三年生の言葉に、健二郎は「……チッ」と舌打ちして引き下がる。最後方から戦況の全てを見守っていたGKの相田航だけが、どんな感情も読み取れない静かな目で俺たちのやり取りをただ見つめていた。航は、俺の選択を肯定も否定もしない。いつものことだ。
俺は茶番に興味を失い、ボトルの中身を呷る。
ぬるくなったスポーツドリンクが、乾ききった喉を滑り落ちていった。
だが、そんな俺の肩を、ぽん、と誰かが軽く叩いた。
振り返ると、そこに立っていたのはキャプテンでセンターバックの田代先輩だった。三年生の田代さんはいつもは温厚だが、そのサッカーIQの高さと戦術眼で、チーム全員から一目置かれている存在だ。
「石川」
田代主将の声は、静かだった。だが、その目には、いつもの温和な色はなく、厳しい光が宿っていた。
「あのゴール、理屈の上ではお前の選択が正しかったのかもしれない。だがな石川」
キャプテンは続けたが、その目を俺はまともに見られなかった。
「決勝で、同じことをするな。いいな」
言葉の数は少なかった。だがその重さは、健二郎の怒声よりもずっと深く、俺の胸に刺さった。
俺は何も言い返せずに、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
ベンチへ戻ると、マネージャーの中村里桜が、氷のように冷え切った視線で俺を待ち構えていた。その手には俺が投げ捨てたタオルと、新しいボトルが用意されている。仕事は、完璧だ。だからこそ、腹が立つ。
「ナイスゴール、エース様。おかげで、ロッカールームの空気は決勝戦を前に最悪だけど」
棘を含んだ、丁寧な言葉。こいつはいつもそうだ。真正面からではなく、じわりと神経を逆撫でする。
「るせえな。マネージャーは黙って仕事してろよ」
「してるわよ! あんたみたいな自分勝手なワンマンを支えるっていう不本意な仕事も、素敵な恋を見つけるっていう本来の仕事もね!」
カチン、と来た。
こいつは入部動機を尋ねられた時、「イケメンが多いから恋がしたい」と悪びれもなく言い放った女だ。俺が「ふざけるな」と激怒して以来、俺たちの関係は最悪の一言に尽きる。
「チャラチャラした動機で部活やってるヤツに、俺のサッカーを語られる筋合いはねえな」
「あんたこそ、サッカーしかできないくせに何様なのよ! チームのこと、仲間のこと、何も見えてないじゃない!」
「……っ!」
売り言葉に買い言葉。もう一人のマネージャー、松本亜矢が、やれやれと肩をすくめながら間に入った。
「はいはい、そこまで。喧嘩する元気があるなら、早くアイシングしな」
俺は里桜を睨みつけ、汗でぐっしょりと重くなったユニフォームを乱暴に脱ぎ捨てた。こいつの言葉が、汗よりも不快に肌にまとわりつくようだ。舌打ちが、自分でも驚くほど大きな音を立てた。
ロッカールームへ向かおうと背を向けた、その時だった。
「ユウト」
低く、静かだが、有無を言わせぬ響きを持つ声に呼び止められた。武田監督だった。
「……お前のゴールは、本物だ」
俺は、思わず振り返った。
監督は、腕を組んだまま、ピッチを見据えていた。こちらを見ていない。
「だが、なぜ一人で抱えたがる」
それだけ言って、監督は踵を返した。
俺は、その背中に、何も言えなかった。
勝ったはずなのに。
ヒーローになったはずなのに。
胸の中には、まるで砂嵐のような苛立ちが渦巻いていた。
その夜。
自宅の縁側で俺が一人、黙々とスパイクの手入れをしていると、父さんが風呂上がりの格好で隣に座った。
「悠人、ナイスゴールだったな。父さんも、見てて興奮したよ」
「……見に来てたのか」
「でも、監督やキャプテンの言うことも、少しは聞いてやったらどうだ。チームワークは、大事だぞ。お父さんも、会社でいつも……」
「父さんには分からないよ」
俺は、父さんの言葉を、冷たく遮った。ブラシを動かす手は、止めない。
「父さんには、分からないだろ。大事な場面で、自分の意志を貫かなくて、後でどれだけ後悔するかなんて」
「悠人……」
「俺は、もう二度と後悔したくないだけだ。自分の力で、全部決める。それだけだから」
俺は、それ以上何も言わせないという意思を込めて、無言で立ち上がり、自分の部屋へと向かった。
背後で、父さんが何かを言いたそうに、寂しそうにため息をつくのが聞こえた。だが俺は、振り返らなかった。
決勝戦の相手は、宿敵・帝王高校。鉄壁の守備を誇り、中でもDFの神谷涼介は、俺が最も嫌いなタイプの、クレバーで執拗な選手だ。
(関係ねえし)
次の試合も、俺が、俺の力だけで決めればいい。
チームメイトとの軋轢も、生意気なマネージャーとの口論も、監督の小言も、勝利という絶対的な結果の前では、全て些細なことに過ぎないのだから。
俺の中に燃えていたのは、赤い炎だった。
激しく、高く、誰の目にも見える炎。
この時の俺は、まだ本気でそう思っていた。
試合終了。
スコアボードに刻まれた1-0の文字が、俺の正しさを証明している。熱狂と安堵が渦巻くスタンドの喧騒を、俺は意識的に耳から締め出した。歓声も、称賛も、今の俺には不要なノイズでしかない。
(俺が決めて、俺が勝つ。それだけだ。もう、誰にも後悔させないし、俺も後悔しない)
喜びを爆発させ、雄叫びを上げながら駆け寄ってくるチームメイトたちの輪。その中心には、本来なら俺がいるべきなのかもしれない。だが、俺は彼らに背を向け、一人、給水ボトルが並んだベンチへと歩き出した。決勝点を叩き込んだ右足の筋肉が、勝利の代償である心地よい痙攣を繰り返している。
地区大会準決勝。後半アディショナルタイムまで0-0という、両チームの消耗戦。誰もが延長戦を覚悟したあの息の詰まる時間帯に、均衡を破ったのは俺の放った一撃だった。
ペナルティエリア手前、DFを二人、鋭いフェイントで立て続けに剥がした。完全に抜け出した。
その瞬間、視界の右端に、アキの姿が映った。
逆サイド、ゴール前。
完全にフリー。
GKも、DFも、誰もいない。パスを出せば、ほぼ確実にゴールだった。
だが俺は、パスを選ばなかった。
自分で打つ。
それだけを考えて、体勢的にはやや強引だったが右足を振り抜いた。
GKが一歩も動けないまま、ボールはネットの右上隅に突き刺さった。
ゴール。
スタンドが沸く。チームメイトが駆け寄ってくる。
俺は、その歓声を、どこか遠くに感じていた。
「おい、ユウト!」
地響きのような声。振り返ると、サイドバックの黒沢健二郎が、泥と汗で汚れた顔を般若のように歪ませて立っていた。その太い首筋には、怒りの血管が浮き出ている。
「なんだよ、ケンジ。勝ったんだからいいだろ」
「よくねえよ! あの場面、完全にフリーのアキがいただろうが! なんでパスを出さねえんだ! チームで戦ってるってこと、てめえは忘れちまったのか!」
健二郎の指さす先で、ボランチの佐伯彰人、通称アキが、俺たちを見ていた。
「ナイスゴール、悠人」
アキは、そう言った。穏やかな声だった。
だが、その目は笑っていなかった。
俺には分かった。あいつは、フリーでゴール前に走り込んでいた。パスさえ来れば、自分が決められた。そのことを、誰よりも分かっている。
それでも「ナイスゴール」と言う。
その一言が、健二郎の怒声よりも、俺には居心地が悪かった。
だが、俺は心の底から湧き上がる侮蔑を隠しもせず、鼻で笑ってやった。
「パスを出してもタイミングが合う保証はない。あの瞬間、俺が打つのが一番早かった。それだけだ。お前みたいに後ろで守ってるだけじゃ、その理屈は分かんねえか」
「てめえ…………!」
健二郎の拳が、ギリ、と音を立てて握り締められる。その殺気を、
「まあまあ、二人とも熱くなるなって!」
と巨体のサイドバック、望月先輩が笑いながら割って入る。
「勝ったんだから良しとしよう! ほら、ユウトもケンジも、監督に呼ばれる前にさっさと整列!」
お調子者の三年生の言葉に、健二郎は「……チッ」と舌打ちして引き下がる。最後方から戦況の全てを見守っていたGKの相田航だけが、どんな感情も読み取れない静かな目で俺たちのやり取りをただ見つめていた。航は、俺の選択を肯定も否定もしない。いつものことだ。
俺は茶番に興味を失い、ボトルの中身を呷る。
ぬるくなったスポーツドリンクが、乾ききった喉を滑り落ちていった。
だが、そんな俺の肩を、ぽん、と誰かが軽く叩いた。
振り返ると、そこに立っていたのはキャプテンでセンターバックの田代先輩だった。三年生の田代さんはいつもは温厚だが、そのサッカーIQの高さと戦術眼で、チーム全員から一目置かれている存在だ。
「石川」
田代主将の声は、静かだった。だが、その目には、いつもの温和な色はなく、厳しい光が宿っていた。
「あのゴール、理屈の上ではお前の選択が正しかったのかもしれない。だがな石川」
キャプテンは続けたが、その目を俺はまともに見られなかった。
「決勝で、同じことをするな。いいな」
言葉の数は少なかった。だがその重さは、健二郎の怒声よりもずっと深く、俺の胸に刺さった。
俺は何も言い返せずに、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
ベンチへ戻ると、マネージャーの中村里桜が、氷のように冷え切った視線で俺を待ち構えていた。その手には俺が投げ捨てたタオルと、新しいボトルが用意されている。仕事は、完璧だ。だからこそ、腹が立つ。
「ナイスゴール、エース様。おかげで、ロッカールームの空気は決勝戦を前に最悪だけど」
棘を含んだ、丁寧な言葉。こいつはいつもそうだ。真正面からではなく、じわりと神経を逆撫でする。
「るせえな。マネージャーは黙って仕事してろよ」
「してるわよ! あんたみたいな自分勝手なワンマンを支えるっていう不本意な仕事も、素敵な恋を見つけるっていう本来の仕事もね!」
カチン、と来た。
こいつは入部動機を尋ねられた時、「イケメンが多いから恋がしたい」と悪びれもなく言い放った女だ。俺が「ふざけるな」と激怒して以来、俺たちの関係は最悪の一言に尽きる。
「チャラチャラした動機で部活やってるヤツに、俺のサッカーを語られる筋合いはねえな」
「あんたこそ、サッカーしかできないくせに何様なのよ! チームのこと、仲間のこと、何も見えてないじゃない!」
「……っ!」
売り言葉に買い言葉。もう一人のマネージャー、松本亜矢が、やれやれと肩をすくめながら間に入った。
「はいはい、そこまで。喧嘩する元気があるなら、早くアイシングしな」
俺は里桜を睨みつけ、汗でぐっしょりと重くなったユニフォームを乱暴に脱ぎ捨てた。こいつの言葉が、汗よりも不快に肌にまとわりつくようだ。舌打ちが、自分でも驚くほど大きな音を立てた。
ロッカールームへ向かおうと背を向けた、その時だった。
「ユウト」
低く、静かだが、有無を言わせぬ響きを持つ声に呼び止められた。武田監督だった。
「……お前のゴールは、本物だ」
俺は、思わず振り返った。
監督は、腕を組んだまま、ピッチを見据えていた。こちらを見ていない。
「だが、なぜ一人で抱えたがる」
それだけ言って、監督は踵を返した。
俺は、その背中に、何も言えなかった。
勝ったはずなのに。
ヒーローになったはずなのに。
胸の中には、まるで砂嵐のような苛立ちが渦巻いていた。
その夜。
自宅の縁側で俺が一人、黙々とスパイクの手入れをしていると、父さんが風呂上がりの格好で隣に座った。
「悠人、ナイスゴールだったな。父さんも、見てて興奮したよ」
「……見に来てたのか」
「でも、監督やキャプテンの言うことも、少しは聞いてやったらどうだ。チームワークは、大事だぞ。お父さんも、会社でいつも……」
「父さんには分からないよ」
俺は、父さんの言葉を、冷たく遮った。ブラシを動かす手は、止めない。
「父さんには、分からないだろ。大事な場面で、自分の意志を貫かなくて、後でどれだけ後悔するかなんて」
「悠人……」
「俺は、もう二度と後悔したくないだけだ。自分の力で、全部決める。それだけだから」
俺は、それ以上何も言わせないという意思を込めて、無言で立ち上がり、自分の部屋へと向かった。
背後で、父さんが何かを言いたそうに、寂しそうにため息をつくのが聞こえた。だが俺は、振り返らなかった。
決勝戦の相手は、宿敵・帝王高校。鉄壁の守備を誇り、中でもDFの神谷涼介は、俺が最も嫌いなタイプの、クレバーで執拗な選手だ。
(関係ねえし)
次の試合も、俺が、俺の力だけで決めればいい。
チームメイトとの軋轢も、生意気なマネージャーとの口論も、監督の小言も、勝利という絶対的な結果の前では、全て些細なことに過ぎないのだから。
俺の中に燃えていたのは、赤い炎だった。
激しく、高く、誰の目にも見える炎。
この時の俺は、まだ本気でそう思っていた。
