そして迎えた三回戦。相手は、実力互角のチームだった。
しかし俺のコーチングが功を奏し、試合は序盤から一方的な展開となり、前半を終えた時点で、スコアは3対0。勝敗は、ほぼ決してしまっていた。
後半も、湊高校のペースは変わらない。
25分が過ぎた頃、監督が俺の横に座った。
ピッチを見つめたまま、低い声で言った。
「石川」
「……はい」
「お前の足の状態を、武藤先生に確認した」
俺は、黙って監督の横顔を見た。
「全力では走れない。急な切り返しも難しい。それは分かっている」
監督は、一度言葉を切った。
「だが、今のスコアは3対0だ。残り時間も少ない。お前に無理をさせるつもりもない」
「……」
「ただ、一つだけ聞く。怖いか」
俺は少しだけ迷った。
正直に答えた。
「……怖いです」
「そうか」
監督は、頷いた。
「怖くて当然だ。だが、お前は今まで、全てのポジションで練習してきた。足ではなく、目と頭で戦える準備は、できているはずだ」
監督は、初めて俺の方を向いた。
「出るか」
静かな声だった。
俺は、右膝のサポーターに一度だけ手を当てた。
そして、頷いた。
「……出ます」
「よし、ポジションは、ボランチだ。残り10分、お前の目で、この試合を終わらせてこい」
今の俺にしかできない役割を、監督は与えてくれた。
俺の胸に、熱いものがこみ上げてきた。
「悠人!」
声がして振り返ると、里桜が、俺のユニフォームを握りしめて立っていた。その瞳は、涙で潤んでいた。
「……頑張って」
彼女は、それだけ言うと、俺にユニフォームを手渡した。
その手は、小さく、震えていた。
俺は、ユニフォームを受け取ると、彼女の頭を、一度だけ、くしゃりとかき混ぜた。
「……見てろよ」
俺は、ほぼ一年ぶりに、公式戦のピッチへと一歩を踏み出した。
「湊高校、選手交代です。14番、前田くんに代わりまして、24番、石川くんが入ります」
アナウンスに、スタンドがわずかにどよめく。
健二郎が、航が、驚きながらも、どこか嬉しそうな顔で、俺を迎えてくれた。
俺は、ピッチに入ると、一つだけ、深く息を吸った。
芝生の匂い。スタンドの歓声。
ああ、俺は、この場所に戻ってきたんだ。
だが、現実は、甘くなかった。
たった10分間。
その時間は、俺に、残酷な真実を突きつけるには、十分すぎる時間だった。
頭の中では、完璧なプレーがイメージできている。だが、身体が、全くついてこない。
一歩目の踏み出しが、コンマ数秒、遅れる。
急な方向転換をしようとすると、右膝に恐怖心が走り、無意識にブレーキをかけてしまう。
数分プレーしただけで、息は上がり、心臓は爆発しそうだった。
(……ここまで、か)
痛いほど、分かってしまった。
選手としての俺は、もう、ここにはいないのだと。
しかし、同時に俺の目には、これまで決して映らなかったものが、映っていた。
ボランチの位置から見渡すピッチは、FWだった頃とは比べ物にならないほど、広かった。
ピッチ全体を俯瞰するように、味方と敵の動き、次に生まれるスペースが、手に取るようにわかる。
これか。
これが、監督が言っていた、俺の「目」。
そして、後半アディショナルタイム。
相手のクリアボールが、俺の足元へ、ふわりと転がってきた。
その瞬間、俺には、はっきりと見えた。
勝利を決定づける、たった一本の道が。
前線へ、FWの高木が、相手DFの裏へ走り込んでいる。
俺は、祈るような気持ちで、右足を振り抜いた。
痛みは、なかった。
ボールは、まるで俺の意志が乗り移ったかのように、美しい弧を描き、完璧なスルーパスとなって、高木の足元へと吸い込まれていった。
高木が、キーパーとの一対一を、冷静にゴールへと流し込む。
4対0。
スタジアムが、温かい拍手に包まれる。
その直後、試合終了を告げる、長い、長いホイッスルが鳴り響いた。
俺は、その場に、へなへなと座り込んだ。
チームメイトたちが、俺のもとへ、雪崩のように駆け寄ってくる。
「悠人、ナイスパス!」
「おかえり、エース!」
「エースじゃねぇし」
健二郎に、航に、頭をくしゃくしゃにされながら、俺の心は、不思議なほど、穏やかだった。
ゴールを決めたのは、俺じゃない。
でも、今、俺の胸の中には、これまで感じたことのない、最高に温かい感情が、満ち溢れていた。
ロッカールームへ戻る道すがら、俺は、チームの輪から少しだけ離れ、一人で前を歩く武田監督の隣に追いついた。
「監督」
「……どうした。足は、大丈夫か」
「はい。……監督、ありがとうございました。今日の10分間、俺の一生の宝物です」
俺は一度立ち止まり、監督に向き直って、深く深く頭を下げた。
「今日、ピッチに立って分かりました。今日をもって、俺は一線から退きます」
監督は、驚かなかった。
ただ、全てを悟ったような、静かな目で、俺を見つめていた。
「……そうか。分かった。お前の決断だ。尊重する」
そして、監督は、俺の肩に、ポン、と手を置いた。
「だが、一つだけ、頼みがある」
「……はい」
「三年生が引退するまでチームには残ってくれ。今のチームに、お前の『目』と『声』は、絶対に必要だ。ベンチの司令塔として、最後まで、あいつらと共に戦ってくれ。頼めるか」
俺の胸に、熱いものがこみ上げてきた。
「……はい。よろしくお願いします」
俺は、涙をこらえながら、力強く、頷いた。
俺の、選手としての時間は終わった。
* * *
その夜、帰り道。
里桜と二人、並んで歩いていた。
夕暮れの空が、じわりと暗くなっていく。
「……悠人、今日、ピッチに戻った時、どんな気持ちだった?」
里桜が、前を向いたまま、静かに聞いた。
「最悪だった」
「え?」
「身体が、全然言うことを聞かなかった。頭の中では完璧なのに」
里桜は、黙って聞いていた。
「でも、ピッチ全体が、一枚の絵みたいに見えた。それだけは、本物だった」
しばらく、沈黙が続いた。
「……里桜」
「ん? 」
「俺の夢、一緒に見てくれないか」
自分でも、驚くくらいまっすぐな言葉だった。
「俺が、いつか日本一のレフェリーになるまで、一番近くで、俺の笛を聞いていてほしい」
言い終わってから、急に恥ずかしくなった。
こんな言い方、らしくない。
里桜は、目を見開いたまま、少しのあいだ黙っていた。
それから、ふっと息を吐いて、小さく笑った。
「……ばか」
そう言いながら、顔がみるみる赤くなる。
「そんなの、プロポーズみたいじゃん」
「……違う」
否定したのに、声が弱かった。
里桜は、少しだけ俺を見つめてから、視線を落とした。
そして、そっと、俺の手を取った。
冷たいと思っていた手は、思っていたよりずっと温かかった。
「私も、決めたんだ」
「え?」
「スポーツ医学を学べる大学に行く」
俺は、思わず聞き返した。
「悠人のリハビリ、見てて思ったの。こういう形で支える人になりたいって」
言葉は静かだった。
でも、その中に迷いはなかった。
「今度は、私が支える番」
少しだけ、握る手に力がこもる。
「悠人が、ちゃんと走れるように」
俺は、何も言えなかった。
こんな風に言われるとは、思っていなかった。
「……そっか」
それしか出てこなかった。
里桜は、少しだけ笑った。
泣きそうな顔で、それでもちゃんと笑っていた。
「決めたのは、最近じゃないんだよ」
里桜は、握った俺の手を見ながら言った。
「逃げたままにしてたこと、ちゃんと終わらせた」
「……」
「ちゃんと、前に進みたかった」
俺は、その横顔を見ていた。
こいつは、ずっと自分と戦ってきたんだ。
俺が気づかなかっただけで。
「……ありがとな」
小さく言うと、里桜は首を横に振った。
「まだ何もしてないよ」
それから、少しだけ間を置いて、続けた。
「でも――」
言いかけて、やめる。
その代わり、握っていた手を、少しだけ強く握り返した。
言葉よりも、はっきり伝わった。
俺たちは、顔を見合わせた。
夜空には、夏の星が静かに瞬いていた。
俺たちの影は、並んで伸びていた。
前より少しだけ近かった。
しかし俺のコーチングが功を奏し、試合は序盤から一方的な展開となり、前半を終えた時点で、スコアは3対0。勝敗は、ほぼ決してしまっていた。
後半も、湊高校のペースは変わらない。
25分が過ぎた頃、監督が俺の横に座った。
ピッチを見つめたまま、低い声で言った。
「石川」
「……はい」
「お前の足の状態を、武藤先生に確認した」
俺は、黙って監督の横顔を見た。
「全力では走れない。急な切り返しも難しい。それは分かっている」
監督は、一度言葉を切った。
「だが、今のスコアは3対0だ。残り時間も少ない。お前に無理をさせるつもりもない」
「……」
「ただ、一つだけ聞く。怖いか」
俺は少しだけ迷った。
正直に答えた。
「……怖いです」
「そうか」
監督は、頷いた。
「怖くて当然だ。だが、お前は今まで、全てのポジションで練習してきた。足ではなく、目と頭で戦える準備は、できているはずだ」
監督は、初めて俺の方を向いた。
「出るか」
静かな声だった。
俺は、右膝のサポーターに一度だけ手を当てた。
そして、頷いた。
「……出ます」
「よし、ポジションは、ボランチだ。残り10分、お前の目で、この試合を終わらせてこい」
今の俺にしかできない役割を、監督は与えてくれた。
俺の胸に、熱いものがこみ上げてきた。
「悠人!」
声がして振り返ると、里桜が、俺のユニフォームを握りしめて立っていた。その瞳は、涙で潤んでいた。
「……頑張って」
彼女は、それだけ言うと、俺にユニフォームを手渡した。
その手は、小さく、震えていた。
俺は、ユニフォームを受け取ると、彼女の頭を、一度だけ、くしゃりとかき混ぜた。
「……見てろよ」
俺は、ほぼ一年ぶりに、公式戦のピッチへと一歩を踏み出した。
「湊高校、選手交代です。14番、前田くんに代わりまして、24番、石川くんが入ります」
アナウンスに、スタンドがわずかにどよめく。
健二郎が、航が、驚きながらも、どこか嬉しそうな顔で、俺を迎えてくれた。
俺は、ピッチに入ると、一つだけ、深く息を吸った。
芝生の匂い。スタンドの歓声。
ああ、俺は、この場所に戻ってきたんだ。
だが、現実は、甘くなかった。
たった10分間。
その時間は、俺に、残酷な真実を突きつけるには、十分すぎる時間だった。
頭の中では、完璧なプレーがイメージできている。だが、身体が、全くついてこない。
一歩目の踏み出しが、コンマ数秒、遅れる。
急な方向転換をしようとすると、右膝に恐怖心が走り、無意識にブレーキをかけてしまう。
数分プレーしただけで、息は上がり、心臓は爆発しそうだった。
(……ここまで、か)
痛いほど、分かってしまった。
選手としての俺は、もう、ここにはいないのだと。
しかし、同時に俺の目には、これまで決して映らなかったものが、映っていた。
ボランチの位置から見渡すピッチは、FWだった頃とは比べ物にならないほど、広かった。
ピッチ全体を俯瞰するように、味方と敵の動き、次に生まれるスペースが、手に取るようにわかる。
これか。
これが、監督が言っていた、俺の「目」。
そして、後半アディショナルタイム。
相手のクリアボールが、俺の足元へ、ふわりと転がってきた。
その瞬間、俺には、はっきりと見えた。
勝利を決定づける、たった一本の道が。
前線へ、FWの高木が、相手DFの裏へ走り込んでいる。
俺は、祈るような気持ちで、右足を振り抜いた。
痛みは、なかった。
ボールは、まるで俺の意志が乗り移ったかのように、美しい弧を描き、完璧なスルーパスとなって、高木の足元へと吸い込まれていった。
高木が、キーパーとの一対一を、冷静にゴールへと流し込む。
4対0。
スタジアムが、温かい拍手に包まれる。
その直後、試合終了を告げる、長い、長いホイッスルが鳴り響いた。
俺は、その場に、へなへなと座り込んだ。
チームメイトたちが、俺のもとへ、雪崩のように駆け寄ってくる。
「悠人、ナイスパス!」
「おかえり、エース!」
「エースじゃねぇし」
健二郎に、航に、頭をくしゃくしゃにされながら、俺の心は、不思議なほど、穏やかだった。
ゴールを決めたのは、俺じゃない。
でも、今、俺の胸の中には、これまで感じたことのない、最高に温かい感情が、満ち溢れていた。
ロッカールームへ戻る道すがら、俺は、チームの輪から少しだけ離れ、一人で前を歩く武田監督の隣に追いついた。
「監督」
「……どうした。足は、大丈夫か」
「はい。……監督、ありがとうございました。今日の10分間、俺の一生の宝物です」
俺は一度立ち止まり、監督に向き直って、深く深く頭を下げた。
「今日、ピッチに立って分かりました。今日をもって、俺は一線から退きます」
監督は、驚かなかった。
ただ、全てを悟ったような、静かな目で、俺を見つめていた。
「……そうか。分かった。お前の決断だ。尊重する」
そして、監督は、俺の肩に、ポン、と手を置いた。
「だが、一つだけ、頼みがある」
「……はい」
「三年生が引退するまでチームには残ってくれ。今のチームに、お前の『目』と『声』は、絶対に必要だ。ベンチの司令塔として、最後まで、あいつらと共に戦ってくれ。頼めるか」
俺の胸に、熱いものがこみ上げてきた。
「……はい。よろしくお願いします」
俺は、涙をこらえながら、力強く、頷いた。
俺の、選手としての時間は終わった。
* * *
その夜、帰り道。
里桜と二人、並んで歩いていた。
夕暮れの空が、じわりと暗くなっていく。
「……悠人、今日、ピッチに戻った時、どんな気持ちだった?」
里桜が、前を向いたまま、静かに聞いた。
「最悪だった」
「え?」
「身体が、全然言うことを聞かなかった。頭の中では完璧なのに」
里桜は、黙って聞いていた。
「でも、ピッチ全体が、一枚の絵みたいに見えた。それだけは、本物だった」
しばらく、沈黙が続いた。
「……里桜」
「ん? 」
「俺の夢、一緒に見てくれないか」
自分でも、驚くくらいまっすぐな言葉だった。
「俺が、いつか日本一のレフェリーになるまで、一番近くで、俺の笛を聞いていてほしい」
言い終わってから、急に恥ずかしくなった。
こんな言い方、らしくない。
里桜は、目を見開いたまま、少しのあいだ黙っていた。
それから、ふっと息を吐いて、小さく笑った。
「……ばか」
そう言いながら、顔がみるみる赤くなる。
「そんなの、プロポーズみたいじゃん」
「……違う」
否定したのに、声が弱かった。
里桜は、少しだけ俺を見つめてから、視線を落とした。
そして、そっと、俺の手を取った。
冷たいと思っていた手は、思っていたよりずっと温かかった。
「私も、決めたんだ」
「え?」
「スポーツ医学を学べる大学に行く」
俺は、思わず聞き返した。
「悠人のリハビリ、見てて思ったの。こういう形で支える人になりたいって」
言葉は静かだった。
でも、その中に迷いはなかった。
「今度は、私が支える番」
少しだけ、握る手に力がこもる。
「悠人が、ちゃんと走れるように」
俺は、何も言えなかった。
こんな風に言われるとは、思っていなかった。
「……そっか」
それしか出てこなかった。
里桜は、少しだけ笑った。
泣きそうな顔で、それでもちゃんと笑っていた。
「決めたのは、最近じゃないんだよ」
里桜は、握った俺の手を見ながら言った。
「逃げたままにしてたこと、ちゃんと終わらせた」
「……」
「ちゃんと、前に進みたかった」
俺は、その横顔を見ていた。
こいつは、ずっと自分と戦ってきたんだ。
俺が気づかなかっただけで。
「……ありがとな」
小さく言うと、里桜は首を横に振った。
「まだ何もしてないよ」
それから、少しだけ間を置いて、続けた。
「でも――」
言いかけて、やめる。
その代わり、握っていた手を、少しだけ強く握り返した。
言葉よりも、はっきり伝わった。
俺たちは、顔を見合わせた。
夜空には、夏の星が静かに瞬いていた。
俺たちの影は、並んで伸びていた。
前より少しだけ近かった。
