青い炎 〜主役を降りた天才、もう一度あのピッチへ〜

右膝の筋肉は少しずつ、だが着実に、かつての強さを取り戻しつつあった。
「順調すぎるくらいだ。この夏には、ボールを蹴れるようになるかもしれないな」
武藤先生のその言葉に、俺の心は期待と、そして同じくらいの不安で、複雑に揺れた。
リハビリを終えて自宅に戻ると、そこからは、もう一つの俺の時間が始まる。
湊高校サッカー部の「ピッチの外の司令塔」としての時間だ。
監督から送られてくる練習試合の映像を、何度も見返す。フォーメーションの課題点、選手個々の動きの修正点を、ノートにびっしりと書き込んでいく。

週末の試合前には、健二郎や航、そして新キャプテンのアキが、俺の家にやってくるようになった。
「悠人、次の相手のキーマンは、やっぱり一〇番だと思うか?」
「いや、違う。あいつは囮だ。本当に怖いのは、ボランチの八番。あいつの縦パス一本で、局面は一気に変わる。アキと連携して、絶対に前を向かせるな」
「……なるほどな。サンキュ、ユウト。マジで助かる」
健二郎が、心底感心したように頷く。

ある日のことだった。
俺の部屋のクローゼットの奥から、古いスパイクが一足、出てきた。
それは、俺がサッカーを始めた頃、小学生の時に履いていた、小さな、ボロボロのスパイクだった。
俺は、そのスパイクを、そっと手に取った。
なぜ、こんなものがまだ残っているんだろう。
そのスパイクを眺めていると、忘れていたはずの記憶が、ふと蘇ってきた。

初めて試合でゴールを決めた時の、あの爆発するような喜び。雨上がりのグラウンドで、泥だらけになってボールを追いかけた時の、あの無我夢中の感覚。
理屈じゃない。戦術でも、分析でもない。
ただ、ボールを蹴ることが、楽しくて、嬉しくて、仕方がなかった。
あの頃の俺は、確かに、そうだった。
 
俺は机の上に、その小さなスパイクを置いた。
そして、その隣に、対戦相手のデータがびっしりと書き込まれた、分析ノートを置いた。
ボロボロの古いスパイク。
そして最新のデータが詰まった、分析ノート。
俺は、一体、どちらの俺に、なりたいんだろう。

俺たちの代、最後となるインターハイの予選が、もう、目前まで迫ってきていた。
チームの士気は、日に日に高まっていく。
俺の心の中の迷いだけが、初夏の霞のように、晴れることなく、漂い続けていた。

その夜、俺は机の上に広げた分析ノートを、しばらく眺めていた。
来週の初戦の相手チームのデータが、びっしりと書き込まれている。相手のボランチの癖。DFラインの押し上げのタイミング。セットプレーの守備の穴。
我ながら、よくここまで調べたと思う。
だが、ノートを閉じた後、俺の目は、部屋の片隅の古いスパイクへと向かった。
(……俺は、何者なんだ)

アナリストとして、チームを支える人間か。
それとも、もう一度、あのピッチに立つ選手か。

どちらの答えも、まだ出ていない。
だが、不思議なことに、その問いは、以前ほど俺を苦しめなくなっていた。
高木の言葉が、頭の中でまた静かに響いた。
形はどんな形でも。
俺は、もう一度、分析ノートを開いた。
ペンを走らせる。
その夜、眠りについたのは、かなり遅い時間だった。

次の日の放課後。
リハビリを終えた俺が帰ろうとすると、病院の駐車場で、里桜が一人で立っていた。
「待ってたのか」
「うん。一緒に帰ろうかと思って」
いつもなら、リハビリが終わる頃には部活があるはずだ。
「今日、部活は?」
「早く終わったから」
里桜は、それだけ言って、俺の隣に並んで歩き始めた。

梅雨の晴れ間の、少しだけ蒸し暑い夕方だった。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
俺は松葉杖のリズムに合わせて、ゆっくりと歩く。里桜も俺の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩く。
「ねえ、悠人」
少し経って、里桜が言った。
「なに」
「最近、楽しそうだね」
「……どういう意味だ」
「そのまんまの意味だよ。リハビリの時もそうだけど、チームのみんなに指示出してる時とか、すごく、生き生きしてる顔してる」
俺は、少しだけ、黙った。

「……サッカーをしていない時の方が、楽しそうに見えるっていうことか」
「違う、そういう意味じゃない」
里桜は、少し慌てたように言った。
「ただ…………悠人が笑ってるのが、嬉しいだけ。最近、ちゃんと笑うようになったから」
俺は、返す言葉が見つからなかった。
「入院してた頃、悠人、全然笑わなかったじゃない。最初の頃なんて、私が行っても、壁みたいな顔してたし」
「……そうだったか」
「そうだったよ。だから、今の悠人の方が、ずっといい」

里桜は、そう言って、少しだけ俺の方を向いた。
その横顔が、夕日に照らされて、少しだけ赤く見えた。
「俺がどんな選択をしても、か?」
「うん」
「選手に戻っても、戻らなくても?」
「どっちでも」
迷いのない答えだった。

「悠人が、自分で決めたことなら、それでいい。私は、その傍にいるだけだから」
俺は、松葉杖を動かす手を、一瞬だけ、止めた。
傍にいるだけ。
そんな言葉を、こいつは平然と言う。
「……なんで、そんなことが言えるんだよ」
「え?」
「なんでそんなに、俺のことを……」
言いかけて、俺は、口を閉じた。
続きは、まだ言えない。

里桜は、俺の言葉の続きを待つように、少しだけ黙っていた。
そして、やがて、前を向いたまま、静かに言った。
「……私も、昔、誰かにそうしてもらいたかったのかもしれない」
その声はいつもより、少しだけ、低かった。
「コンクールを逃げた時、誰も何も言わなかった。先生も、友達も。それが、一番、辛かった。だから」
里桜は、そこで言葉を切った。
「だから、私は、悠人が何を選んでも、ちゃんと見ていたいんだ」
俺たちは、それ以上、何も言わなかった。
夕日の中を、ただ、並んで歩いた。
松葉杖のリズムだけが、静かに続いていた。