※親友の亜矢視点のお話です
亜矢は最近、里桜は変わったな、と思っていた。
変わったというより、何か、ずっと抱えていたものを少しずつ手放し始めている、という感じだろうか。
私は里桜のことを、誰よりも長く見てきた。
中学の時から、ずっと隣にいた。吹奏楽部のコンクール前に、一人で音楽室に残ってクラリネットを吹いていた里桜も知っている。そして、コンクールの日、顔色が悪いまま「行けない」と連絡してきた里桜も知っている。
あの日、私は里桜が「逃げた」ということを、分かっていた。
でも、何も言わなかった。
言っても仕方がなかったし、言えなかった。里桜が自分で気づくしかないことを私が代わりに言葉にしても、傷つけるだけだったから。
だから、ただ、傍にいた。
それが、私にできることだった。
高校に入って、里桜がマネージャーに志願した時、「また始まった」と思った。
「イケメンが多いから恋がしたい」という里桜らしい動機に、呆れながらも笑った。でも、私は知っていた。里桜が本当に求めていたのは、居場所だということを。
中学の時に吹奏楽部を失って、どこにも属せなくなった里桜が、また自分の居場所を探していた。
サッカー部は、里桜の居場所になった。
そして、石川悠人という男が、里桜の中に何かを起こした。
私が最初に気づいたのは、里桜が悠人のスパイクだけ丁寧に磨いていた時だ。
「エースのが汚れてると、チームの士気に関わるから」という言い訳は、あまりにも薄かった。
でも、里桜は本気でそう思い込もうとしていた。
悠人が怪我をして入院した頃から、里桜の帰り道が変わった。部活が終わると、以前は一緒に帰っていたのに、「先に行って」と言うようになった。最初は用事があるのだと思っていた。でも、何日も続いた。
ある日、バス停で偶然見かけた。里桜は、病院の方向へ向かうバスに乗ろうとしていた。
翌日、「最近、どこ行ってんの」と聞いたら、「別に」と言った。
「別に」
その瞬間、なぜか、石川悠人の顔が頭に浮かんだ。あいつも、同じ口癖だ。
悠人の口癖が里桜にうつっていて、可笑しくてたまらなかった。
それ以上は聞かなくても、私には分かっていた。あの子は毎日、病院に行って、帰ってきているんだと。
悠人が初めて走れた日のことを、里桜から聞いた。
リハビリ室の端から端まで走り切った悠人を見て、自分が泣いてしまったと、里桜は少し恥ずかしそうに言った。「情けないよね、泣くのは悠人のはずなのに」と笑いながら。
でも、その話をする里桜の顔を見た瞬間、私は思った。
ああ、こいつは本当に、あの人のことが好きなんだ、と。
でも、私は何も言わない。
里桜が自分で気づくまで、待つことにした。
それが、私にできることだった。
里桜が坂本先輩に連絡したと聞いた時、私は少しだけ、泣きそうになった。
「やっと謝れた」と、里桜は電話で言っていた。その声が、いつもより少しだけ、軽かった。
ずっと抱えていたものを、手放せたのだ。
私は、「よかったじゃん」とだけ言った。
「亜矢に言うことじゃないけど、ありがとう」
里桜が、電話の向こうで、少しだけ笑った。
「何が」
「ずっと、傍にいてくれたから」
私は、電話を耳に当てたまま、天井を見上げた。
「当たり前じゃん。親友だもん」
「うん」
「でも、石川悠人にも感謝しとけよ」
「なんで悠人に」
「あいつが折れなかったから、あんたも折れなかったんでしょ」
里桜は、しばらく黙っていた。
そして、「……そうかもしれない」と、静かに言った。
電話を切った後、私は、しばらくスマートフォンを手の中で転がしていた。
里桜が変わった。
いや、正確には違う。里桜はずっと、あのままだった。ただ、ずっと抱えていた重さを、少しずつ降ろせるようになった。それだけのことだ。
きっかけは、石川悠人だった。
誰も信じず、一人で全部背負って、そして折れた。それでも、諦めなかった。あの不器用で面倒くさい男が、ただ折れなかっただけで、里桜の中の何かが、動き出した。
人が人に影響を与えるって、こういうことなのかもしれない。言葉じゃなくて、理屈じゃなくて、ただその人がそこにいるということで。
私には、あんなふうに誰かを動かす力は、たぶんない。
でも、里桜の隣で、ずっと見ていることならできる。
それが、私の役割だと思っている。
親友の背中を見守ること。転びそうになったらそっと手を出すこと。答えを代わりに出してあげることじゃなくて、里桜が自分で答えを出せるまで、待つこと。
里桜は変わった。
そして、多分、これからも変わっていく。
私はそれを、一番近くで見ていたい。
亜矢は最近、里桜は変わったな、と思っていた。
変わったというより、何か、ずっと抱えていたものを少しずつ手放し始めている、という感じだろうか。
私は里桜のことを、誰よりも長く見てきた。
中学の時から、ずっと隣にいた。吹奏楽部のコンクール前に、一人で音楽室に残ってクラリネットを吹いていた里桜も知っている。そして、コンクールの日、顔色が悪いまま「行けない」と連絡してきた里桜も知っている。
あの日、私は里桜が「逃げた」ということを、分かっていた。
でも、何も言わなかった。
言っても仕方がなかったし、言えなかった。里桜が自分で気づくしかないことを私が代わりに言葉にしても、傷つけるだけだったから。
だから、ただ、傍にいた。
それが、私にできることだった。
高校に入って、里桜がマネージャーに志願した時、「また始まった」と思った。
「イケメンが多いから恋がしたい」という里桜らしい動機に、呆れながらも笑った。でも、私は知っていた。里桜が本当に求めていたのは、居場所だということを。
中学の時に吹奏楽部を失って、どこにも属せなくなった里桜が、また自分の居場所を探していた。
サッカー部は、里桜の居場所になった。
そして、石川悠人という男が、里桜の中に何かを起こした。
私が最初に気づいたのは、里桜が悠人のスパイクだけ丁寧に磨いていた時だ。
「エースのが汚れてると、チームの士気に関わるから」という言い訳は、あまりにも薄かった。
でも、里桜は本気でそう思い込もうとしていた。
悠人が怪我をして入院した頃から、里桜の帰り道が変わった。部活が終わると、以前は一緒に帰っていたのに、「先に行って」と言うようになった。最初は用事があるのだと思っていた。でも、何日も続いた。
ある日、バス停で偶然見かけた。里桜は、病院の方向へ向かうバスに乗ろうとしていた。
翌日、「最近、どこ行ってんの」と聞いたら、「別に」と言った。
「別に」
その瞬間、なぜか、石川悠人の顔が頭に浮かんだ。あいつも、同じ口癖だ。
悠人の口癖が里桜にうつっていて、可笑しくてたまらなかった。
それ以上は聞かなくても、私には分かっていた。あの子は毎日、病院に行って、帰ってきているんだと。
悠人が初めて走れた日のことを、里桜から聞いた。
リハビリ室の端から端まで走り切った悠人を見て、自分が泣いてしまったと、里桜は少し恥ずかしそうに言った。「情けないよね、泣くのは悠人のはずなのに」と笑いながら。
でも、その話をする里桜の顔を見た瞬間、私は思った。
ああ、こいつは本当に、あの人のことが好きなんだ、と。
でも、私は何も言わない。
里桜が自分で気づくまで、待つことにした。
それが、私にできることだった。
里桜が坂本先輩に連絡したと聞いた時、私は少しだけ、泣きそうになった。
「やっと謝れた」と、里桜は電話で言っていた。その声が、いつもより少しだけ、軽かった。
ずっと抱えていたものを、手放せたのだ。
私は、「よかったじゃん」とだけ言った。
「亜矢に言うことじゃないけど、ありがとう」
里桜が、電話の向こうで、少しだけ笑った。
「何が」
「ずっと、傍にいてくれたから」
私は、電話を耳に当てたまま、天井を見上げた。
「当たり前じゃん。親友だもん」
「うん」
「でも、石川悠人にも感謝しとけよ」
「なんで悠人に」
「あいつが折れなかったから、あんたも折れなかったんでしょ」
里桜は、しばらく黙っていた。
そして、「……そうかもしれない」と、静かに言った。
電話を切った後、私は、しばらくスマートフォンを手の中で転がしていた。
里桜が変わった。
いや、正確には違う。里桜はずっと、あのままだった。ただ、ずっと抱えていた重さを、少しずつ降ろせるようになった。それだけのことだ。
きっかけは、石川悠人だった。
誰も信じず、一人で全部背負って、そして折れた。それでも、諦めなかった。あの不器用で面倒くさい男が、ただ折れなかっただけで、里桜の中の何かが、動き出した。
人が人に影響を与えるって、こういうことなのかもしれない。言葉じゃなくて、理屈じゃなくて、ただその人がそこにいるということで。
私には、あんなふうに誰かを動かす力は、たぶんない。
でも、里桜の隣で、ずっと見ていることならできる。
それが、私の役割だと思っている。
親友の背中を見守ること。転びそうになったらそっと手を出すこと。答えを代わりに出してあげることじゃなくて、里桜が自分で答えを出せるまで、待つこと。
里桜は変わった。
そして、多分、これからも変わっていく。
私はそれを、一番近くで見ていたい。
