青い炎 〜主役を降りた天才、もう一度あのピッチへ〜

悠人が走った。
リハビリ室の端から端まで、たった15メートル。それだけのことなのに、私の目から涙が止まらなかった。
情けない、と思った。泣くのは私じゃなくて、悠人のはずなのに。
「……すごい! 悠人、走れたじゃん!」
そう叫んだ後、悠人は照れくさそうに顔を背けた。
その横顔を見ながら、私は、ずっと胸の中にしまっていたものが、少しずつ溶け始めているのを感じていた。

帰り道、一人で歩きながら、私はずっと考えていた。
悠人は、折れなかった。
選手としての道が閉ざされても、チームのために分析ノートを書き続けた。健二郎に電話して、自分の見えていないものを認めた。誰も信じてこなかったあいつが、少しずつ、仲間を信じ始めていた。
私はそれを、ずっと隣で見ていた。
悠人の姿は、かつての自分と、全く違う。

私は、逃げた。
熱を口実に、本当は怖くて、コンクールから逃げた。
坂本先輩が、私の音を一番買ってくれていたのに。一番近くで、私の音を聴いてくれていたのに。
あれから何年も経つ。先輩は今、どこで、何をしているのだろう。
クラリネットを、続けているだろうか。
私が穴を空けたあのコンクールのことを、今でも、覚えているだろうか。

その夜、私は自分の部屋で、スマートフォンを開いた。
SNSの検索欄に、「坂本」と打ち込んで、止まった。
見つかったとして、何を言えばいい。

「あの時、逃げてごめんなさい」?

今さらそんな言葉を送って、どうなるというのだ。私の謝罪なんて、迷惑なだけかもしれない。
私はスマートフォンを伏せた。
布団に潜って、天井を見つめた。
脳裏に、悠人の顔が浮かんだ。
健二郎に電話する前の夜、悠人はどんな気持ちだっただろう。
プライドを傷つけられたまま、それでも電話して、「俺の見えていないものをお前は見ていた」と認めた。
ただ、悠人の姿を見ていたら、私の中に、ずっと蓋をしていた感情が、静かに顔を出してきた。

謝りたい。
それだけだ。

見返りなんていらない。先輩が怒っていても、呆れていても、構わない。
ただ、あの日、逃げた私が、ここにいる。それだけを、伝えたかった。
私は、もう一度、スマートフォンを手に取った。
今度は、迷わなかった。
SNSで坂本先輩のアカウントを見つけるのに、思ったより時間はかからなかった。プロフィール欄に、「音楽専門学校在籍」という文字があった。
音楽を続けているんだ。
私は、メッセージを打った。

『突然すみません。湊中の吹奏楽部で、第二クラリネットを任されていた中村里桜です。
先輩には、ずっと謝れないままでいたことがあります。地区コンクールの前日、私は熱を出しました。でも正直に言います。解熱剤を飲めば、行けたと思います。飲もうとして、やめました。怖かったんです。先輩と一緒に作り上げてきたあの音が、本番で出せなかったら、という恐怖から、逃げました。
先輩が卒業するまで、一度も言えませんでした。廊下で普通に挨拶してくれるたびに、胸が痛かったです。怒ってくれた方が、まだよかった。
今更だということは分かっています。それでも、ずっとこのままにしておけなくて。
本当に、ごめんなさい』

送信ボタンを、押した。
心臓が、破裂しそうなくらい脈打っていた。
返事が来るかどうかも、分からない。でも、それでよかった。
私は、布団の中で、膝を抱えた。
窓の外から、夜風の音がした。

翌日の朝、スマートフォンに通知が来ていた。
坂本先輩からの返信だった。

『里桜ちゃん、久しぶり。連絡してくれてありがとう。
正直に書いてくれて、嬉しかった。
謝らなくていい、とは言えないかな。あの時、私は確かに、傷ついたから。でも、怒ってもいなかった。里桜ちゃんが怖くなる気持ちは、分かったから。私も、二年の時のコンクール前、同じように眠れない夜が何日もあったよ。
卒業まで何も言わなかったのは、里桜ちゃんを傷つけたくなかったからじゃなくて、何て言えばよかったのか、本当に分からなかったから。「大丈夫だよ」は嘘になる気がしたし、「なんで来なかったの」って責める気にもなれなかった。だから、何も言えなかった。それは、私の側の話。
一つだけ、伝えておきたいことがある。
あのコンクールの二週間前の合奏練習で、里桜ちゃんの音が私の音と溶け合った瞬間があったでしょ。あれは、本物だったよ。私が今まで一緒に演奏してきた中で、あんな瞬間は、そう何度もなかった。あの音は、里桜ちゃんが何ヶ月もかけて作り上げたものだから、逃げたからって、消えるものじゃない。コンクールで、もう一度一緒に紡ぎたかったけどね。
ちゃんと自分の道を見つけたんだね。よかった。
これからも、頑張って』

私は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
謝らなくていい、とは言えない。
その一行で、涙が出た。
怖くなる気持ちは、分かったから。
先輩も、同じ夜を過ごしていたのだ。
胸の奥の何かが、少しだけ緩んだ。

『あの音は、本物だったよ』

その一行を、私は何度も読み返した。
逃げたからって、消えるものじゃない。
涙が、とめどなくこぼれた。
先輩は、とっくに前を向いていた。私が何年も抱えてきたものを、先輩はちゃんと受け止めた上で、それでも前を向いていた。

怒ってくれた方がまだよかった、と思っていた。でも違った。
先輩が本当のことを言ってくれたから、私も、本当のことと向き合えた。
逃げた自分を許すんじゃない。その分、今から全力でやるしかない。
スポーツ医学を学ぼう。