桜の花びらが、春の風に舞う季節。
俺の右足から、ニーブレースが外れた。
まだしばらくは松葉杖が必要だが、短い距離なら杖なしでも歩けるまでに回復していた。
やっと、グラウンドに戻れる。
やっと、今のチームが見れる。
校舎を出ると、中からはボールを蹴る音と、選手たちの威勢のいい声が響いてきた。
健二郎の怒鳴り声。キャプテンになったアキの鼓舞する声。航の冷静な指示の声。
ああ、これだ。
俺が、ずっと焦がれていた、この場所。
俺は、松葉杖を頼りに、ゆっくりとフェンス際まで歩いていった。
ピッチの上では、紅白戦が、まさに佳境を迎えていた。
そのレベルの高さに、俺は息をのんだ。
俺がいた頃よりも、パスのテンポが格段に速い。一人一人が常に首を振り、周りの状況を把握している。誰かがボールを失っても、すぐに別の誰かがカバーに入る。
俺の視線は、自然と、俺がいたはずの、FWのポジションへと吸い寄せられた。
そこには、俺の代わりに背番号「11」をつけた、今や二年生となった高木がいた。
彼は、俺のような派手なドリブル突破や、強引なミドルシュートは打たない。だが、常に相手DFの裏を狙い、味方からのパスを引き出す動きは、狡猾で、クレバーだった。
その瞬間、新チームの司令塔となったアキからの絶妙なスルーパスが、高木の足元へ通った。
高木は、ワントラップで完璧にボールをコントロールすると、迷わず右足を振り抜く。
ボールは、美しい弾道を描き、ゴールネットの右上隅へと突き刺さった。
ゴール。
チームメイトたちが、高木のもとへ駆け寄り、その頭をくしゃくしゃにする。
俺がいた頃には、あまり見られなかった光景だった。
(……すげえな、あいつら)
俺がいなくても、こんなに強くなったのか。
今の俺が、このチームに戻って、あいつ以上のプレーができるだろうか。
いや、そもそも、このチームに、俺の居場所は、本当にあるのだろうか。
「……悠人」
いつの間にか、隣に里桜が立っていた。彼女も、俺と同じように、ピッチをじっと見つめている。
「……どう思う?」
俺が尋ねると、彼女は少しだけ寂しそうに、でも誇らしげに微笑んだ。
「……うん。すごく、速くなった。みんな、本当に頑張ってたから」
「……そうだな」
俺たちは、それ以上、何も話さなかった。
春の風が、俺と彼女の間を、静かに吹き抜けていく。
グラウンドの声が、やけに、遠くに聞こえた。
その日の夜、俺は自分の部屋のベッドに横になっていた。
壁には、サッカー選手のポスターが、昔のまま貼られている。机の上には、使い古されたスパイクと、サッカー雑誌。
何も変わっていないはずなのに、その全てが、今の俺には、まるで知らない誰かの部屋のように、色褪せて見えた。
俺は、天井を見つめながら、里桜に投げかけられた問いを、何度も何度も、心の中で繰り返していた。
――悠人は、どうしたいの?
その答えは、やはり、まだ見つからないままだった。
* * *
それから、俺はほぼ毎日、練習終わりのグラウンドに足を運ぶようになった。
フェンス際に立って、ただ見ている。松葉杖をついたまま、ただ、見ている。
チームメイトたちは、俺の存在に気づいても特に何も言わなかった。健二郎は「邪魔すんな」と言いながら、わざわざ俺の近くを通ってボールを拾いに来た。航は、何も言わず、ただ小さく頷いた。
それで、十分だった。
ある日の練習後、後片付けをしていた高木が、ふと俺の方へ歩いてきた。
「……石川さん、毎日来てるんですね」
「やっぱり、気になってね」
高木は、少しだけ笑った。
「俺、石川さんの分析ノートで、だいぶ変わりました。DFの裏の取り方、全然分かってなかったんで」
「お前が動けるからだろ」
「でも、動き方を教えてくれたのは、石川さんじゃないですか」
俺は、何も言わなかった。
高木は、ボールを小脇に抱えたまま、ピッチを振り返った。
「石川さんがいなくなったとき、正直、チームがどうなるか分からなかったです。でも今は……」
高木は、そこで言葉を切った。
「早く戻ってきてください。形はどんな形でも」
それだけ言って、高木はロッカールームへ駆けていった。
俺は、しばらく、その背中を見つめていた。
形はどんな形でも。
その言葉が、胸の奥に、静かに落ちていった。
放課後。
俺は、制服からジャージに着替えると、バスで病院へ向かい、武藤先生のもとでリハビリに打ち込む。
最近、里桜も「勉強のためだから」と言って、俺のリハビリに付き添うことが増えていた。彼女の持つノートは、もはや俺のリハビリ記録というより、びっしりと専門用語が書き込まれた、医学書のようになっていた。
できることは、日に日に増えていった。松葉杖なしで、ぎこちなく歩く。軽いスクワット。そして、恐怖心を押し殺しながら、ゆっくりとしたジョギング。
その日、俺は初めて、自分の足だけで、リハビリ室の端から端まで、およそ15メートルを走りきることができた。
ぜえぜえと肩で息をし、膝に手をつく俺の耳に、声が飛び込んできた。
「……すごい! 悠人、走れたじゃん!」
見ると、里桜がまるで自分のことのように、大きな目にいっぱいの涙を浮かべてこちらを見ていた。
その顔を見た瞬間、俺の心臓は、ゴールを決めた時とは全く違う種類の、激しい高鳴りを打った。
俺の右足から、ニーブレースが外れた。
まだしばらくは松葉杖が必要だが、短い距離なら杖なしでも歩けるまでに回復していた。
やっと、グラウンドに戻れる。
やっと、今のチームが見れる。
校舎を出ると、中からはボールを蹴る音と、選手たちの威勢のいい声が響いてきた。
健二郎の怒鳴り声。キャプテンになったアキの鼓舞する声。航の冷静な指示の声。
ああ、これだ。
俺が、ずっと焦がれていた、この場所。
俺は、松葉杖を頼りに、ゆっくりとフェンス際まで歩いていった。
ピッチの上では、紅白戦が、まさに佳境を迎えていた。
そのレベルの高さに、俺は息をのんだ。
俺がいた頃よりも、パスのテンポが格段に速い。一人一人が常に首を振り、周りの状況を把握している。誰かがボールを失っても、すぐに別の誰かがカバーに入る。
俺の視線は、自然と、俺がいたはずの、FWのポジションへと吸い寄せられた。
そこには、俺の代わりに背番号「11」をつけた、今や二年生となった高木がいた。
彼は、俺のような派手なドリブル突破や、強引なミドルシュートは打たない。だが、常に相手DFの裏を狙い、味方からのパスを引き出す動きは、狡猾で、クレバーだった。
その瞬間、新チームの司令塔となったアキからの絶妙なスルーパスが、高木の足元へ通った。
高木は、ワントラップで完璧にボールをコントロールすると、迷わず右足を振り抜く。
ボールは、美しい弾道を描き、ゴールネットの右上隅へと突き刺さった。
ゴール。
チームメイトたちが、高木のもとへ駆け寄り、その頭をくしゃくしゃにする。
俺がいた頃には、あまり見られなかった光景だった。
(……すげえな、あいつら)
俺がいなくても、こんなに強くなったのか。
今の俺が、このチームに戻って、あいつ以上のプレーができるだろうか。
いや、そもそも、このチームに、俺の居場所は、本当にあるのだろうか。
「……悠人」
いつの間にか、隣に里桜が立っていた。彼女も、俺と同じように、ピッチをじっと見つめている。
「……どう思う?」
俺が尋ねると、彼女は少しだけ寂しそうに、でも誇らしげに微笑んだ。
「……うん。すごく、速くなった。みんな、本当に頑張ってたから」
「……そうだな」
俺たちは、それ以上、何も話さなかった。
春の風が、俺と彼女の間を、静かに吹き抜けていく。
グラウンドの声が、やけに、遠くに聞こえた。
その日の夜、俺は自分の部屋のベッドに横になっていた。
壁には、サッカー選手のポスターが、昔のまま貼られている。机の上には、使い古されたスパイクと、サッカー雑誌。
何も変わっていないはずなのに、その全てが、今の俺には、まるで知らない誰かの部屋のように、色褪せて見えた。
俺は、天井を見つめながら、里桜に投げかけられた問いを、何度も何度も、心の中で繰り返していた。
――悠人は、どうしたいの?
その答えは、やはり、まだ見つからないままだった。
* * *
それから、俺はほぼ毎日、練習終わりのグラウンドに足を運ぶようになった。
フェンス際に立って、ただ見ている。松葉杖をついたまま、ただ、見ている。
チームメイトたちは、俺の存在に気づいても特に何も言わなかった。健二郎は「邪魔すんな」と言いながら、わざわざ俺の近くを通ってボールを拾いに来た。航は、何も言わず、ただ小さく頷いた。
それで、十分だった。
ある日の練習後、後片付けをしていた高木が、ふと俺の方へ歩いてきた。
「……石川さん、毎日来てるんですね」
「やっぱり、気になってね」
高木は、少しだけ笑った。
「俺、石川さんの分析ノートで、だいぶ変わりました。DFの裏の取り方、全然分かってなかったんで」
「お前が動けるからだろ」
「でも、動き方を教えてくれたのは、石川さんじゃないですか」
俺は、何も言わなかった。
高木は、ボールを小脇に抱えたまま、ピッチを振り返った。
「石川さんがいなくなったとき、正直、チームがどうなるか分からなかったです。でも今は……」
高木は、そこで言葉を切った。
「早く戻ってきてください。形はどんな形でも」
それだけ言って、高木はロッカールームへ駆けていった。
俺は、しばらく、その背中を見つめていた。
形はどんな形でも。
その言葉が、胸の奥に、静かに落ちていった。
放課後。
俺は、制服からジャージに着替えると、バスで病院へ向かい、武藤先生のもとでリハビリに打ち込む。
最近、里桜も「勉強のためだから」と言って、俺のリハビリに付き添うことが増えていた。彼女の持つノートは、もはや俺のリハビリ記録というより、びっしりと専門用語が書き込まれた、医学書のようになっていた。
できることは、日に日に増えていった。松葉杖なしで、ぎこちなく歩く。軽いスクワット。そして、恐怖心を押し殺しながら、ゆっくりとしたジョギング。
その日、俺は初めて、自分の足だけで、リハビリ室の端から端まで、およそ15メートルを走りきることができた。
ぜえぜえと肩で息をし、膝に手をつく俺の耳に、声が飛び込んできた。
「……すごい! 悠人、走れたじゃん!」
見ると、里桜がまるで自分のことのように、大きな目にいっぱいの涙を浮かべてこちらを見ていた。
その顔を見た瞬間、俺の心臓は、ゴールを決めた時とは全く違う種類の、激しい高鳴りを打った。
