退院してからも、俺は毎日病院へ通った。
早く元に戻りたい一心で、リハビリへの取り組み方を明らかに変えた。
「武藤先生、もうワンセット、お願いします」
「石川くん、最近、目の色が変わったね。いい顔になってきた」
武藤先生は、口元に笑みを浮かべながら、俺のメニューを少しずつ強化していった。地味な筋力トレーニングに加え、バランスボールを使った体幹トレーニングや、プールでの歩行訓練も始まった。特に、プールでの歩行訓練は、水の抵抗が思った以上に足に食い込み、数メートル歩くだけで全身が悲鳴を上げた。
プールサイドには、いつも里桜がいた。タオルとドリンクを手に、俺が歩き終えるたびに、黙って差し出す。声をかけてくることは、ほとんどなかった。ただ、そこにいた。
その存在が、不思議と、俺には助かった。
そんなある日、武藤先生に連れられて、俺は病院の地下にある広いリハビリ室へと来ていた。
「来週から、少しずつサッカーボールを使ったトレーニングも入れていこうと思う」
「……! ほんとですか!」
だが、ドアを開けた俺の目に飛び込んできたのは、想像もしていない光景だった。
義足をつけた陸上選手。肩に大きなサポーターを巻いた野球選手。そして――車椅子に乗った、俺とさほど年の変わらない少年。
彼は、必死の形相で、上半身の力だけで懸垂を繰り返していた。その額からは、滝のような汗が流れている。
「彼は?」
「バスケットボールの特待生だった子だ。試合中の事故で、脊髄を損傷してね。もう、二度と自分の足で立つことはできないんだ」
武藤先生は、少しだけ悲しげな目をした。
「でも、彼は諦めていない。車いすバスケの選手になるために、毎日ここで俺たちが音を上げるくらいのトレーニングを積んでいる」
俺は黙って、彼の背中を見つめていた。
その日から、俺は彼と顔を合わせるようになった。
最初の数日、少年は俺のことなど眼中にないようだった。黙々と懸垂を繰り返し、終わればすぐに次のメニューへ移る。その集中力は、見ているこちらが気圧されるほどだった。額から汗が滴り落ちても、腕が限界を超えても、少年の目は一度もぶれなかった。
俺も俺で、自分のトレーニングで手一杯だった。互いに、相手の存在を認識しながら、ただ同じ空間にいるだけの日々が続いた。
変わったのは、四日目だったと思う。
俺が体幹トレーニングを終えて、壁際でぼんやりと天井を見上げていた時だった。少年が、車椅子を俺の隣に止めて話しかけてきた。
「……サッカー、ですか」
「ああ」
「膝、なんですね」
「そうだ」
少年はそれだけ確認すると、目で軽く会釈をして、また自分のトレーニングに戻っていった。汗を拭う間も惜しむように、すぐに次のメニューへ移っていく。
翌日、少年はまた俺の隣に車椅子を止めた。
「また、できるようになるんですか」
「……保証はないらしい、けどな」
「そうですか」
少年は、あっさりと頷いた。同情するわけでも、慰めるわけでもなく、ただ事実として受け取るような頷きだった。その潔さが、逆に胸に刺さった。
「怖くは、ないのか」
気づけば、俺は聞いていた。
「何がですか」
「復帰できないかもしれないこと」
少年は、少しだけ考えてから、答えた。
「怖かったですよ。最初は」
「最初は?」
「今は、別のことを考えてるので」
「別のこと?」
「次の試合で、どうやってディフェンスを崩すか、とか」
あっけらかんとした口調だった。
俺は、思わず少年の顔を見た。
「……もう試合のこと考えてるの?」
「考えてないと、手が止まるので」
少年は、そう言って、また懸垂のバーに手をかけた。
「僕も最初は、もう終わりだと思いました」
バーを握ったまま、少年は続けた。
「でも、終わりじゃなかったんです。違うスタートでした」
それだけ言って、少年は体を引き上げた。一回、二回、三回。額に汗が滲んでも、腕が震えても、止まらなかった。
限界まで追い込んでいるはずなのに、その背中に、迷いがない。
俺は、その背中を、しばらく見つめていた。
さらに数日が経った頃だった。
「今日、武藤さんにボール触らせてもらうって、聞きました」
「……ああ」
「よかったですね」
少年は、口元をわずかに緩めた。
「僕も最初にボール触った時、泣きました」
「……バスケのボールか」
「はい。車椅子に乗ったまま、初めてシュート決めた時も泣きました。あんなにリングが遠いなんて、思ってなかったので。みっともないですけど」
少年は、照れくさそうに頭を掻いた。俺は、その仕草が、年相応に見えて、少しだけ胸が痛くなった。
「みっともなくないだろ」
少年は、少しだけ驚いたような顔をしてから、静かに笑った。
「……足、また動くといいですね」
少年はそう言うと、車椅子を返して、またトレーニングへ戻っていった。
俺は、自分のことが、少しだけ、恥ずかしくなった。
そしてついに、その瞬間が訪れた。
武藤先生が、ぽん、と俺の前に、一つだけサッカーボールを置いた。
「まずは、座ったまま、ボールに触る感覚だけ、思い出してみようか」
俺は、震える手で、そのボールに触れた。
ざらりとした、革の感触。指先に伝わる、空気の圧力。
瞬間、いくつもの記憶が、音もなく押し寄せてきた。
夕暮れのグラウンド。泥だらけのスパイク。健二郎の怒鳴り声。杉浦先輩のパスが足元に収まる感覚。そして、ネットを揺らした時の、あの静かな爆発。
気づけば、俺の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちていた。
その様子を、リハビリ室の隅で、里桜が優しい笑顔で見つめていた。
* * *
ボールに触れるようになってから、俺のリハビリは新たな段階に入った。
もちろん、まだ走ることも、蹴ることもできない。椅子に座ったまま、あるいは壁に手をつきながら、ボールを足元で転がす。トラップする。それだけの、地味な反復練習。
俺はまるで初めてサッカーボールに触れた子供のように、夢中でボールと戯れた。
そして、武藤先生から「そろそろ学校に戻ったらどうか」と提案されたのは、その頃だった。「リハビリは外来で続けられる。学校生活に慣れることも、回復の一部だ」
久しぶりに湊高校の制服を着た朝、俺は少しだけ、玄関の前で立ち止まった。
松葉杖をついて教室に入ると、クラスメイトたちが一瞬だけ静かになった。だが、すぐにいつも通りの空気が戻ってきた。それが、妙に、ありがたかった。
ただ、グラウンドには、まだ行けなかった。
この装具が外れるまでは、あそこに立つ資格はないと自分に言い聞かせて、部室に行くことも封印した。
退院してからの俺の生活は、奇妙な二重生活だった。
午前中は、松葉杖をついて高校に通う。もちろん、まだ普通の授業に出られるわけじゃない。保健室登校で、遅れた分の勉強を、一人で黙々とこなす日々。
昼休みになると、里桜と亜矢が、決まって俺のいる保健室に弁当を持ってやってきた。
「はい、エース様。今日の愛妻、じゃなくて愛マネ弁当」
「誰が愛マネだ、誰が。売店の弁当だろ」
亜矢の軽口に、俺も憎まれ口で返す。里桜は、そんな俺たちのやり取りを、いつも楽しそうに見ていた。
毎日、当たり前のように隣にいる里桜の存在を、俺はいつからか目で追うようになっていた。
彼女が弁当の蓋を開ける、その細い指先。俺の話を聞きながら、楽しそうに細められる、大きな瞳。笑うと、頬にかすかなえくぼができること。
以前は、ただただ腹が立つだけの存在だったはずなのに。
今は彼女の些細な仕草の一つ一つが、俺の胸をチクチクと、そして温かく刺激する。
気づけば俺は、亜矢よりも里桜と話す時間を、無意識に求めているようになっていた。
(……なんだよ、これ)
この感情が何なのか、俺にはまだ、名前をつけることができなかった。
実際にそれを思い知らされたのは、ある昼休みのことだった。
里桜が、保健室に来るのが、その日だけ少し遅かった。
代わりに先に来た亜矢が「里桜、二年の教室で話し込んでるから、ちょっと遅れるって」とだけ言って、弁当を広げた。
「誰と?」
「さあ。男子じゃない?」
亜矢が、何の気なしに言った。
それだけで、俺の箸が、止まった。
別に、いい。里桜がどこで誰と話そうが、俺には関係ない。当たり前だ。
そう自分に言い聞かせながら、弁当を食べた。全然、味がしなかった。
五分後、里桜が「ごめん、遅くなった!」と駆け込んできた。
「誰と、話してたんだ」
思わず口から出ていた。
里桜は、少し驚いたように俺を見て、それからにやりと笑った。
「なんで悠人が気にするの?」
「別に、気にしてねえよ。ただ聞いただけだ」
「ふーん」
里桜は、弁当の蓋を開けながら、澄ました顔で言った。
「二年の男子に、サッカー部のこと聞かれただけだよ。悠人の怪我、大丈夫なのかって」
「…………そうか」
「なんだ、ちょっとホッとした?」
「してねえよ」
「顔に出てるけど」
「出てない」
里桜は、くすくすと笑って、弁当を食べ始めた。
横で、亜矢が「はいはい」とだけ言って、わざとらしく窓の外を見ていた。
俺は、弁当の続きを食べた。
さっきより、ずっと美味かった。
早く元に戻りたい一心で、リハビリへの取り組み方を明らかに変えた。
「武藤先生、もうワンセット、お願いします」
「石川くん、最近、目の色が変わったね。いい顔になってきた」
武藤先生は、口元に笑みを浮かべながら、俺のメニューを少しずつ強化していった。地味な筋力トレーニングに加え、バランスボールを使った体幹トレーニングや、プールでの歩行訓練も始まった。特に、プールでの歩行訓練は、水の抵抗が思った以上に足に食い込み、数メートル歩くだけで全身が悲鳴を上げた。
プールサイドには、いつも里桜がいた。タオルとドリンクを手に、俺が歩き終えるたびに、黙って差し出す。声をかけてくることは、ほとんどなかった。ただ、そこにいた。
その存在が、不思議と、俺には助かった。
そんなある日、武藤先生に連れられて、俺は病院の地下にある広いリハビリ室へと来ていた。
「来週から、少しずつサッカーボールを使ったトレーニングも入れていこうと思う」
「……! ほんとですか!」
だが、ドアを開けた俺の目に飛び込んできたのは、想像もしていない光景だった。
義足をつけた陸上選手。肩に大きなサポーターを巻いた野球選手。そして――車椅子に乗った、俺とさほど年の変わらない少年。
彼は、必死の形相で、上半身の力だけで懸垂を繰り返していた。その額からは、滝のような汗が流れている。
「彼は?」
「バスケットボールの特待生だった子だ。試合中の事故で、脊髄を損傷してね。もう、二度と自分の足で立つことはできないんだ」
武藤先生は、少しだけ悲しげな目をした。
「でも、彼は諦めていない。車いすバスケの選手になるために、毎日ここで俺たちが音を上げるくらいのトレーニングを積んでいる」
俺は黙って、彼の背中を見つめていた。
その日から、俺は彼と顔を合わせるようになった。
最初の数日、少年は俺のことなど眼中にないようだった。黙々と懸垂を繰り返し、終わればすぐに次のメニューへ移る。その集中力は、見ているこちらが気圧されるほどだった。額から汗が滴り落ちても、腕が限界を超えても、少年の目は一度もぶれなかった。
俺も俺で、自分のトレーニングで手一杯だった。互いに、相手の存在を認識しながら、ただ同じ空間にいるだけの日々が続いた。
変わったのは、四日目だったと思う。
俺が体幹トレーニングを終えて、壁際でぼんやりと天井を見上げていた時だった。少年が、車椅子を俺の隣に止めて話しかけてきた。
「……サッカー、ですか」
「ああ」
「膝、なんですね」
「そうだ」
少年はそれだけ確認すると、目で軽く会釈をして、また自分のトレーニングに戻っていった。汗を拭う間も惜しむように、すぐに次のメニューへ移っていく。
翌日、少年はまた俺の隣に車椅子を止めた。
「また、できるようになるんですか」
「……保証はないらしい、けどな」
「そうですか」
少年は、あっさりと頷いた。同情するわけでも、慰めるわけでもなく、ただ事実として受け取るような頷きだった。その潔さが、逆に胸に刺さった。
「怖くは、ないのか」
気づけば、俺は聞いていた。
「何がですか」
「復帰できないかもしれないこと」
少年は、少しだけ考えてから、答えた。
「怖かったですよ。最初は」
「最初は?」
「今は、別のことを考えてるので」
「別のこと?」
「次の試合で、どうやってディフェンスを崩すか、とか」
あっけらかんとした口調だった。
俺は、思わず少年の顔を見た。
「……もう試合のこと考えてるの?」
「考えてないと、手が止まるので」
少年は、そう言って、また懸垂のバーに手をかけた。
「僕も最初は、もう終わりだと思いました」
バーを握ったまま、少年は続けた。
「でも、終わりじゃなかったんです。違うスタートでした」
それだけ言って、少年は体を引き上げた。一回、二回、三回。額に汗が滲んでも、腕が震えても、止まらなかった。
限界まで追い込んでいるはずなのに、その背中に、迷いがない。
俺は、その背中を、しばらく見つめていた。
さらに数日が経った頃だった。
「今日、武藤さんにボール触らせてもらうって、聞きました」
「……ああ」
「よかったですね」
少年は、口元をわずかに緩めた。
「僕も最初にボール触った時、泣きました」
「……バスケのボールか」
「はい。車椅子に乗ったまま、初めてシュート決めた時も泣きました。あんなにリングが遠いなんて、思ってなかったので。みっともないですけど」
少年は、照れくさそうに頭を掻いた。俺は、その仕草が、年相応に見えて、少しだけ胸が痛くなった。
「みっともなくないだろ」
少年は、少しだけ驚いたような顔をしてから、静かに笑った。
「……足、また動くといいですね」
少年はそう言うと、車椅子を返して、またトレーニングへ戻っていった。
俺は、自分のことが、少しだけ、恥ずかしくなった。
そしてついに、その瞬間が訪れた。
武藤先生が、ぽん、と俺の前に、一つだけサッカーボールを置いた。
「まずは、座ったまま、ボールに触る感覚だけ、思い出してみようか」
俺は、震える手で、そのボールに触れた。
ざらりとした、革の感触。指先に伝わる、空気の圧力。
瞬間、いくつもの記憶が、音もなく押し寄せてきた。
夕暮れのグラウンド。泥だらけのスパイク。健二郎の怒鳴り声。杉浦先輩のパスが足元に収まる感覚。そして、ネットを揺らした時の、あの静かな爆発。
気づけば、俺の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちていた。
その様子を、リハビリ室の隅で、里桜が優しい笑顔で見つめていた。
* * *
ボールに触れるようになってから、俺のリハビリは新たな段階に入った。
もちろん、まだ走ることも、蹴ることもできない。椅子に座ったまま、あるいは壁に手をつきながら、ボールを足元で転がす。トラップする。それだけの、地味な反復練習。
俺はまるで初めてサッカーボールに触れた子供のように、夢中でボールと戯れた。
そして、武藤先生から「そろそろ学校に戻ったらどうか」と提案されたのは、その頃だった。「リハビリは外来で続けられる。学校生活に慣れることも、回復の一部だ」
久しぶりに湊高校の制服を着た朝、俺は少しだけ、玄関の前で立ち止まった。
松葉杖をついて教室に入ると、クラスメイトたちが一瞬だけ静かになった。だが、すぐにいつも通りの空気が戻ってきた。それが、妙に、ありがたかった。
ただ、グラウンドには、まだ行けなかった。
この装具が外れるまでは、あそこに立つ資格はないと自分に言い聞かせて、部室に行くことも封印した。
退院してからの俺の生活は、奇妙な二重生活だった。
午前中は、松葉杖をついて高校に通う。もちろん、まだ普通の授業に出られるわけじゃない。保健室登校で、遅れた分の勉強を、一人で黙々とこなす日々。
昼休みになると、里桜と亜矢が、決まって俺のいる保健室に弁当を持ってやってきた。
「はい、エース様。今日の愛妻、じゃなくて愛マネ弁当」
「誰が愛マネだ、誰が。売店の弁当だろ」
亜矢の軽口に、俺も憎まれ口で返す。里桜は、そんな俺たちのやり取りを、いつも楽しそうに見ていた。
毎日、当たり前のように隣にいる里桜の存在を、俺はいつからか目で追うようになっていた。
彼女が弁当の蓋を開ける、その細い指先。俺の話を聞きながら、楽しそうに細められる、大きな瞳。笑うと、頬にかすかなえくぼができること。
以前は、ただただ腹が立つだけの存在だったはずなのに。
今は彼女の些細な仕草の一つ一つが、俺の胸をチクチクと、そして温かく刺激する。
気づけば俺は、亜矢よりも里桜と話す時間を、無意識に求めているようになっていた。
(……なんだよ、これ)
この感情が何なのか、俺にはまだ、名前をつけることができなかった。
実際にそれを思い知らされたのは、ある昼休みのことだった。
里桜が、保健室に来るのが、その日だけ少し遅かった。
代わりに先に来た亜矢が「里桜、二年の教室で話し込んでるから、ちょっと遅れるって」とだけ言って、弁当を広げた。
「誰と?」
「さあ。男子じゃない?」
亜矢が、何の気なしに言った。
それだけで、俺の箸が、止まった。
別に、いい。里桜がどこで誰と話そうが、俺には関係ない。当たり前だ。
そう自分に言い聞かせながら、弁当を食べた。全然、味がしなかった。
五分後、里桜が「ごめん、遅くなった!」と駆け込んできた。
「誰と、話してたんだ」
思わず口から出ていた。
里桜は、少し驚いたように俺を見て、それからにやりと笑った。
「なんで悠人が気にするの?」
「別に、気にしてねえよ。ただ聞いただけだ」
「ふーん」
里桜は、弁当の蓋を開けながら、澄ました顔で言った。
「二年の男子に、サッカー部のこと聞かれただけだよ。悠人の怪我、大丈夫なのかって」
「…………そうか」
「なんだ、ちょっとホッとした?」
「してねえよ」
「顔に出てるけど」
「出てない」
里桜は、くすくすと笑って、弁当を食べ始めた。
横で、亜矢が「はいはい」とだけ言って、わざとらしく窓の外を見ていた。
俺は、弁当の続きを食べた。
さっきより、ずっと美味かった。
