手術から二週間が経った、ある朝のことだった。
武藤先生が病室へ入ってきた。
「石川君、今からギプスを外して、装具に切り替えましょう」
「……装具?」
「ニーブレースといいます。膝を金属の支柱とベルトで固定しながら、少しずつ曲げ伸ばしの角度を調節できる。これに替えることで、可動域の訓練を始められます」
ギプスが外されていく。
ゆっくりと目を向けると、そこにあったのは、痩せ細った、情けないほど細い自分の右足だった。筋肉が落ち、皮膚は白く、ただそこにあるだけの足。吐き気がした。
だが、見ている間もなく、武藤先生の手が、新しい装具を俺の右膝に装着していく。膝の両脇から金属の支柱が伸び、太ももとすねをベルトで締める。膝頭を覆う部分だけ、黒い布製のパッドになっていた。
「重い、ですね」
「最初はそう感じます。でも、これがないと動けない。しばらくはこれと付き合うつもりでいてください」
その翌朝。
俺が目を覚ますと、病室のカーテンは開け放たれ、朝の柔らかい光が差し込んでいた。
窓際には、小さな花瓶に挿されたガーベラが一輪、こちらを見て笑っているかのようだ。
サイドテーブルには、スポーツドリンクとゼリー。そして、一冊の、真新しいノートが置かれていた。
表紙には里桜の丸っこい字で、『悠人のためのリハビリノート②』と書いてあった。
俺は、ゆっくりと身を起こし、そのノートを手に取った。
中を開くと、最初のページには、こう書かれていた。
『まずは、ここから始めよう! (改訂版!)』
その下には、子供でも分かるようなイラスト付きで、ベッドの上でできる簡単なストレッチの方法や、筋肉を維持するためのトレーニングメニューが、ぎっしりと書き込まれていた。
各項目の横には、専門用語と共に、達筆な字で注意点や回数が追記されている。
そして、ノートの最後のページには、『担当理学療法士・武藤』というサインが書かれていた。
その日の午後、里桜は、いつものように病室へやってきた。
「……どう? ノート、見てくれた?」
俺は、ノートの表紙を指さしながら、ぶっきらぼうに尋ねた。
「……おい。なんでいきなり『②』なんだよ。『①』はどうしたんだ」
「あ、それね」
里桜は、少し照れくさそうに、そして気まずそうに頭を掻いた。
「実は、一昨日帰るときに、私が作った『リハビリノート』をこっそり置いていったの。でも、それを見回りに来た看護師さんに見られちゃって……。『気持ちは嬉しいけど、素人判断のメニューは危ないからダメ』って、主治医の先生に報告されちゃったんだ」
里桜は、ぺろりと舌を出した。
「で、先生にちょっとだけ怒られた後、病院のスポーツリハビリ専門の理学療法士さんを紹介してくれて……。私が作った『①』を元に、ちゃんと悠人の今の足の状態に合った、公式な初期リハビリメニューとして、この『②』を一緒に作ってくれたんだ」
そこまで一気に話すと、里桜は俺の顔を恐る恐る覗き込んだ。
「……勝手なことして、ごめん。迷惑だった……?」
俺は何も答えずに、ただノートを彼女の方へ突き返した。
里桜の顔に、一瞬だけ、悲しげな色が浮かぶ。
「……まあ、無理もないか。いきなりこんなの見せられても……」
「……ちげえよ」
俺は、ぼそりと言った。
「……力の入れ方が、よく分かんねえんだよ。こういうの、慣れてねえから」
その言葉に、里桜は、ぱっと顔を輝かせた。
それは、まるで雲間から太陽が差し込んだかのような、まぶしい笑顔だった。
「わ、分かった! 私、武藤先生にやり方、全部教わってきたから! 私が手伝うね!」
その日から、俺たちの「二人三脚」が始まった。
リハビリ、と呼ぶには、それはあまりにも地味で、情けないものだった。
タオルを太ももの下に挟み、ベッドに沈み込まないようにしながら、膝から上の筋肉にただ力を入れて、数秒キープする。それだけだ。動いている実感など、どこにもない。
「はい、あと五秒。いーち、にーい、さーん……」
「……あのな、気が抜けるから、数えるなよ」
「数えないとサボるでしょ、エース様は」
軽口を叩きながらも、里桜は俺の額に滲む汗を、慣れた手つきで拭ってくれる。
かつて、ピッチを縦横無尽に駆け回っていた俺の身体は、わずか数週間の入院生活で、驚くほど衰えていた。ほんの少し動くだけで息が切れ、汗が噴き出す。そして何より、動かすたびに疼く右膝の古傷のような痛みが、俺の心をじわじわと蝕んでいく。
「……もう、やめるわ」
週に何度か、俺はそう言ってタオルを投げ出した。
「こんなことしたって、意味ねえだろ! 俺の足は、もう元には……」
そんな時、里桜は、怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ、きっぱりとした声で言った。
「意味なくなんかない。武藤先生も言ってた。『この地味な一歩が、未来の大きな一歩になる』って」
そして、俺にタオルを投げ戻しながら、こう続けた。
「それに、悠人は一人じゃない。私もいる。監督も、亜矢も、チームのみんなも、待ってるんだよ」
その言葉を聞くと、俺は何も言い返せなくなり、渋々、またトレーニングを再開するのだった。
彼女がそばにいるだけで、不思議と、もう一歩だけ頑張れるような気がした。
そんなある日、病室のドアが、静かに開いた。
入ってきたのは、武田監督だった。その手には、数枚のDVDが握られている。
「ユウト、体調はどうだ」
「……あまり変わりません」
俺がそっけなく答えると、監督は、俺のベッドの脇にあるテレビを指さした。
「少し、付き合え。面白いものを見せてやる」
監督が再生したのは、俺たちが今大会で戦ってきた全試合の映像だった。そこには、俺がゴールを決めて歓喜する姿も、健二郎が身を挺してシュートをブロックする姿も、航が神がかり的なセーブを見せる姿も、全てが記録されていた。
そして、監督は、決勝戦の、俺が怪我をする直前のシーンで、映像を止めた。
「ユウト。お前のあの時のプレーだ。どう思う」
「……俺が、馬鹿だっただけです。チームを無視して、一人で突っ走って……」
「そうだな」
監督は、あっさりと頷いた。
そして、映像を再生した。
画面の中で、俺は担架で運ばれていく。それを呆然と見送るチームメイトたちの顔が、次々と映し出された。
その後の展開を、俺は知らなかった。
交代の選手が、ピッチに入ってきた。一年生FWの高木だった。
練習では、高木とチームとの連携は悪くなかった。杉浦先輩のパスにも迷わず反応できていたし、抜け出すタイミングも掴んでいた。
だが、画面の中の高木は、別人のようだった。
杉浦先輩からのパスに、一歩、出遅れる。ゴール前で、シュートを打てずに迷う。走るコースが、どこかぎこちない。
公式戦の重圧が、練習で積み上げてきたものを、根こそぎ奪っていた。
健二郎が、前線へ飛び出す。だが、噛み合わない。杉浦先輩が、必死にゲームを組み立てようとする。だが、リズムが戻らない。
誰もが、懸命に走っていた。だが、ゴールの匂いが、しない。
試合終了のホイッスルが鳴った。スコアは、0対1のまま。チームは敗れた。
監督が、映像を止めた。
しばらく、沈黙が続いた。
「……高木は、悪くないですよね」
俺は、思わず呟いていた。
「ああ、悪くない。あいつは、よくやった」
監督は、静かに頷いた。
「だが、俺はお前を馬鹿だとも思わん。俺が見たのは、絶望的な状況でも、最後までゴールを諦めなかった、ストライカーの執念だ。あれは、お前にしかできないプレーだった」
「……え……」
「お前のその気持ちが、チームをここまで連れてきたんだ。それは、紛れもない事実だ。だから、自分を責める必要はない」
監督は俺の肩を力強く叩いた。
「医者は、保証はないと言った。だが、ゼロじゃない。お前のサッカー人生がここで終わりかどうか決めるのは、医者でも、俺でもない。お前自身だ」
監督の、厳しくも、温かい言葉。
そして、毎日、俺を励まし続けてくれる、里桜の存在。
俺の心の中で、凍りついていた何かが、ゆっくりと、だが、確実に溶け始めていくのを感じていた。
外したギプスは、病室の隅に立てかけてあった。チームメイトたちがマジックで書いていった寄せ書き(らくがき)が、白い表面にびっしりと並んでいる。
監督が帰ってから数分後、ふと、視線を自分の右膝へと落とす。
新しく装着されたニーブレース。膝の両脇の金属支柱。そして、膝頭を覆う黒い布製のパッド。
その、ちょうど膝頭のあたりに、見慣れないものが貼られているのに、俺は気づいた。
それは、一枚の、水色の絆創膏だった。
子供が好きそうな、デフォルメされた、青い新幹線のキャラクターが、にこっと笑っている。
なんだ、これ。
いつの間に、誰が。
見舞いに来た誰かがふざけて貼っていったのか?
俺は指先で、そっとその絆創膏に触れた。
場違いで、子どもっぽい。
そう思うのに、なぜか、剥がす気にはなれなかった。
むしろ、その小さな新幹線が、この重苦しい病室の中で、唯一、俺を笑わせてくれているような、そんな気がした。
翌日。
目が覚めた瞬間、俺は、反射的に装具の膝頭を見ていた。
まだ、あった。
青い新幹線が、昨日と同じ顔で、にこっと笑っている。
誰が貼ったのか、まだ分からなかった。
健二郎か。航か。それとも、高木か。
あいつらのどれかが、ふざけてやったとしても、不思議ではない。
だがどれを想像しても、しっくりこなかった。
健二郎なら、もっと派手に全面に貼り散らかすだろう。航なら、こんな子供っぽいことはしない。高木は、まだそこまでの距離感じゃない。
俺は、天井を見上げた。
三日が経った。
その間、看護師が何度か俺の装具を確認したが、誰も絆創膏には触れなかった。剥がすでもなく、何も言うでもなく、ただ、そこにあり続けた。
俺も、剥がさなかった。
理由は、自分でもよく分からなかった。
ただ、リハビリの苦しい時間が終わって、病室のベッドに戻るたびに、俺は最初に装具の膝頭を見るようになっていた。
青い新幹線が、にこっと笑っている。
(……馬鹿みたいだな)
自分でも、そう思う。
怪我で寝込んでいる十七歳が、子供向けの絆創膏に何かを見出している。
でも、剥がせなかった。
この絆創膏が、俺に何かを言いかけているような気がして。
五日目の夜。
俺は、見舞いに来た航に、さりげなく聞いてみた。
「……お前、俺のヒザのところに何か貼ったか」
航は、ぽかんとした顔をした。
「何も貼ってないけど。何かあったのか」
「別に」
健二郎にも、同じように聞いた。
「あ? ヒザに? 何も貼ってねえよ。俺、そんな趣味ねえし」
高木にも聞いた。
「え、僕じゃないです。でも、何ですかそれ。見せてください」
全員、心当たりがなかった。
(……じゃあ、誰だ)
その夜、里桜が病室に来た。
いつものように、スポーツドリンクと栄養ゼリーを補充して、
「今日のリハビリ、どうだった?」
と聞いてくる。
俺は、今度は里桜に直接、聞いてみた。
「……お前、知らないか。この装具に貼ってある絆創膏」
里桜の動きが、一瞬、止まった。
ほんの一瞬だった。
「さあ。誰かのイタズラじゃない?」
彼女は、すぐに何事もなかったような顔で、ノートを開いた。
俺は、その横顔を、しばらく見ていた。
航は知らなかった。健二郎も知らなかった。高木も知らなかった。
そして今、里桜だけが、一瞬、止まった。
だが、その一瞬が、俺の頭から、消えなかった。
七日目の朝。
目が覚めた瞬間、俺はいつもの癖で、装具の膝頭を見た。
息が、止まった。
絆創膏が、二枚になっていた。
最初の一枚、青い新幹線の隣に、もう一枚。
今度は、水色の恐竜だった。
少しデフォルメされた、丸っこい恐竜が、こちらを向いて笑っている。
俺は、しばらく、その二枚を見つめたまま、動けなかった。
誰なんだ。
俺が眠っている間に、気づかれないように、そっと貼っていった。
それだけのことだ。
なのに、胸の奥が、じわりと温かくなった。
新幹線と、恐竜。
その時、ふっと、何かが頭をよぎった。
(……まさかね)
俺は、その考えを、すぐに打ち消した。
そんなはず、ない。あれは、ただの夢だ。
でも。
俺の目は、また、二枚の絆創膏に向かっていた。
にこっと笑う、小さな顔が、二つ。
どこか、あの夢の女の子の笑顔に、似ているような気がした。
俺は、絆創膏の上から、自分の膝を、そっと撫でた。
再起への道は、まだ始まったばかりだ。暗く、長く、出口の見えないトンネルかもしれない。
だが、今はもう、俺は一人じゃなかった。
この、小さな新幹線と恐竜と、そして、俺を支えてくれる仲間たちと、一緒だった。
その日の夜、俺は初めて、里桜が作ってくれた『リハビリノート②』を、最初のページから最後まで、じっくりと読み返した。
メニューの合間には、彼女の丸っこい字で、たくさんの応援メッセージが書き込まれていた。
『今日の腹筋、昨日より一回多くできたね! すごい!』
『焦らない、焦らない。悠人のペースでいこう』
そして、最後のページには、小さな文字で、こう書かれていた。
『いつかまた、あなたのゴールで笑える日が来ますように』
その文字が、なぜか、滲んでよく見えなかった。
俺は、ノートを強く握りしめた。
* * *
夏の暑さが、少しずつ和らぎ始めていた。
ギプスが外れニーブレースになったところで、すぐに歩けるわけじゃない。痩せ細った自分の足は自分の意志とは無関係にガクガクと震える、
そこから、本格的なリハビリが始まった。担当の理学療法士、武藤先生の指導のもと、まずは松葉杖を使って、一歩、また一歩と、赤ん坊のように歩く練習から。たった数メートル進むだけで、全身が汗でびっしょりになる。焦りと、もどかしさ。そして、時折、膝の奥で疼く鈍い痛みが、俺の心を何度も折りかけた。
そんな俺を、里桜は毎日、飽きもせず支え続けてくれた。
「すごい! 昨日より、三歩も多く進めたじゃん!」
「……うるせえな。ガキ扱いすんな」
「事実でしょ。じゃあ、ご褒美に今日の夕飯のメニューを教えてあげよう」
彼女は、俺のリハビリノートに、歩いた距離や、できたトレーニングを、まるで自分のことのように嬉しそうに書き込んでいく。そのノートは、今や『③』になっていた。
最近、里桜は少し変わったと思う。
ただ闇雲に応援するだけでなく、俺のリハビリそのものに、深く関わろうとするようになったのだ。ある日の午後、病室で俺が一人で自主トレをしていると、里桜が、数冊の分厚い本を抱えてやってきた。
「悠人、これ見て! 武藤先生に借りたんだけど、前十字靭帯のリハビリって、ただ筋力を戻すだけじゃダメなんだって。神経系の再教育っていうのが、すごく大事らしくて……」
そう言って彼女が見せてくれた専門書には、びっしりとマーカーが引かれ、彼女の丸っこい字でたくさんのメモが書き込まれていた。
「私、自分の進路のこと、ずっと悩んでたんだけどさ」
彼女は少し照れくさそうに、でもまっすぐな目で俺を見て言った。
「武藤先生の仕事を見てて、すごいなって思ったの。ただ怪我を治すだけじゃなくて、選手の心に寄り添って、未来への道を一緒に創っていく。私も、こんな風に、誰かの未来を支えられる人になりたいなって、ちょっと思ってるんだ」
その横顔は、ただマネージャーとしてではなく、一つの確かな夢を見つけ始めた、一人の人間の顔だった。
それからというもの、彼女は、俺のリハビリ中、武藤先生が使う「可動域」だとか「伸張反射」だとか、そういう専門用語を、当たり前のように口にするようになった。
「悠人、今のトレーニングは、大腿四頭筋の内側広筋を意識して!」
「……なんだよ、そのキン」
「もう、そこが一番大事な筋肉なの! 武藤先生に、ちゃんと聞いてきたんだから!」
今や里桜はただの部活のマネージャーじゃない。
学校の勉強の合間に、理学療法のこともかなり勉強してくれている。
ある日のリハビリ後、里桜が武藤先生に質問しているのを、俺は偶然、廊下で聞いた。
「先生、前十字靭帯の再建術後のリハビリで、一番難しいのって、どの段階ですか」
武藤先生が少し驚いた顔をしていた。
「……難しい質問だね。医学的には、術後三ヶ月から六ヶ月の間、筋力は戻っても、関節の固有感覚がまだ完全に回復していない時期が一番危ない。再断裂のリスクが最も高い。でも、精神的には、その前の段階、まだ走れない時期に患者が希望を失いそうになる瞬間が、一番難しいと思っている」
「……希望を失わせないために、先生は何をしていますか」
武藤先生は、しばらく考えてから答えた。
「小さな成功を、毎日、一つだけ見せてあげること。昨日より一センチ多く曲がった、昨日より一歩多く歩けた。それだけでいい」
里桜は、そのやりとりを、ノートに書き込んでいた。
俺は、廊下の柱の陰から、その姿を見ていた。
こいつは、俺のために、こんなことを聞いていたのか。
別の日には、里桜が、リハビリ室の隅で、武藤先生から借りたという解剖図を広げていた。膝関節の断面図。前十字靭帯の走行。大腿四頭筋と半腱様筋の位置関係。
俺が「何やってんだ」と声をかけると、里桜は顔を上げた。
「悠人の膝、ちゃんと知りたくて」
「…………なんで」
「知らないまま応援するのは、なんか違う気がして。痛い場所も、頑張ってる筋肉も、全部分かってから、一緒にいたい」
俺は、返す言葉が見つからなかった。
その夜、里桜が帰った後、俺はふと、自分の右膝を見た。
装具に二枚の絆創膏があった場所。
里桜は、俺の膝の中に何があるかを、解剖図を見ながら調べていた。
その事実が、じわりと、胸に沁みた。
さらに数日後。
俺が松葉杖の使い方を誤って、廊下でバランスを崩しかけた時のことだった。
里桜が、素早く俺の腕を掴んだ。
「右膝に体重かけないで。左足と松葉杖で支えて」
その言葉は、慌てた声ではなかった。落ち着いた、確信のある声だった。
「……俺がこけそうになるって、なんで分かった」
「武藤先生の動画、見てたから」
「動画?」
「松葉杖の正しい使い方の動画。悠人が変な癖をつけないように、私もちゃんと見ておこうと思って」
俺は、松葉杖を握り直しながら、前を向いた。
言葉が、出なかった。
ありがとう、とは言えなかった。
でも、この時、俺は初めて、はっきりと思った。
こいつに、ちゃんと向き合わなければいけない、と。
武藤先生が病室へ入ってきた。
「石川君、今からギプスを外して、装具に切り替えましょう」
「……装具?」
「ニーブレースといいます。膝を金属の支柱とベルトで固定しながら、少しずつ曲げ伸ばしの角度を調節できる。これに替えることで、可動域の訓練を始められます」
ギプスが外されていく。
ゆっくりと目を向けると、そこにあったのは、痩せ細った、情けないほど細い自分の右足だった。筋肉が落ち、皮膚は白く、ただそこにあるだけの足。吐き気がした。
だが、見ている間もなく、武藤先生の手が、新しい装具を俺の右膝に装着していく。膝の両脇から金属の支柱が伸び、太ももとすねをベルトで締める。膝頭を覆う部分だけ、黒い布製のパッドになっていた。
「重い、ですね」
「最初はそう感じます。でも、これがないと動けない。しばらくはこれと付き合うつもりでいてください」
その翌朝。
俺が目を覚ますと、病室のカーテンは開け放たれ、朝の柔らかい光が差し込んでいた。
窓際には、小さな花瓶に挿されたガーベラが一輪、こちらを見て笑っているかのようだ。
サイドテーブルには、スポーツドリンクとゼリー。そして、一冊の、真新しいノートが置かれていた。
表紙には里桜の丸っこい字で、『悠人のためのリハビリノート②』と書いてあった。
俺は、ゆっくりと身を起こし、そのノートを手に取った。
中を開くと、最初のページには、こう書かれていた。
『まずは、ここから始めよう! (改訂版!)』
その下には、子供でも分かるようなイラスト付きで、ベッドの上でできる簡単なストレッチの方法や、筋肉を維持するためのトレーニングメニューが、ぎっしりと書き込まれていた。
各項目の横には、専門用語と共に、達筆な字で注意点や回数が追記されている。
そして、ノートの最後のページには、『担当理学療法士・武藤』というサインが書かれていた。
その日の午後、里桜は、いつものように病室へやってきた。
「……どう? ノート、見てくれた?」
俺は、ノートの表紙を指さしながら、ぶっきらぼうに尋ねた。
「……おい。なんでいきなり『②』なんだよ。『①』はどうしたんだ」
「あ、それね」
里桜は、少し照れくさそうに、そして気まずそうに頭を掻いた。
「実は、一昨日帰るときに、私が作った『リハビリノート』をこっそり置いていったの。でも、それを見回りに来た看護師さんに見られちゃって……。『気持ちは嬉しいけど、素人判断のメニューは危ないからダメ』って、主治医の先生に報告されちゃったんだ」
里桜は、ぺろりと舌を出した。
「で、先生にちょっとだけ怒られた後、病院のスポーツリハビリ専門の理学療法士さんを紹介してくれて……。私が作った『①』を元に、ちゃんと悠人の今の足の状態に合った、公式な初期リハビリメニューとして、この『②』を一緒に作ってくれたんだ」
そこまで一気に話すと、里桜は俺の顔を恐る恐る覗き込んだ。
「……勝手なことして、ごめん。迷惑だった……?」
俺は何も答えずに、ただノートを彼女の方へ突き返した。
里桜の顔に、一瞬だけ、悲しげな色が浮かぶ。
「……まあ、無理もないか。いきなりこんなの見せられても……」
「……ちげえよ」
俺は、ぼそりと言った。
「……力の入れ方が、よく分かんねえんだよ。こういうの、慣れてねえから」
その言葉に、里桜は、ぱっと顔を輝かせた。
それは、まるで雲間から太陽が差し込んだかのような、まぶしい笑顔だった。
「わ、分かった! 私、武藤先生にやり方、全部教わってきたから! 私が手伝うね!」
その日から、俺たちの「二人三脚」が始まった。
リハビリ、と呼ぶには、それはあまりにも地味で、情けないものだった。
タオルを太ももの下に挟み、ベッドに沈み込まないようにしながら、膝から上の筋肉にただ力を入れて、数秒キープする。それだけだ。動いている実感など、どこにもない。
「はい、あと五秒。いーち、にーい、さーん……」
「……あのな、気が抜けるから、数えるなよ」
「数えないとサボるでしょ、エース様は」
軽口を叩きながらも、里桜は俺の額に滲む汗を、慣れた手つきで拭ってくれる。
かつて、ピッチを縦横無尽に駆け回っていた俺の身体は、わずか数週間の入院生活で、驚くほど衰えていた。ほんの少し動くだけで息が切れ、汗が噴き出す。そして何より、動かすたびに疼く右膝の古傷のような痛みが、俺の心をじわじわと蝕んでいく。
「……もう、やめるわ」
週に何度か、俺はそう言ってタオルを投げ出した。
「こんなことしたって、意味ねえだろ! 俺の足は、もう元には……」
そんな時、里桜は、怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ、きっぱりとした声で言った。
「意味なくなんかない。武藤先生も言ってた。『この地味な一歩が、未来の大きな一歩になる』って」
そして、俺にタオルを投げ戻しながら、こう続けた。
「それに、悠人は一人じゃない。私もいる。監督も、亜矢も、チームのみんなも、待ってるんだよ」
その言葉を聞くと、俺は何も言い返せなくなり、渋々、またトレーニングを再開するのだった。
彼女がそばにいるだけで、不思議と、もう一歩だけ頑張れるような気がした。
そんなある日、病室のドアが、静かに開いた。
入ってきたのは、武田監督だった。その手には、数枚のDVDが握られている。
「ユウト、体調はどうだ」
「……あまり変わりません」
俺がそっけなく答えると、監督は、俺のベッドの脇にあるテレビを指さした。
「少し、付き合え。面白いものを見せてやる」
監督が再生したのは、俺たちが今大会で戦ってきた全試合の映像だった。そこには、俺がゴールを決めて歓喜する姿も、健二郎が身を挺してシュートをブロックする姿も、航が神がかり的なセーブを見せる姿も、全てが記録されていた。
そして、監督は、決勝戦の、俺が怪我をする直前のシーンで、映像を止めた。
「ユウト。お前のあの時のプレーだ。どう思う」
「……俺が、馬鹿だっただけです。チームを無視して、一人で突っ走って……」
「そうだな」
監督は、あっさりと頷いた。
そして、映像を再生した。
画面の中で、俺は担架で運ばれていく。それを呆然と見送るチームメイトたちの顔が、次々と映し出された。
その後の展開を、俺は知らなかった。
交代の選手が、ピッチに入ってきた。一年生FWの高木だった。
練習では、高木とチームとの連携は悪くなかった。杉浦先輩のパスにも迷わず反応できていたし、抜け出すタイミングも掴んでいた。
だが、画面の中の高木は、別人のようだった。
杉浦先輩からのパスに、一歩、出遅れる。ゴール前で、シュートを打てずに迷う。走るコースが、どこかぎこちない。
公式戦の重圧が、練習で積み上げてきたものを、根こそぎ奪っていた。
健二郎が、前線へ飛び出す。だが、噛み合わない。杉浦先輩が、必死にゲームを組み立てようとする。だが、リズムが戻らない。
誰もが、懸命に走っていた。だが、ゴールの匂いが、しない。
試合終了のホイッスルが鳴った。スコアは、0対1のまま。チームは敗れた。
監督が、映像を止めた。
しばらく、沈黙が続いた。
「……高木は、悪くないですよね」
俺は、思わず呟いていた。
「ああ、悪くない。あいつは、よくやった」
監督は、静かに頷いた。
「だが、俺はお前を馬鹿だとも思わん。俺が見たのは、絶望的な状況でも、最後までゴールを諦めなかった、ストライカーの執念だ。あれは、お前にしかできないプレーだった」
「……え……」
「お前のその気持ちが、チームをここまで連れてきたんだ。それは、紛れもない事実だ。だから、自分を責める必要はない」
監督は俺の肩を力強く叩いた。
「医者は、保証はないと言った。だが、ゼロじゃない。お前のサッカー人生がここで終わりかどうか決めるのは、医者でも、俺でもない。お前自身だ」
監督の、厳しくも、温かい言葉。
そして、毎日、俺を励まし続けてくれる、里桜の存在。
俺の心の中で、凍りついていた何かが、ゆっくりと、だが、確実に溶け始めていくのを感じていた。
外したギプスは、病室の隅に立てかけてあった。チームメイトたちがマジックで書いていった寄せ書き(らくがき)が、白い表面にびっしりと並んでいる。
監督が帰ってから数分後、ふと、視線を自分の右膝へと落とす。
新しく装着されたニーブレース。膝の両脇の金属支柱。そして、膝頭を覆う黒い布製のパッド。
その、ちょうど膝頭のあたりに、見慣れないものが貼られているのに、俺は気づいた。
それは、一枚の、水色の絆創膏だった。
子供が好きそうな、デフォルメされた、青い新幹線のキャラクターが、にこっと笑っている。
なんだ、これ。
いつの間に、誰が。
見舞いに来た誰かがふざけて貼っていったのか?
俺は指先で、そっとその絆創膏に触れた。
場違いで、子どもっぽい。
そう思うのに、なぜか、剥がす気にはなれなかった。
むしろ、その小さな新幹線が、この重苦しい病室の中で、唯一、俺を笑わせてくれているような、そんな気がした。
翌日。
目が覚めた瞬間、俺は、反射的に装具の膝頭を見ていた。
まだ、あった。
青い新幹線が、昨日と同じ顔で、にこっと笑っている。
誰が貼ったのか、まだ分からなかった。
健二郎か。航か。それとも、高木か。
あいつらのどれかが、ふざけてやったとしても、不思議ではない。
だがどれを想像しても、しっくりこなかった。
健二郎なら、もっと派手に全面に貼り散らかすだろう。航なら、こんな子供っぽいことはしない。高木は、まだそこまでの距離感じゃない。
俺は、天井を見上げた。
三日が経った。
その間、看護師が何度か俺の装具を確認したが、誰も絆創膏には触れなかった。剥がすでもなく、何も言うでもなく、ただ、そこにあり続けた。
俺も、剥がさなかった。
理由は、自分でもよく分からなかった。
ただ、リハビリの苦しい時間が終わって、病室のベッドに戻るたびに、俺は最初に装具の膝頭を見るようになっていた。
青い新幹線が、にこっと笑っている。
(……馬鹿みたいだな)
自分でも、そう思う。
怪我で寝込んでいる十七歳が、子供向けの絆創膏に何かを見出している。
でも、剥がせなかった。
この絆創膏が、俺に何かを言いかけているような気がして。
五日目の夜。
俺は、見舞いに来た航に、さりげなく聞いてみた。
「……お前、俺のヒザのところに何か貼ったか」
航は、ぽかんとした顔をした。
「何も貼ってないけど。何かあったのか」
「別に」
健二郎にも、同じように聞いた。
「あ? ヒザに? 何も貼ってねえよ。俺、そんな趣味ねえし」
高木にも聞いた。
「え、僕じゃないです。でも、何ですかそれ。見せてください」
全員、心当たりがなかった。
(……じゃあ、誰だ)
その夜、里桜が病室に来た。
いつものように、スポーツドリンクと栄養ゼリーを補充して、
「今日のリハビリ、どうだった?」
と聞いてくる。
俺は、今度は里桜に直接、聞いてみた。
「……お前、知らないか。この装具に貼ってある絆創膏」
里桜の動きが、一瞬、止まった。
ほんの一瞬だった。
「さあ。誰かのイタズラじゃない?」
彼女は、すぐに何事もなかったような顔で、ノートを開いた。
俺は、その横顔を、しばらく見ていた。
航は知らなかった。健二郎も知らなかった。高木も知らなかった。
そして今、里桜だけが、一瞬、止まった。
だが、その一瞬が、俺の頭から、消えなかった。
七日目の朝。
目が覚めた瞬間、俺はいつもの癖で、装具の膝頭を見た。
息が、止まった。
絆創膏が、二枚になっていた。
最初の一枚、青い新幹線の隣に、もう一枚。
今度は、水色の恐竜だった。
少しデフォルメされた、丸っこい恐竜が、こちらを向いて笑っている。
俺は、しばらく、その二枚を見つめたまま、動けなかった。
誰なんだ。
俺が眠っている間に、気づかれないように、そっと貼っていった。
それだけのことだ。
なのに、胸の奥が、じわりと温かくなった。
新幹線と、恐竜。
その時、ふっと、何かが頭をよぎった。
(……まさかね)
俺は、その考えを、すぐに打ち消した。
そんなはず、ない。あれは、ただの夢だ。
でも。
俺の目は、また、二枚の絆創膏に向かっていた。
にこっと笑う、小さな顔が、二つ。
どこか、あの夢の女の子の笑顔に、似ているような気がした。
俺は、絆創膏の上から、自分の膝を、そっと撫でた。
再起への道は、まだ始まったばかりだ。暗く、長く、出口の見えないトンネルかもしれない。
だが、今はもう、俺は一人じゃなかった。
この、小さな新幹線と恐竜と、そして、俺を支えてくれる仲間たちと、一緒だった。
その日の夜、俺は初めて、里桜が作ってくれた『リハビリノート②』を、最初のページから最後まで、じっくりと読み返した。
メニューの合間には、彼女の丸っこい字で、たくさんの応援メッセージが書き込まれていた。
『今日の腹筋、昨日より一回多くできたね! すごい!』
『焦らない、焦らない。悠人のペースでいこう』
そして、最後のページには、小さな文字で、こう書かれていた。
『いつかまた、あなたのゴールで笑える日が来ますように』
その文字が、なぜか、滲んでよく見えなかった。
俺は、ノートを強く握りしめた。
* * *
夏の暑さが、少しずつ和らぎ始めていた。
ギプスが外れニーブレースになったところで、すぐに歩けるわけじゃない。痩せ細った自分の足は自分の意志とは無関係にガクガクと震える、
そこから、本格的なリハビリが始まった。担当の理学療法士、武藤先生の指導のもと、まずは松葉杖を使って、一歩、また一歩と、赤ん坊のように歩く練習から。たった数メートル進むだけで、全身が汗でびっしょりになる。焦りと、もどかしさ。そして、時折、膝の奥で疼く鈍い痛みが、俺の心を何度も折りかけた。
そんな俺を、里桜は毎日、飽きもせず支え続けてくれた。
「すごい! 昨日より、三歩も多く進めたじゃん!」
「……うるせえな。ガキ扱いすんな」
「事実でしょ。じゃあ、ご褒美に今日の夕飯のメニューを教えてあげよう」
彼女は、俺のリハビリノートに、歩いた距離や、できたトレーニングを、まるで自分のことのように嬉しそうに書き込んでいく。そのノートは、今や『③』になっていた。
最近、里桜は少し変わったと思う。
ただ闇雲に応援するだけでなく、俺のリハビリそのものに、深く関わろうとするようになったのだ。ある日の午後、病室で俺が一人で自主トレをしていると、里桜が、数冊の分厚い本を抱えてやってきた。
「悠人、これ見て! 武藤先生に借りたんだけど、前十字靭帯のリハビリって、ただ筋力を戻すだけじゃダメなんだって。神経系の再教育っていうのが、すごく大事らしくて……」
そう言って彼女が見せてくれた専門書には、びっしりとマーカーが引かれ、彼女の丸っこい字でたくさんのメモが書き込まれていた。
「私、自分の進路のこと、ずっと悩んでたんだけどさ」
彼女は少し照れくさそうに、でもまっすぐな目で俺を見て言った。
「武藤先生の仕事を見てて、すごいなって思ったの。ただ怪我を治すだけじゃなくて、選手の心に寄り添って、未来への道を一緒に創っていく。私も、こんな風に、誰かの未来を支えられる人になりたいなって、ちょっと思ってるんだ」
その横顔は、ただマネージャーとしてではなく、一つの確かな夢を見つけ始めた、一人の人間の顔だった。
それからというもの、彼女は、俺のリハビリ中、武藤先生が使う「可動域」だとか「伸張反射」だとか、そういう専門用語を、当たり前のように口にするようになった。
「悠人、今のトレーニングは、大腿四頭筋の内側広筋を意識して!」
「……なんだよ、そのキン」
「もう、そこが一番大事な筋肉なの! 武藤先生に、ちゃんと聞いてきたんだから!」
今や里桜はただの部活のマネージャーじゃない。
学校の勉強の合間に、理学療法のこともかなり勉強してくれている。
ある日のリハビリ後、里桜が武藤先生に質問しているのを、俺は偶然、廊下で聞いた。
「先生、前十字靭帯の再建術後のリハビリで、一番難しいのって、どの段階ですか」
武藤先生が少し驚いた顔をしていた。
「……難しい質問だね。医学的には、術後三ヶ月から六ヶ月の間、筋力は戻っても、関節の固有感覚がまだ完全に回復していない時期が一番危ない。再断裂のリスクが最も高い。でも、精神的には、その前の段階、まだ走れない時期に患者が希望を失いそうになる瞬間が、一番難しいと思っている」
「……希望を失わせないために、先生は何をしていますか」
武藤先生は、しばらく考えてから答えた。
「小さな成功を、毎日、一つだけ見せてあげること。昨日より一センチ多く曲がった、昨日より一歩多く歩けた。それだけでいい」
里桜は、そのやりとりを、ノートに書き込んでいた。
俺は、廊下の柱の陰から、その姿を見ていた。
こいつは、俺のために、こんなことを聞いていたのか。
別の日には、里桜が、リハビリ室の隅で、武藤先生から借りたという解剖図を広げていた。膝関節の断面図。前十字靭帯の走行。大腿四頭筋と半腱様筋の位置関係。
俺が「何やってんだ」と声をかけると、里桜は顔を上げた。
「悠人の膝、ちゃんと知りたくて」
「…………なんで」
「知らないまま応援するのは、なんか違う気がして。痛い場所も、頑張ってる筋肉も、全部分かってから、一緒にいたい」
俺は、返す言葉が見つからなかった。
その夜、里桜が帰った後、俺はふと、自分の右膝を見た。
装具に二枚の絆創膏があった場所。
里桜は、俺の膝の中に何があるかを、解剖図を見ながら調べていた。
その事実が、じわりと、胸に沁みた。
さらに数日後。
俺が松葉杖の使い方を誤って、廊下でバランスを崩しかけた時のことだった。
里桜が、素早く俺の腕を掴んだ。
「右膝に体重かけないで。左足と松葉杖で支えて」
その言葉は、慌てた声ではなかった。落ち着いた、確信のある声だった。
「……俺がこけそうになるって、なんで分かった」
「武藤先生の動画、見てたから」
「動画?」
「松葉杖の正しい使い方の動画。悠人が変な癖をつけないように、私もちゃんと見ておこうと思って」
俺は、松葉杖を握り直しながら、前を向いた。
言葉が、出なかった。
ありがとう、とは言えなかった。
でも、この時、俺は初めて、はっきりと思った。
こいつに、ちゃんと向き合わなければいけない、と。
