夕立みたいな恋だった

 あの残酷な昼休みの出来事から、数日が過ぎた。
 教室の空気は、何事もなかったかのように平穏に凪いでいる。友人たちは私を「今まで通りの無害な結衣」として扱い、私はその期待に応えるように、数ミリだけ口角を上げた完璧な愛想笑いを貼り付けて日々を消費していた。
 しかし、私と瀬野蒼太との間には、目に見えない、けれど決して越えられない分厚い壁がそびえ立っていた。

 授業中、背中越しに視線を感じることはもう二度となくなった。
 私がどれだけ後ろを振り返っても、彼はただ窓の外の流れる雲をぼんやりと見つめているか、机に突っ伏して寝ているだけだ。私のことなど、この教室の風景のピクセルの一つとしてすら認識していないかのように。

 謝らなければ。本当はあんなこと思っていないと、あの言葉は自分を守るためだけの浅ましい嘘だったのだと、伝えなければならない。
 頭の中では何度もシミュレーションを繰り返すのに、いざ彼の背中を前にすると、足が床に縫い付けられたように動かなくなる。
「今さら何を言いに来たの?」「もう関わらないで」
 彼からそんな冷たい言葉を投げつけられるかもしれない恐怖が、私をその場に縛り付けた。結局のところ、私は彼を傷つけた罪悪感よりも、自分が彼から拒絶されて自分が傷つくことの方が怖いのだ。
 そんな自分の底知れない未熟さと保身に走る醜さに絶望しながらも、私は「優等生」という安全な着ぐるみの中で息を潜め、逃げ続けていた。

 金曜日の放課後。
 朝から空を覆っていた分厚い灰色の雲が、ついに限界を迎えたように泣き出した。
 ポツポツという遠慮がちな雨は、あっという間に景色を白く霞ませるほどの激しい本降りへと変わっていった。窓ガラスを叩きつける荒々しい雨音が、教室の喧騒を遠くへ押し流していく。

 日直の仕事を終えて教室を出ると、前方を歩く見慣れた背中を見つけた。
 無造作に鞄を肩に掛け、少し猫背で歩く蒼太の姿。首元には、今日もあの黒いカメラが揺れている。
 彼が階段を下りていく足音が、やけに大きく耳に響いた。

 今日を逃したら、週末を挟んで二日間もこの息が詰まるような後悔を引きずることになる。
 その焦燥感が、ついに私の中から「保身」というストッパーを外した。

「瀬野くん!」

 昇降口へ続く廊下で、私は気づけば声を張り上げていた。
 上履きがリノリウムの床を擦る音を響かせ、小走りで彼の背中を追いかける。

 蒼太は足を止め、ゆっくりと振り返った。
 その顔には驚きも、期待もなく、ただ静かな湖面のような平坦さだけがあった。

「あの……」

 いざ彼を前にすると、喉がカラカラに乾いて言葉が出てこない。外の激しい雨音が、私を急かすように耳を打つ。

「……あの時は、ごめんなさい」

 絞り出した声は、自分でも情けなくなるほど小さく、震えていた。
 私は必死に言葉を繋ごうとした。

「あの時は、本当はあんなこと思ってなくて。でも、クラスで変に噂されるのが怖くて、パニックになっちゃって……つい、あんな風に言っちゃっただけで」

 言えば言うほど、自分の言葉が空虚に響くのが分かった。

「私、瀬野くんのこと変だなんて思ってない。本当だよ。ただ、急に真由たちに聞かれたから、どう答えていいか分からなくて……」

 それは謝罪の形を借りた、醜悪な自己正当化だった。
「私は悪くない」「状況が私に嘘をつかせただけだ」「だから私を嫌わないで」。
 言葉の端々から滲み出す私の甘えと保身を、蒼太が気づかないはずがなかった。

 蒼太は私の必死の弁解を遮ることもなく、ただ静かに聞いていた。
 彼はずぶ濡れになった私の上履きと、必死にすがりつこうとする私の顔を交互に見つめ、ふっと小さく息を吐いた。
 怒ってはいなかった。軽蔑の眼差しすら向けてくれなかった。

 ただ、彼の色素の薄い瞳の奥に、ひどく深く、どうしようもないほどの「寂しさ」が沈んでいくのが見えた。
 あの日、神社の軒下で「すべてはいずれ失われる」と呟いた時と同じ、諦観に満ちた孤独な色。

「……結衣はさ」

 彼が私の名前を呼んだ。
 けれど、それはもう、あの旧校舎の化学準備室で呼ばれた時のような、特別な輪郭を持った響きではなかった。

「結局いつも、傘の中で濡れないようにしてるだけじゃん」

 ドクン、と。
 心臓を、鋭く冷たい氷の刃で真っ二つに切り裂かれたような気がした。

 私は、しっかりとした「言い訳」という折り畳み傘を差して、自分が傷つかない安全な場所から彼に言葉を投げているだけだ。
 泥水にまみれてでも、彼と同じ土砂降りの雨の中へ飛び込む覚悟なんて、最初から一ミリも持っていなかった。
「同じ世界に来てくれると思っていたのに、違ったんだな」
 そう言われたような気がした。
 彼の静かな声には、私に対する深い絶望と諦めが込められていた。

 図星を突かれた私は、返す言葉を完全に失った。
 喉の奥が痙攣したようにヒクヒクと動くのに、音声にはならない。鞄の取っ手を握りしめる指先は血の気が引き、白く冷たくなっていた。

「じゃあな」

 蒼太は短くそれだけを言い残し、昇降口のドアを押し開けた。

 灰色の空から容赦なく降り注ぐ土砂降りの雨の中へ、彼は傘も差さずに歩き出していく。
 アスファルトに跳ね返る無数の雨粒が、彼の足元を白く霞ませる。制服の肩がすぐに黒く濡れそぼっていくのが見えた。

 追いかけなきゃ。
 今度こそ、私が握りしめているこの卑怯な傘をかなぐり捨てて、あの雨の中へ飛び込んで、彼の腕を掴まなきゃ。
 頭の中では警鐘がけたたましく鳴り響いているのに、私の足は、昇降口のタイルの上で微動だにしなかった。
 安全な場所から一歩も踏み出せない自分の愚かさと弱さが、ただただ呪わしかった。

 激しい雨音の向こう側へと、色素の薄い髪が揺れながら少しずつ小さくなっていく。
 私は息をするのも忘れて、その無防備で潔い背中を見つめ続けていた。

 あの時、もし私が一歩を踏み出していれば。
 泥だらけになっても彼を追いかけていれば、未来は変わっていたのだろうか。

 ――遠ざかる彼の背中が、私が生きている彼を見た最後だった。