机の奥に隠した一枚の写真が、私に魔法をかけていた。
あの日から、退屈で息苦しかったはずの教室の空気が、ほんの少しだけ違って感じられた。授業中、背中に視線を感じて振り返ると、窓際の席の彼と目が合う。言葉は交わさなくても、彼がほんのわずかに口角を上げるだけで、私の中の秘密の通信が繋がり、胸の奥に温かい光が灯る。
私たちは相変わらず、教室では一言も話さない。けれど、この透明な箱の中で、確かに私たちだけが共有している「秘密の空間」があった。それだけで、私はどんなに窮屈な時間も息をしていられたのだ。
しかし、私が浮かれた夢に浸っていたその「いつもと違う空気」を、教室という狭い社会のセンサーは、残酷なほど正確に嗅ぎつけていた。
木曜日の昼休み。いつものように机を寄せて、友人たちとお弁当を食べていた時のことだ。
話題が途切れ、少しの沈黙が落ちた瞬間、グループのリーダー格である真由が、不意に箸を止めて私を真っ直ぐに見据えた。
「ねえ、結衣」
「ん? なに?」
「最近さ、結衣って瀬野くんのことよく見てない? 授業中とかも、しょっちゅう後ろ振り返ってるし」
心臓が、ヒュッと嫌な音を立てて跳ね上がった。
「えっ……」
「この前もさ、瀬野くんのこと庇ってたじゃん。もしかして、二人って何かあるの? 仲良いの?」
真由の探るような視線に、他の友人たちも一斉に私へ顔を向けた。
ピンと張り詰めた空気が、私の全身を鋭く突き刺す。呼吸の仕方を忘れたように、喉がカラカラに乾いていくのが分かった。
ここで「うん、少しだけ話すようになったよ」と正直に言えば、どうなるか。
「え、結衣ってあっち側なの?」「関わらない方がいいって言ったじゃん」と、今まで私が必死に守り抜いてきた、この教室での平穏なポジションは確実に壊れる。彼女たちの引く境界線の外側に弾き出され、私は「異物」として扱われるようになる。
その恐怖が、黒い泥水のように足元から一気に這い上がってきた。
怖い。嫌われたくない。今の安全な場所を失いたくない。
まだ完全に「透明な傘」を捨てきれていなかった私の防衛本能が、理性を吹き飛ばしてパニックを起こした。
「まさか!」
自分でも驚くほど、甲高くて上擦った声が出た。
机をガタッと揺らし、私は反射的に、手と首を大げさに振っていた。
「全然! 全然仲良くなんてないよ! ただのクラスメイトだし、話したこともほとんどないよ。瀬野くんってちょっと変わってるし、私には全然わかんないっていうか……ほんと、何もないから!」
一息にまくし立てた言葉は、自分を守るためだけの、ひどく醜い嘘だった。
言葉を吐き出すたびに、胸の奥に大切にしまっていたあの写真が、ビリビリと引き裂かれていくような痛みが走る。
「……そ、そっか。まあ、そうだよね。結衣が瀬野くんと仲良いわけないか」
「びっくりさせないでよー。あーよかった」
友人たちは安堵したように笑い合い、すぐに別の話題へと移っていった。
私は作り笑いを顔に貼り付けたまま、机の下で、震える両手をきつく握りしめていた。
爪が掌に食い込み、痛い。けれど、それ以上に心が痛かった。自分の弱さが、浅ましさが、どうしようもなく情けなかった。
何とか動悸を鎮めようと、無意識に息を吐き出したその時だった。
ふと、背筋に冷たいものが走った。
教室の後ろの入り口。
開け放たれたスライドドアの枠に寄りかかるようにして、瀬野蒼太が立っていた。
いつからそこにいたのか。
彼は手に購買のパンの袋を提げたまま、ただ静かに、私を見つめていた。
血の気が引く音が、自分の耳ではっきりと聞こえた。
世界からすべての音が消え去り、真空状態に放り出されたように息ができない。
嘘だ。違うの。今のはただの言い訳で、本心じゃない。
喉の奥で必死に叫ぼうとするのに、声はかすれもしなかった。私の瞳はただ、恐怖と焦燥で彼を真っ直ぐに見つめ返すことしかできない。
怒ってほしかった。
「ふざけんな」と、軽蔑の眼差しで私を睨みつけてほしかった。
しかし、蒼太は怒りも、呆れもしなかった。
彼はただ、ほんの少しだけ悲しそうに、目を細めた。
そして、すべてを諦めたような、ひどく優しい微笑みを浮かべたのだ。
彼が、何も言わずに静かに背を向けたその瞬間。
私を責めるのではなく、「結衣は、俺の世界には来られないんだな」と理解してしまった彼の優しさが、私の心の一番柔らかい場所を、深く抉った。廊下を遠ざかっていく彼の上履きの音が、私の心臓を一つずつ踏み潰していくようだった。
放課後。
誰もいなくなった教室で、私は一人、窓ガラスに額を押し当てて立ち尽くしていた。
外はいつの間にか厚い雲に覆われ、冷たい雨がアスファルトを打ち据えている。
私は、自分のちっぽけな保身のために、彼との「秘密の宝物」を自分から泥水の中に投げ捨てたのだ。
「傘なんてない方がいいじゃん」と言ってくれた彼の優しさを裏切り、私は再び、分厚くて透明な傘をしっかりと差し直し、彼を拒絶した。
自己嫌悪という名の冷たい土砂降りが、私の内側を容赦なく打ち付ける。
あの時の彼の悲しそうな笑顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
今すぐ彼を追いかけて、本当のことを伝えたい。雨の中に飛び出して、彼に謝りたい。
けれど、私の足は床に縫い付けられたように動かなかった。
また雨が降っているのに。
私は今度は、その雨の中へ飛び出す勇気すら持てずに、ただ安全な傘の下で、自分の愚かさに涙を溢れさせながら立ち尽くすことしかできなかった。
あの日から、退屈で息苦しかったはずの教室の空気が、ほんの少しだけ違って感じられた。授業中、背中に視線を感じて振り返ると、窓際の席の彼と目が合う。言葉は交わさなくても、彼がほんのわずかに口角を上げるだけで、私の中の秘密の通信が繋がり、胸の奥に温かい光が灯る。
私たちは相変わらず、教室では一言も話さない。けれど、この透明な箱の中で、確かに私たちだけが共有している「秘密の空間」があった。それだけで、私はどんなに窮屈な時間も息をしていられたのだ。
しかし、私が浮かれた夢に浸っていたその「いつもと違う空気」を、教室という狭い社会のセンサーは、残酷なほど正確に嗅ぎつけていた。
木曜日の昼休み。いつものように机を寄せて、友人たちとお弁当を食べていた時のことだ。
話題が途切れ、少しの沈黙が落ちた瞬間、グループのリーダー格である真由が、不意に箸を止めて私を真っ直ぐに見据えた。
「ねえ、結衣」
「ん? なに?」
「最近さ、結衣って瀬野くんのことよく見てない? 授業中とかも、しょっちゅう後ろ振り返ってるし」
心臓が、ヒュッと嫌な音を立てて跳ね上がった。
「えっ……」
「この前もさ、瀬野くんのこと庇ってたじゃん。もしかして、二人って何かあるの? 仲良いの?」
真由の探るような視線に、他の友人たちも一斉に私へ顔を向けた。
ピンと張り詰めた空気が、私の全身を鋭く突き刺す。呼吸の仕方を忘れたように、喉がカラカラに乾いていくのが分かった。
ここで「うん、少しだけ話すようになったよ」と正直に言えば、どうなるか。
「え、結衣ってあっち側なの?」「関わらない方がいいって言ったじゃん」と、今まで私が必死に守り抜いてきた、この教室での平穏なポジションは確実に壊れる。彼女たちの引く境界線の外側に弾き出され、私は「異物」として扱われるようになる。
その恐怖が、黒い泥水のように足元から一気に這い上がってきた。
怖い。嫌われたくない。今の安全な場所を失いたくない。
まだ完全に「透明な傘」を捨てきれていなかった私の防衛本能が、理性を吹き飛ばしてパニックを起こした。
「まさか!」
自分でも驚くほど、甲高くて上擦った声が出た。
机をガタッと揺らし、私は反射的に、手と首を大げさに振っていた。
「全然! 全然仲良くなんてないよ! ただのクラスメイトだし、話したこともほとんどないよ。瀬野くんってちょっと変わってるし、私には全然わかんないっていうか……ほんと、何もないから!」
一息にまくし立てた言葉は、自分を守るためだけの、ひどく醜い嘘だった。
言葉を吐き出すたびに、胸の奥に大切にしまっていたあの写真が、ビリビリと引き裂かれていくような痛みが走る。
「……そ、そっか。まあ、そうだよね。結衣が瀬野くんと仲良いわけないか」
「びっくりさせないでよー。あーよかった」
友人たちは安堵したように笑い合い、すぐに別の話題へと移っていった。
私は作り笑いを顔に貼り付けたまま、机の下で、震える両手をきつく握りしめていた。
爪が掌に食い込み、痛い。けれど、それ以上に心が痛かった。自分の弱さが、浅ましさが、どうしようもなく情けなかった。
何とか動悸を鎮めようと、無意識に息を吐き出したその時だった。
ふと、背筋に冷たいものが走った。
教室の後ろの入り口。
開け放たれたスライドドアの枠に寄りかかるようにして、瀬野蒼太が立っていた。
いつからそこにいたのか。
彼は手に購買のパンの袋を提げたまま、ただ静かに、私を見つめていた。
血の気が引く音が、自分の耳ではっきりと聞こえた。
世界からすべての音が消え去り、真空状態に放り出されたように息ができない。
嘘だ。違うの。今のはただの言い訳で、本心じゃない。
喉の奥で必死に叫ぼうとするのに、声はかすれもしなかった。私の瞳はただ、恐怖と焦燥で彼を真っ直ぐに見つめ返すことしかできない。
怒ってほしかった。
「ふざけんな」と、軽蔑の眼差しで私を睨みつけてほしかった。
しかし、蒼太は怒りも、呆れもしなかった。
彼はただ、ほんの少しだけ悲しそうに、目を細めた。
そして、すべてを諦めたような、ひどく優しい微笑みを浮かべたのだ。
彼が、何も言わずに静かに背を向けたその瞬間。
私を責めるのではなく、「結衣は、俺の世界には来られないんだな」と理解してしまった彼の優しさが、私の心の一番柔らかい場所を、深く抉った。廊下を遠ざかっていく彼の上履きの音が、私の心臓を一つずつ踏み潰していくようだった。
放課後。
誰もいなくなった教室で、私は一人、窓ガラスに額を押し当てて立ち尽くしていた。
外はいつの間にか厚い雲に覆われ、冷たい雨がアスファルトを打ち据えている。
私は、自分のちっぽけな保身のために、彼との「秘密の宝物」を自分から泥水の中に投げ捨てたのだ。
「傘なんてない方がいいじゃん」と言ってくれた彼の優しさを裏切り、私は再び、分厚くて透明な傘をしっかりと差し直し、彼を拒絶した。
自己嫌悪という名の冷たい土砂降りが、私の内側を容赦なく打ち付ける。
あの時の彼の悲しそうな笑顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
今すぐ彼を追いかけて、本当のことを伝えたい。雨の中に飛び出して、彼に謝りたい。
けれど、私の足は床に縫い付けられたように動かなかった。
また雨が降っているのに。
私は今度は、その雨の中へ飛び出す勇気すら持てずに、ただ安全な傘の下で、自分の愚かさに涙を溢れさせながら立ち尽くすことしかできなかった。


