昨日の激しい雨が嘘のように、週明けの月曜日は、白々しいほどの快晴だった。
教室の窓からは、彩度が高すぎる強烈な青空が四角く切り取られて見えている。頭上では無機質なエアコンの風が、週末の間に溜まった埃の匂いをかき混ぜながら、今日もこの箱の中を完璧にコントロールしていた。
「てかさ、昨日のゲリラ豪雨マジで最悪だったよねー。せっかく買った新作のサンダル、泥水でぐちゃぐちゃになっちゃったし」
「わかるー。私も髪巻いてたのに一瞬で台無し、最悪だった」
休み時間、いつものように私の机の周りに集まった友人たちが、スマホの画面をスクロールさせながら不満を口にする。
私は「本当にね、大変だったね」と、数ミリだけ口角を上げた完璧な愛想笑いで相槌を打った。
彼女たちにとって、昨日の雨は「自分を飾るものを台無しにする、忌むべきノイズ」でしかない。かつての私にとっても、それは絶対に避けなければならないものだった。
けれど。
制服のブラウスの下、私の肌はまだ、あの雨宿りの時の微かな熱を記憶している。
生ぬるい突風、アスファルトの匂い、神社の湿った木の香り。そして、私の腕を引いて走った、彼の少し高かった体温。
「でも、私はあの雨が好きだった」。
誰にも言えない、私だけの秘密の感情が、みぞおちのあたりで甘く渦を巻いている。私の視線は、友人たちの輪を通り越し、自然と教室の一番後ろの席へと向かっていた。
瀬野蒼太は今日も、退屈そうに机に突っ伏して、規則的な寝息を立てているようだった。
「そういえばさ」
リップクリームを塗り直していた友人の一人が、ふと思い出したように声を潜めた。
「瀬野くんって、いっつもあの黒いカメラ持ち歩いてるよね。何撮ってんのか知らないけど、ちょっと変わってて近寄りがたいっていうか……うちのクラスでも完全に浮いてるじゃん?」
何気ない、しかし明確に「こちら側」と「あちら側」の境界線を引く言葉。
これまでの私なら、「透明な傘」の下から一歩も出ず、「確かにね」と曖昧に笑ってやり過ごしていた場面だ。波風を立てず、空気を読んで、安全な居場所を確保し続けるための絶対的なルール。
しかし、私の脳裏に、あの土砂降りの中でカメラのレンズを大事そうに拭く彼の手つきが、鮮明にフラッシュバックした。
――どんなに綺麗なものも、絶対そのままじゃいられないから。俺がこの景色を見たってこと、ちゃんと残しておきたくてさ。
諦観と祈りが混ざったような、彼のあの少し寂しそうな横顔を、彼女たちは知らない。彼が誰よりもこの世界を大切に、愛おしむように見つめていることを、この教室の誰も知らないのだ。
ドクン、と。心臓が痛いほど重く跳ねた。
息を吸い込む。机の下で、左手の爪が掌に深く食い込む。
「……そうかな」
自分の口から出た声は、掠れて少し震えていた。
友人たちの手が止まり、視線が一斉に私に向けられる。ピンと張り詰めた空気が肌を刺す。それでも、私はゆっくりと、言葉を紡いだ。
「ただ、大切にしたいものが多いだけなんじゃないかな。……世界を、ちゃんと見てるんだと思う」
一瞬の沈黙。
「え、何それ。結衣が瀬野くんのこと庇うなんて珍しいね」
友人が少し驚いたように目を丸くしたが、すぐにチャイムが鳴り響き、「あ、やば、移動教室じゃん」と彼女たちは別の話題へ移っていった。
私は自分の激しい心音を聞きながら、初めて自分の意志で「傘」を傾け、この教室の空気に逆らったのだという確かな感触に震えていた。
三時間目の日本史。
チョークが黒板を叩くカツカツという乾いた音と、教師の単調な声だけが響く中、私はまだ先ほどの緊張の余韻から抜け出せずにいた。
ふと、背中に微かな熱を感じた。誰かに見つめられているような、肌が粟立つような感覚。
無意識に、私はノートから顔を上げ、後ろを振り返った。
寝ていると思っていた蒼太と、真っ直ぐに目が合った。
彼は机に頬杖をついたまま、長い睫毛の奥の色素の薄い瞳で、私を捉えていた。
驚いて息を呑み、慌てて前を向き直ろうとした瞬間だった。
彼が、ほんの少しだけ口角を上げ、声を出さずに唇をゆっくりと動かした。
『サ・ン・キ・ュ』
そして、いたずらっぽく、片目を小さく瞬きさせる。
カアッ、と顔中から火が出るように熱くなった。耳の裏まで真っ赤に染まっていくのが自分でも分かる。
彼は起きていたのだ。さっきの休み時間、私が彼を庇ったあの震える言葉を、全部聞いていたのだ。
チョークの粉が舞う、息苦しくて退屈だったはずの教室。
その死角で交わされた、誰にも気づかれない、二人だけの秘密のサイン。この空間が、急に彼と私だけを繋ぐ特別な場所に変わってしまった。
前を向き直っても、胸の鼓動がうるさすぎて、もう授業の内容なんて一文字も頭に入ってこなかった。
放課後。日直の仕事を終え、すっかり人が少なくなった教室で鞄に荷物を詰めようとした時。
机の引き出しの奥に手を入れた指先が、教科書とは違う、つるりとした冷たい感触に触れた。
引き出してみると、それは二つ折りにされた一枚の印画紙だった。
誰も見ていないことを確認して、そっと開く。
息が、止まった。
薄暗い神社の軒下。白く煙る雨のカーテンを背景に、私が写っていた。
いつの間にシャッターを切ったのだろう。雨に濡れて髪は額に張り付き、ブラウスの肩も湿っている。完璧な優等生としての記号なんてどこにもない、ひどく無防備な姿。
なのに。
その写真の中の私は、今まで自分でも見たことがないほど、柔らかく、自然に、そして心から嬉しそうに笑っていたのだ。
ひっくり返した裏側には、見慣れた右上がりの乱暴な字で、たった一言だけが書かれていた。
『傘、ない方がいいじゃん』
指先から、写真の冷たさを溶かすほどの熱が胸の奥深くへと一気に広がっていく。胃の奥が甘く締め付けられ、泣きたくなるような幸福感が全身を駆け巡った。
もう、戻れない。
透明な傘に守られていた、安全で退屈な昨日の私には、絶対に戻れない。
私は、彼が切り取ってくれた「私自身」の証を、誰にも見られないようにそっと胸に抱きしめた。窓の外で揺れる夏の終わりの陽射しよりもずっと強く、確かな恋の自覚が、私の中で産声を上げていた。
教室の窓からは、彩度が高すぎる強烈な青空が四角く切り取られて見えている。頭上では無機質なエアコンの風が、週末の間に溜まった埃の匂いをかき混ぜながら、今日もこの箱の中を完璧にコントロールしていた。
「てかさ、昨日のゲリラ豪雨マジで最悪だったよねー。せっかく買った新作のサンダル、泥水でぐちゃぐちゃになっちゃったし」
「わかるー。私も髪巻いてたのに一瞬で台無し、最悪だった」
休み時間、いつものように私の机の周りに集まった友人たちが、スマホの画面をスクロールさせながら不満を口にする。
私は「本当にね、大変だったね」と、数ミリだけ口角を上げた完璧な愛想笑いで相槌を打った。
彼女たちにとって、昨日の雨は「自分を飾るものを台無しにする、忌むべきノイズ」でしかない。かつての私にとっても、それは絶対に避けなければならないものだった。
けれど。
制服のブラウスの下、私の肌はまだ、あの雨宿りの時の微かな熱を記憶している。
生ぬるい突風、アスファルトの匂い、神社の湿った木の香り。そして、私の腕を引いて走った、彼の少し高かった体温。
「でも、私はあの雨が好きだった」。
誰にも言えない、私だけの秘密の感情が、みぞおちのあたりで甘く渦を巻いている。私の視線は、友人たちの輪を通り越し、自然と教室の一番後ろの席へと向かっていた。
瀬野蒼太は今日も、退屈そうに机に突っ伏して、規則的な寝息を立てているようだった。
「そういえばさ」
リップクリームを塗り直していた友人の一人が、ふと思い出したように声を潜めた。
「瀬野くんって、いっつもあの黒いカメラ持ち歩いてるよね。何撮ってんのか知らないけど、ちょっと変わってて近寄りがたいっていうか……うちのクラスでも完全に浮いてるじゃん?」
何気ない、しかし明確に「こちら側」と「あちら側」の境界線を引く言葉。
これまでの私なら、「透明な傘」の下から一歩も出ず、「確かにね」と曖昧に笑ってやり過ごしていた場面だ。波風を立てず、空気を読んで、安全な居場所を確保し続けるための絶対的なルール。
しかし、私の脳裏に、あの土砂降りの中でカメラのレンズを大事そうに拭く彼の手つきが、鮮明にフラッシュバックした。
――どんなに綺麗なものも、絶対そのままじゃいられないから。俺がこの景色を見たってこと、ちゃんと残しておきたくてさ。
諦観と祈りが混ざったような、彼のあの少し寂しそうな横顔を、彼女たちは知らない。彼が誰よりもこの世界を大切に、愛おしむように見つめていることを、この教室の誰も知らないのだ。
ドクン、と。心臓が痛いほど重く跳ねた。
息を吸い込む。机の下で、左手の爪が掌に深く食い込む。
「……そうかな」
自分の口から出た声は、掠れて少し震えていた。
友人たちの手が止まり、視線が一斉に私に向けられる。ピンと張り詰めた空気が肌を刺す。それでも、私はゆっくりと、言葉を紡いだ。
「ただ、大切にしたいものが多いだけなんじゃないかな。……世界を、ちゃんと見てるんだと思う」
一瞬の沈黙。
「え、何それ。結衣が瀬野くんのこと庇うなんて珍しいね」
友人が少し驚いたように目を丸くしたが、すぐにチャイムが鳴り響き、「あ、やば、移動教室じゃん」と彼女たちは別の話題へ移っていった。
私は自分の激しい心音を聞きながら、初めて自分の意志で「傘」を傾け、この教室の空気に逆らったのだという確かな感触に震えていた。
三時間目の日本史。
チョークが黒板を叩くカツカツという乾いた音と、教師の単調な声だけが響く中、私はまだ先ほどの緊張の余韻から抜け出せずにいた。
ふと、背中に微かな熱を感じた。誰かに見つめられているような、肌が粟立つような感覚。
無意識に、私はノートから顔を上げ、後ろを振り返った。
寝ていると思っていた蒼太と、真っ直ぐに目が合った。
彼は机に頬杖をついたまま、長い睫毛の奥の色素の薄い瞳で、私を捉えていた。
驚いて息を呑み、慌てて前を向き直ろうとした瞬間だった。
彼が、ほんの少しだけ口角を上げ、声を出さずに唇をゆっくりと動かした。
『サ・ン・キ・ュ』
そして、いたずらっぽく、片目を小さく瞬きさせる。
カアッ、と顔中から火が出るように熱くなった。耳の裏まで真っ赤に染まっていくのが自分でも分かる。
彼は起きていたのだ。さっきの休み時間、私が彼を庇ったあの震える言葉を、全部聞いていたのだ。
チョークの粉が舞う、息苦しくて退屈だったはずの教室。
その死角で交わされた、誰にも気づかれない、二人だけの秘密のサイン。この空間が、急に彼と私だけを繋ぐ特別な場所に変わってしまった。
前を向き直っても、胸の鼓動がうるさすぎて、もう授業の内容なんて一文字も頭に入ってこなかった。
放課後。日直の仕事を終え、すっかり人が少なくなった教室で鞄に荷物を詰めようとした時。
机の引き出しの奥に手を入れた指先が、教科書とは違う、つるりとした冷たい感触に触れた。
引き出してみると、それは二つ折りにされた一枚の印画紙だった。
誰も見ていないことを確認して、そっと開く。
息が、止まった。
薄暗い神社の軒下。白く煙る雨のカーテンを背景に、私が写っていた。
いつの間にシャッターを切ったのだろう。雨に濡れて髪は額に張り付き、ブラウスの肩も湿っている。完璧な優等生としての記号なんてどこにもない、ひどく無防備な姿。
なのに。
その写真の中の私は、今まで自分でも見たことがないほど、柔らかく、自然に、そして心から嬉しそうに笑っていたのだ。
ひっくり返した裏側には、見慣れた右上がりの乱暴な字で、たった一言だけが書かれていた。
『傘、ない方がいいじゃん』
指先から、写真の冷たさを溶かすほどの熱が胸の奥深くへと一気に広がっていく。胃の奥が甘く締め付けられ、泣きたくなるような幸福感が全身を駆け巡った。
もう、戻れない。
透明な傘に守られていた、安全で退屈な昨日の私には、絶対に戻れない。
私は、彼が切り取ってくれた「私自身」の証を、誰にも見られないようにそっと胸に抱きしめた。窓の外で揺れる夏の終わりの陽射しよりもずっと強く、確かな恋の自覚が、私の中で産声を上げていた。


