夕立みたいな恋だった

 琥珀色に染まっていた空が、唐突に不機嫌な鉛色に塗り潰された。
 生ぬるい突風が足元の夏草を激しく揺らしたかと思うと、アスファルトに黒い染みがポツポツと落ちる。それがバチバチという暴力的な打音に変わるまで、数秒もかからなかった。

「うわ、降ってきた」

 蒼太が空を見上げて目を細める。
 さっきまでの私なら、「どうしよう、スカートが濡れちゃう、最悪だ」とパニックになり、鞄の底から慌てて折り畳み傘を引っ張り出していたはずだ。雨は、私の綺麗で安全な日常を脅かす不快なノイズでしかなかったから。

 けれど、私が鞄に手を入れるより早く。
 ぐい、と。
 熱を帯びた大きな手が、私のブラウスの袖口を乱暴に掴んだ。

「走るぞ!」

 振り返った蒼太は、この突発的なアクシデントを心の底から楽しむように、無邪気に笑っていた。
 「え、ちょっと待って……!」という私の声は、激しさを増す雨音に掻き消される。
 傘を開く隙も与えられないまま、私は彼に手を引かれて走り出した。

 容赦なく打ち付ける大粒の雨が、瞬く間に髪や制服を重くしていく。けれど不思議と、濡れることへの不快感はなかった。
 水たまりを蹴り上げる彼の弾むような足音と、薄い布越しに伝わってくる手首の熱。それだけが、白く煙り始めた視界の中で唯一の確かな道標だった。

 息を切らして駆け込んだのは、住宅街の路地裏にひっそりと佇む、小さな神社の軒下だった。
 色褪せた朱色の柱に背中を預け、二人で大きく息を吐き出す。

「あっぶねー。すげえ土砂降り」

 蒼太が犬のように頭を振り、色素の薄い髪から水滴を飛ばす。
 神社の古びたトタン屋根を叩く凄まじい雨音は、道路を走る車のエンジン音も、遠くの街の喧騒も、すべてを乱暴に塗り潰していた。分厚い水の壁に覆われたこの数平方メートルの空間だけが、世界から完全に切り離された密室のようだった。

 肩が触れそうなほどの距離。
「透明な傘」の中で一人息を潜めていた時には決して嗅ぐことのなかった、生々しい匂いが鼻腔を突く。
 神社の湿った木の匂い。アスファルトの熱が冷まされて、むせ返るように昇るペトリコール。そして、隣に立つ彼の濡れた髪から漂う、ほんのり甘いシャンプーの匂いと、少し早くなった呼吸の熱。

 蒼太は自分のずぶ濡れになった制服には見向きもせず、着ていたシャツの比較的乾いている裾を引っ張り出し、首から下げたカメラのレンズを大事そうに、ゆっくりと拭き始めた。
 そのひどく優しい手つきを見つめながら、私はずっと聞きたかったことを、不意に口にしていた。

「……瀬野くんは、どうしていつも写真を撮ってるの?」

 雨音に吸い込まれそうな小さな声だったけれど、蒼太の手がピタリと止まった。
 彼はカメラのレンズを見つめたまま、いつものおどけたような、飄々とした態度は消し去って、ひどく静かな声で口を開いた。

「……忘れたくないからかな」
「忘れたくない?」
「うん。どんなに綺麗なものも、絶対そのままじゃいられないから」

 彼は顔を上げ、白く煙る雨のカーテンの向こう側を見つめた。

「空の色も、誰かの笑った顔も、こういう雨の日の匂いも。全部、次の瞬間には別のものに変わっちゃうし、いつかは必ず失われる。俺がこの景色を見たってこと、ちゃんと残しておきたくてさ。俺、けっこう欲張りだから」

 ふわりと笑った彼の横顔には、いつも彼が纏っている自由な明るさとは違う、どこか切実で、ひどく脆い影が落ちていた。
「すべてはいずれ失われる」。
 その諦観にも似た静かな響きが、なぜか私の心臓を冷たい指で撫で上げたような気がして、背筋が少しだけ震えた。

「……そっか」

 私はそれ以上何も言えず、自分の濡れたスカートの裾をぎゅっと握りしめた。

 やがて。
 永遠に続くかと思われた土砂降りの音が、少しずつその輪郭を失い始めた。
 分厚い雲の隙間から、薄っすらと明るい光が漏れ出し、足元の水たまりに波紋を描いていた雨粒が弱まっていく。

「あ、止みそうだな」

 蒼太が軒下から身を乗り出し、空を見上げる。
 以前の私なら、「早く雨が上がって、いつもの安全な日常に帰りたい」と心から安堵していたはずだった。靴が泥水で汚れる前に、制服がこれ以上濡れる前に、早く自分の部屋へ帰って乾いた服に着替えたかった。

 なのに。
 雨が止んで、この「世界から切り離された秘密の時間」が終わってしまうことに。
 彼との距離を強制的に近づけてくれたこの理不尽な夕立が、過ぎ去ろうとしていることに。

 私は今、明確な寂しさを覚えている。

 もう少しだけ。あと少しだけ、この雨が止まなければいいのに。
 濡れたブラウスの冷たさを心地よいとすら感じ始めている自分の確かな変化に気づいた時、私はもう、彼という夕立から逃げられないことを悟っていた。