土曜日の午後。学校から二駅離れた、私鉄の小さなローカル駅。
じっとりと掌に滲む汗をスカートの裾で拭いながら、私は何度も改札越しに背後を振り返っていた。こんなところを同じクラスの誰かに見られでもしたら、月曜日からの私の居場所はなくなってしまう。喉の奥に張り付くような焦燥感で呼吸が浅くなるのを、必死に飲み込んでいた。
「お待たせ」
背後から、踏切の警報音に紛れるように低い声がした。
ビクリとして振り返ると、第一ボタンを開けた見慣れた制服姿の蒼太が立っていた。休日なのに制服なのは、彼曰く、自分とってそれが一番面倒じゃないからだと言う。首元には今日も、あの黒く重たい金属の塊がぶら下がっている。
「ううん、今来たとこ」
「そ。じゃ、行こっか」
彼にとって、私とここで待ち合わせていることは特別な「秘密」でも「事件」でもなく、ただの日常の延長線上にあるらしい。気負いのない、いつも通りに飄々とした足取りを見ていると、張り詰めていた肩の力が少しだけ抜けるのを感じた。
「どこ行くの?」
「わかんない。いい光がある方」
私の問いに短く答えると、彼は西日の傾き始めた空を見上げて目を細めた。
彼が歩幅を合わせた先は、普段なら絶対に足を踏み入れないような狭い路地裏や、シャッターの降りた寂れた商店街だった。
エアコンの室外機から吐き出される生温かい風。どこかの家から漂ってくる、甘辛い醤油の焦げる匂い。遠くで等間隔に響く、電車のガタンゴトンという重い走行音。
蒼太は時折、唐突に足を止める。
そして、私から見れば何の意味もないような景色――赤錆に侵食された一時停止の標識や、ブロック塀の隙間で丸くなる野良猫、フェンスに絡みつく名も知らない蔓草にカメラを向けた。
ジーッ。カシャッ。
ぜんまいの軋む音と、物理的な重みを持ったシャッター音が、路地裏に響く。
「……なんで、そんなもの撮るの?」
「綺麗だから」
ファインダーから目を離さず、彼は当然のことのようにそう呟く。
私にはまだ、ひび割れたアスファルトの何が綺麗なのかは分からなかった。けれど、彼が世界そのものを、こぼれ落ちないように慎重に、大切に扱っていることだけは、その横顔の熱から確かに伝わってきた。
川沿いの土手に出たところで、私たちは色褪せた木製のベンチに腰を下ろした。
夕暮れが近づき、傾いた陽射しが水面を乱反射して、視界全体を琥珀色に染め上げている。
「見てみる?」
不意に、蒼太が首から下げていたストラップを外し、私に向かって重い黒の塊を差し出した。
受け取ると、金属の冷たい感触の奥に、ほんのりと彼の体温が残っているのが分かった。
恐る恐る、右目を小さなガラスの窓に近づける。
ファインダー越しに広がる世界は、肉眼で見るよりもずっと狭く、四角く区切られていた。
「ピントリングを回して。これだ、と思った瞬間だけを切り取るんだよ」
すぐ隣から、彼の低い声が鼓膜を震わせた。
息を呑む。
彼が身を乗り出したことで、夏草の青臭い匂いに混じって、彼が着ているシャツの柔軟剤の匂いと、微かな汗の熱が直接肌に触れる距離まで近づいていた。
服の布擦れの音が響く。隣り合った肩から、火傷しそうなほどの微熱が伝わってくる。耳の奥で自分の血流の音がうるさく鳴り響き、遠くの電車の音さえも遠のいていった。
震える指先で、冷たい金属のリングに触れる。
ゆっくりと回すと、ぼやけていた四角い世界が、少しずつ輪郭を結び始めた。
風に揺れる川沿いのススキ。その穂先を透かす、オレンジ色の斜光。水面に散らばる、砕けたガラスのような無数の光の粒。
いつもなら、ただの「帰り道の背景」として見過ごし、何ひとつ記憶に残らないはずの退屈な景色。
それが、ファインダーという枠で切り取った瞬間、息が止まるほどドラマチックで、鮮烈な「今」に変わった。
――これだ。
無意識に、右手の人差し指に力が入る。
カシャッ、と。
今まで聞いた彼のものより、少しだけ頼りない音が、私の手の中で鳴った。
「……綺麗」
口をついて出た掠れた声に、隣で蒼太がふっと息を吐く気配がした。
「だろ?」
カメラから目を離して横を向くと、夕日を背に受けた彼が、ひどく満足そうに、柔らかく笑っていた。色素の薄い瞳の奥に、琥珀色の光が揺れている。
頭上を覆っていた、分厚くて冷たい「透明なビニール傘」が。
ぜんまいの軋む音とともに、ほんの少し、音を立てて閉じた気がした。
私の中で何かが形を持って熱を持ち始めたことを、土手の上を吹き抜ける夏の終わりの風だけが知っていた。
じっとりと掌に滲む汗をスカートの裾で拭いながら、私は何度も改札越しに背後を振り返っていた。こんなところを同じクラスの誰かに見られでもしたら、月曜日からの私の居場所はなくなってしまう。喉の奥に張り付くような焦燥感で呼吸が浅くなるのを、必死に飲み込んでいた。
「お待たせ」
背後から、踏切の警報音に紛れるように低い声がした。
ビクリとして振り返ると、第一ボタンを開けた見慣れた制服姿の蒼太が立っていた。休日なのに制服なのは、彼曰く、自分とってそれが一番面倒じゃないからだと言う。首元には今日も、あの黒く重たい金属の塊がぶら下がっている。
「ううん、今来たとこ」
「そ。じゃ、行こっか」
彼にとって、私とここで待ち合わせていることは特別な「秘密」でも「事件」でもなく、ただの日常の延長線上にあるらしい。気負いのない、いつも通りに飄々とした足取りを見ていると、張り詰めていた肩の力が少しだけ抜けるのを感じた。
「どこ行くの?」
「わかんない。いい光がある方」
私の問いに短く答えると、彼は西日の傾き始めた空を見上げて目を細めた。
彼が歩幅を合わせた先は、普段なら絶対に足を踏み入れないような狭い路地裏や、シャッターの降りた寂れた商店街だった。
エアコンの室外機から吐き出される生温かい風。どこかの家から漂ってくる、甘辛い醤油の焦げる匂い。遠くで等間隔に響く、電車のガタンゴトンという重い走行音。
蒼太は時折、唐突に足を止める。
そして、私から見れば何の意味もないような景色――赤錆に侵食された一時停止の標識や、ブロック塀の隙間で丸くなる野良猫、フェンスに絡みつく名も知らない蔓草にカメラを向けた。
ジーッ。カシャッ。
ぜんまいの軋む音と、物理的な重みを持ったシャッター音が、路地裏に響く。
「……なんで、そんなもの撮るの?」
「綺麗だから」
ファインダーから目を離さず、彼は当然のことのようにそう呟く。
私にはまだ、ひび割れたアスファルトの何が綺麗なのかは分からなかった。けれど、彼が世界そのものを、こぼれ落ちないように慎重に、大切に扱っていることだけは、その横顔の熱から確かに伝わってきた。
川沿いの土手に出たところで、私たちは色褪せた木製のベンチに腰を下ろした。
夕暮れが近づき、傾いた陽射しが水面を乱反射して、視界全体を琥珀色に染め上げている。
「見てみる?」
不意に、蒼太が首から下げていたストラップを外し、私に向かって重い黒の塊を差し出した。
受け取ると、金属の冷たい感触の奥に、ほんのりと彼の体温が残っているのが分かった。
恐る恐る、右目を小さなガラスの窓に近づける。
ファインダー越しに広がる世界は、肉眼で見るよりもずっと狭く、四角く区切られていた。
「ピントリングを回して。これだ、と思った瞬間だけを切り取るんだよ」
すぐ隣から、彼の低い声が鼓膜を震わせた。
息を呑む。
彼が身を乗り出したことで、夏草の青臭い匂いに混じって、彼が着ているシャツの柔軟剤の匂いと、微かな汗の熱が直接肌に触れる距離まで近づいていた。
服の布擦れの音が響く。隣り合った肩から、火傷しそうなほどの微熱が伝わってくる。耳の奥で自分の血流の音がうるさく鳴り響き、遠くの電車の音さえも遠のいていった。
震える指先で、冷たい金属のリングに触れる。
ゆっくりと回すと、ぼやけていた四角い世界が、少しずつ輪郭を結び始めた。
風に揺れる川沿いのススキ。その穂先を透かす、オレンジ色の斜光。水面に散らばる、砕けたガラスのような無数の光の粒。
いつもなら、ただの「帰り道の背景」として見過ごし、何ひとつ記憶に残らないはずの退屈な景色。
それが、ファインダーという枠で切り取った瞬間、息が止まるほどドラマチックで、鮮烈な「今」に変わった。
――これだ。
無意識に、右手の人差し指に力が入る。
カシャッ、と。
今まで聞いた彼のものより、少しだけ頼りない音が、私の手の中で鳴った。
「……綺麗」
口をついて出た掠れた声に、隣で蒼太がふっと息を吐く気配がした。
「だろ?」
カメラから目を離して横を向くと、夕日を背に受けた彼が、ひどく満足そうに、柔らかく笑っていた。色素の薄い瞳の奥に、琥珀色の光が揺れている。
頭上を覆っていた、分厚くて冷たい「透明なビニール傘」が。
ぜんまいの軋む音とともに、ほんの少し、音を立てて閉じた気がした。
私の中で何かが形を持って熱を持ち始めたことを、土手の上を吹き抜ける夏の終わりの風だけが知っていた。


