夕立みたいな恋だった

 放課後の旧校舎は、古い木材が呼吸するような乾いた匂いと、床に塗り込まれたワックスの匂いが微かに漂っている。
 部活動の喧騒は遠くグラウンドからくぐもって聞こえるだけで、この渡り廊下には静寂だけが埃のように降り積もっていた。

 化学準備室の前を通り過ぎようとした時、少しだけ開いた引き戸の隙間から、シュッ、シュッという規則的な微かな音が漏れ聞こえてきた。
 無意識に足を止め、隙間から中を覗き込む。

 西日が斜めに差し込む埃っぽい部屋の中、パイプ椅子に深く腰掛けた瀬野蒼太がいた。
 いつものように第一ボタンを開けた制服姿で、長い足を無造作に投げ出している。膝の上には、例の黒く無骨なカメラ。彼はアルコールのような匂いのするクリーナーを含ませた布で、レンズを丁寧に、本当に宝物に触れるかのような手つきで磨いていた。

 カチャリ、と金属のパーツがぶつかる小さな音が響く。
 普段の教室で見せる、誰にも興味がないような投げやりな態度はそこにはない。伏せられた長い睫毛の先に落ちる視線は、ひどく静かで、どこか祈るような熱を帯びていた。

 いつもなら、絶対に声をかけたりしない。彼と関わっているところを誰かに見られれば、またあの教室の面倒な空気の波に巻き込まれる。私の頭上にある「透明な傘」の膜が、早くここから立ち去れと警鐘を鳴らしていた。
 けれど――。

 あの日、雨に濡れながら少しだけ重くなったブラウスの感覚が、背中を押した。
 靴底がリノリウムの床を擦る音を響かせ、私は少しだけ引き戸を開いた。

「……それ、何を撮ってるの?」

 自分の声だとは思えないほど、それは震えて、ひどく掠れていた。
 蒼太はレンズを拭く手を止め、ゆっくりと顔を上げる。西日を背に受けた彼の色素の薄い瞳が、私を捉えた。一瞬だけ驚いたように少し目を丸くした後、彼はいつもの屈託のない、ふわりとした笑みを浮かべた。

「ん。夏目さん」

 彼が私の名前を呼ぶと、ただの四文字が、ひどく特別な輪郭を持って耳の奥に届いた。
 蒼太は机の上に無造作に積み上げられていた、現像済みの写真の束を手に取り、私の方へ軽く差し出した。

「見る?」

 私は戸惑いながらも、化学準備室の中へ足を踏み入れた。アルコールの匂いが少しだけ強くなる。
 差し出された写真の束を受け取ると、印画紙のひんやりとした、つるつるした感触が指先に伝わってきた。
 一枚目を見る。息を呑んだ。

 そこに写っていたのは、見慣れたはずの通学路だった。
 いつも私が、他人の距離を気にして下を向いて歩いている退屈なアスファルト。けれど彼の写真の中では、雨上がりの水たまりが空の鮮やかな青と雲の白を鏡のように反射し、足元にもう一つの空が広がっているような、ハッとするほどの絶景になっていた。

 二枚目は、校舎裏のフェンスに絡みつく名も知らない雑草。夕暮れのオレンジ色の光が葉脈を透かし、まるで内側から燃えているような命の輝きを放っている。
 三枚目は、錆びた非常階段の踊り場で、一匹の野良猫があくびをしている瞬間。光と影のコントラストが、映画のワンシーンのように美しく切り取られていた。

「これ、全部……」
「俺たちが毎日見てる景色」

 蒼太は椅子に背中を預け、長い指でカメラのダイヤルを弄りながら言った。

「すぐ変わっちゃうからさ。光の角度とか、雲の形とか。その一瞬を逃したら、もう二度と同じものは見られない。だから、残しておきたいんだよね」

 彼が常にファインダーを覗き、雨の中でも空を見上げている理由が、少しだけ分かった気がした。
 同じ世界に生きているのに、彼にはこんなにも美しく、鮮やかな世界が見えている。私はただ、傘の中で濡れないように、泥跳ねを避けるために自分の足元ばかりを見つめて、この世界の本当の色を何一つ知らずに生きてきたのだ。

 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。

「……すごいね」

 掠れた声が口を突いて出た。写真の束を机に戻しながら、私は自嘲気味に少しだけ笑った。

「私には、そんな風に世界が見えない。いつも転ばないように、誰かとぶつからないように、自分の足元ばっかり見てるから。こんな綺麗なもの、全然気づかなかった」

 夕暮れの光が、私のみすぼらしい本音を暴き出すように照らしている。
 すると、ガタッとパイプ椅子が鳴る音がした。蒼太が立ち上がり、ゆっくりと私との距離を詰めてくる。
 制服に染み付いた夏の熱と、微かな汗の匂いがふわりと漂い、心臓が跳ねた。

「じゃあ、俺が貸してあげるよ」

 彼が真っ直ぐに私を見下ろす。西日を反射する彼の瞳の奥に、少しだけ戸惑ったような私の顔が映っていた。

「俺の目」
「え……?」
「今度の週末、空いてる? 写真撮りに行くの、付き合ってよ。目的のない、ただの寄り道」

 週末。学校の外。私と彼、二人だけで。
 頭の中の警鐘が、けたたましく鳴り響いている。そんなことをして誰かに見つかったら。教室での安全な私の居場所はどうなる。

「……教室の誰にも内緒な」

 蒼太が、悪戯っぽく少しだけ声を潜めて言った。

 内緒。秘密。
 その甘く、危険な響きに触れた瞬間――ドクン、と。
 今まで一定のリズムでしか動いていなかった心臓が、痛いほどの強さで肋骨を叩いた。
 頬が熱い。耳の奥で、自分の血流の音がうるさいほどに鳴っている。

 私はただ、こくりと小さく頷くことしかできなかった。
 他人の目だけで構成されていた私のモノクロームの世界が、彼のレンズを通して、急激に、そして鮮烈なほどの色彩を伴って色づき始めた瞬間だった。