クリーニングから戻ってきたばかりの予備のブラウスは、微かに人工的な柔軟剤の匂いがした。
パリッと不自然なほど糊の効いた襟先が、動くたびに首筋をカリカリと引っ掻く。その小さな摩擦の不快感を無視しながら、私はいつもと同じように、きっちりと第一ボタンまでを留めて教室の扉を開けた。
「ねえ結衣、昨日のアレ見た? あのストーリー、絶対匂わせだよね」
「――あ、うん。確かにそんな感じだったかも」
前の席の女子が振り返り、甘いピーチの香りのするリップを塗った唇を尖らせる。私はそれに、きっちり数ミリだけ口角を上げる計算し尽くした愛想笑いで応えた。
黒板の下にチョークの粉が白く積もり、頭上では無機質なエアコンの低いモーター音が鳴り続けている。誰が誰を嫌っていて、どのグループに属するのが一番安全か。見えない地雷原を避けるように、他人の顔色というレーダーだけを頼りに歩くこの教室は、今日もひどく乾いていた。
会話に相槌を打ちながらも、私の意識はどこか遠くを漂っていた。
自分の周囲だけを、薄くて透明な膜が覆っているような感覚。目の前の彼女たちの声が、水底から聞くようにくぐもって聞こえる。
ふとした瞬間、糊の効いたブラウスの下の肌が、昨日の冷たい雨の感触を鮮明に思い出してしまう。息が詰まるほどの夕立の中で、肺いっぱいに吸い込んだ屋上の空気の重さと、微かに湿った彼の指先の熱を。
四時間目の現代文。
教師の単調な声と、シャープペンシルの芯がノートを擦るカツカツという乾いた音が等間隔で響く中、私の視線は自然と教室の一番後ろ、窓際から二番目の席へと向かっていた。
瀬野蒼太は、今日も机に頬杖をつき、授業など一切聞く素振りも見せずに窓の外の雲の形をぼんやりと目で追っている。
だらしなく開けられた首元。机の横に無造作に掛けられた鞄からは、黒い無骨なカメラのストラップがだらりと垂れ下がっていた。
周囲の生徒たちは、彼を「関わらない方がいい異物」として扱い、教師でさえも諦めたように視線を逸らす。けれど、彼はそんな教室の窮屈なルールなど最初から存在しないかのように、ただそこに在た。
――逃げてばっかじゃ、面白いもの見逃すよ。
――今までで一番、いい顔してる。
昨日の、雨だれよりも真っ直ぐで低い声が、耳の奥にこびりついて離れない。
私はノートの端に意味のない幾何学模様を書き殴りながら、奥歯を強く噛み締めた。
私は、何から逃げているのだろう。
波風を立てず、誰かの正解をなぞって生きることの、一体何がいけないというのだろう。誰にも嫌われないように、傷つかないように、賢く立ち回って何が悪いのか。
答えの出ない問いが、みぞおちのあたりで鉛のように重く渦を巻く。
ただ、チョークの粉が舞う乾いた教室の中で、彼だけが別の生き物のように、ひどく自由で、ひどく鮮やかに見えた。
放課後の図書室は、古い紙が酸化した甘酸っぱい匂いと、西日に焼かれた埃の匂いが混ざり合っていた。
書架の間に座り込み、開いたままの単行本の上に視線を落とす。活字はまったく頭に入ってこなかった。
ふと、自分の姿が窓ガラスにうっすらと反射しているのが見えた。
乱れのない髪。校則通りのスカートの丈。誰から見ても「優等生」という記号。
私はいつも、見えない「透明なビニール傘」を差して歩いているのだと、唐突に気づいた。
他人の悪意という泥水に跳ねられないように。周囲の評価という冷たい雨に打たれないように。常に頭上を透明な膜で覆い、安全な場所からだけ世界を覗いている。
確かに、傘の下にいれば服が汚れることはない。濡れることも、風邪を引くこともない。
けれど同時に――太陽が肌を焦がすような熱さも、風が頬を撫でる心地よさも、決して直接触れることはできないのだ。
あの屋上で、私が「いい顔」をしていたのだとすれば。
それは私が、あの土砂降りの中で一瞬だけ、自分の意思でその傘を手放したからかもしれない。
夕暮れが近づく下駄箱は、薄暗く、ひんやりとした湿気を帯びていた。
靴を履き替えながら昇降口の外に目をやると、アスファルトにはまた、パラパラと斑模様の黒い染みが広がり始めていた。
「あーあ、また降ってきた。結衣、傘持ってる?」
「……うん、持ってるよ。気をつけて帰ってね」
友人に手を振り、私は鞄の中の折り畳み傘に手を伸ばした。
その時、昇降口の冷たい風を切り裂くように、見慣れた背中が横を通り過ぎていく。
色素の薄い髪を揺らしながら、蒼太は空を見上げることもなく、もちろん傘を開くこともなく、真っ直ぐに雨の中へと足を踏み出していった。
その無防備で、ひどく潔い背中から目が離せなかった。
彼の言葉の本当の意味なんて、まだ分からない。
声を掛けて、この境界線を越える勇気も、私にはまだない。
鞄の底にある折り畳み傘の柄から、ゆっくりと指を離す。
一つ大きく深呼吸をして、私はそのまま、傘も差さずに雨降る外の世界へ一歩を踏み出した。
冷たい細かい水滴が、容赦なく額や頬を打ち据える。
綺麗に洗われたばかりのブラウスの肩が、少しずつ雨水を吸って重くなり、肌に冷たく張り付いていく。それはひどく不快で、ぞくぞくするような感触だった。
けれど、アスファルトから立ち昇るペトリコールの匂いと、雨粒がまつ毛を濡らす重みを感じながら歩くうちに。
ほんの半歩だけ、彼の見つめているあのファインダーの向こう側の世界に、近づけたような気がした。
パリッと不自然なほど糊の効いた襟先が、動くたびに首筋をカリカリと引っ掻く。その小さな摩擦の不快感を無視しながら、私はいつもと同じように、きっちりと第一ボタンまでを留めて教室の扉を開けた。
「ねえ結衣、昨日のアレ見た? あのストーリー、絶対匂わせだよね」
「――あ、うん。確かにそんな感じだったかも」
前の席の女子が振り返り、甘いピーチの香りのするリップを塗った唇を尖らせる。私はそれに、きっちり数ミリだけ口角を上げる計算し尽くした愛想笑いで応えた。
黒板の下にチョークの粉が白く積もり、頭上では無機質なエアコンの低いモーター音が鳴り続けている。誰が誰を嫌っていて、どのグループに属するのが一番安全か。見えない地雷原を避けるように、他人の顔色というレーダーだけを頼りに歩くこの教室は、今日もひどく乾いていた。
会話に相槌を打ちながらも、私の意識はどこか遠くを漂っていた。
自分の周囲だけを、薄くて透明な膜が覆っているような感覚。目の前の彼女たちの声が、水底から聞くようにくぐもって聞こえる。
ふとした瞬間、糊の効いたブラウスの下の肌が、昨日の冷たい雨の感触を鮮明に思い出してしまう。息が詰まるほどの夕立の中で、肺いっぱいに吸い込んだ屋上の空気の重さと、微かに湿った彼の指先の熱を。
四時間目の現代文。
教師の単調な声と、シャープペンシルの芯がノートを擦るカツカツという乾いた音が等間隔で響く中、私の視線は自然と教室の一番後ろ、窓際から二番目の席へと向かっていた。
瀬野蒼太は、今日も机に頬杖をつき、授業など一切聞く素振りも見せずに窓の外の雲の形をぼんやりと目で追っている。
だらしなく開けられた首元。机の横に無造作に掛けられた鞄からは、黒い無骨なカメラのストラップがだらりと垂れ下がっていた。
周囲の生徒たちは、彼を「関わらない方がいい異物」として扱い、教師でさえも諦めたように視線を逸らす。けれど、彼はそんな教室の窮屈なルールなど最初から存在しないかのように、ただそこに在た。
――逃げてばっかじゃ、面白いもの見逃すよ。
――今までで一番、いい顔してる。
昨日の、雨だれよりも真っ直ぐで低い声が、耳の奥にこびりついて離れない。
私はノートの端に意味のない幾何学模様を書き殴りながら、奥歯を強く噛み締めた。
私は、何から逃げているのだろう。
波風を立てず、誰かの正解をなぞって生きることの、一体何がいけないというのだろう。誰にも嫌われないように、傷つかないように、賢く立ち回って何が悪いのか。
答えの出ない問いが、みぞおちのあたりで鉛のように重く渦を巻く。
ただ、チョークの粉が舞う乾いた教室の中で、彼だけが別の生き物のように、ひどく自由で、ひどく鮮やかに見えた。
放課後の図書室は、古い紙が酸化した甘酸っぱい匂いと、西日に焼かれた埃の匂いが混ざり合っていた。
書架の間に座り込み、開いたままの単行本の上に視線を落とす。活字はまったく頭に入ってこなかった。
ふと、自分の姿が窓ガラスにうっすらと反射しているのが見えた。
乱れのない髪。校則通りのスカートの丈。誰から見ても「優等生」という記号。
私はいつも、見えない「透明なビニール傘」を差して歩いているのだと、唐突に気づいた。
他人の悪意という泥水に跳ねられないように。周囲の評価という冷たい雨に打たれないように。常に頭上を透明な膜で覆い、安全な場所からだけ世界を覗いている。
確かに、傘の下にいれば服が汚れることはない。濡れることも、風邪を引くこともない。
けれど同時に――太陽が肌を焦がすような熱さも、風が頬を撫でる心地よさも、決して直接触れることはできないのだ。
あの屋上で、私が「いい顔」をしていたのだとすれば。
それは私が、あの土砂降りの中で一瞬だけ、自分の意思でその傘を手放したからかもしれない。
夕暮れが近づく下駄箱は、薄暗く、ひんやりとした湿気を帯びていた。
靴を履き替えながら昇降口の外に目をやると、アスファルトにはまた、パラパラと斑模様の黒い染みが広がり始めていた。
「あーあ、また降ってきた。結衣、傘持ってる?」
「……うん、持ってるよ。気をつけて帰ってね」
友人に手を振り、私は鞄の中の折り畳み傘に手を伸ばした。
その時、昇降口の冷たい風を切り裂くように、見慣れた背中が横を通り過ぎていく。
色素の薄い髪を揺らしながら、蒼太は空を見上げることもなく、もちろん傘を開くこともなく、真っ直ぐに雨の中へと足を踏み出していった。
その無防備で、ひどく潔い背中から目が離せなかった。
彼の言葉の本当の意味なんて、まだ分からない。
声を掛けて、この境界線を越える勇気も、私にはまだない。
鞄の底にある折り畳み傘の柄から、ゆっくりと指を離す。
一つ大きく深呼吸をして、私はそのまま、傘も差さずに雨降る外の世界へ一歩を踏み出した。
冷たい細かい水滴が、容赦なく額や頬を打ち据える。
綺麗に洗われたばかりのブラウスの肩が、少しずつ雨水を吸って重くなり、肌に冷たく張り付いていく。それはひどく不快で、ぞくぞくするような感触だった。
けれど、アスファルトから立ち昇るペトリコールの匂いと、雨粒がまつ毛を濡らす重みを感じながら歩くうちに。
ほんの半歩だけ、彼の見つめているあのファインダーの向こう側の世界に、近づけたような気がした。


