近所の古い写真屋は、すっぱい現像液の薬品と、長い時間をかけて降り積もった埃の匂いがした。
色褪せたガラスカウンター越しに、白髪の店主は私が差し出した黒いフィルムの塊を虫眼鏡で覗き込み、ゆっくりと首を横に振った。
「かなり古いフィルムだね。現像液に浸してみないと何が写ってるか分からないけど……丁寧にやるから、数日はかかるよ」
すぐに結果が出ないことに、胸の奥で安堵と焦燥がマーブル状に混ざり合い、重い溜息となってこぼれた。
店を出ると、鉛色の空からふいに冷たい水滴が落ちてきた。グレーのアスファルトに黒い染みが斑に広がり、むせ返るようなペトリコールが鼻腔を突き抜ける。
その匂いが、過去への強制的なトリガーになった。
視界の彩度が、唐突に反転する。
エアコンの冷たい風は消え去り、代わりにまとわりつくような夏の重い湿気が、全身の毛穴を塞いだ。
七年前、高校二年の夏。
教室は、見えないカーストと空気が何重にも張り巡らされた、ひどく窮屈な箱だった。
「ねえ結衣、これどう思う?」
「うん、すごくいいと思う」
黒板のチョークの粉が混ざったぬるい空気の中、誰かが作った正解の相槌を打ち、口角を数ミリ引き上げる。糊の効いた白いブラウスの襟が汗で首筋に張り付き、じわりと滲んだ熱が肌を這う。
誰の機嫌も損ねないように。誰の視界にも、はみ出したノイズとして映らないように。薄い氷の上を爪先立ちで歩くような毎日は、深く息を吸うことさえ許されない気がした。
昼休み、私は誰にも見つからないように、立ち入り禁止の札が掛かった非常階段を上った。錆びついた重い鉄扉に肩を押し当て、外の世界へこじ開ける。
体の芯まで穿つ蝉時雨と、熱されたコンクリートの照り返しが目を焼いた。
そこに、彼がいた。
第一ボタンを開けただらしない制服の着こなし。少し色素の薄い髪が、熱を帯びた風に揺れている。彼はフェンスに背中を預け、首から下げた無骨な黒いカメラを、ただ真っ直ぐに空へ向けていた。
サボり魔として有名な、瀬野蒼太。
こんなところで二人きりになっているのを見られたら、教室で何を言われるか分からない。気まずさに踵を返そうとした瞬間だった。
バチッ、と額に大粒の水滴が弾けた。
空が唐突に暗くひび割れ、バケツをひっくり返したような暴力的な夕立が、屋上を容赦なく叩きつけた。
「――濡れちゃう」
ブラウスが透けたらどうしよう。教室に戻った時、皆に何て言い訳をしよう。頭の中を、自分以外の「他人の目」ばかりが駆け巡る。慌てて屋内の階段へ逃げ込もうと、傘の代わりになるものを探して体を丸めた時だった。
ぐい、と熱い手首が私の腕を掴んだ。
「――逃げてばっかじゃ、面白いもの見逃すよ」
振り返ると、ずぶ濡れの蒼太が、ファインダーから目を離して無邪気に笑っていた。
雨粒が彼の長い睫毛からポロポロと滴り落ちているのに、彼はそれを拭おうともしない。ただ、この突発的な嵐そのものを全身で受け入れ、楽しんでいるようだった。
私の腕を掴む彼の手は、ひどく熱かった。冷たい雨粒が打ち付ける肌とのコントラストで、その微熱が火傷しそうなほど鮮明に伝わってくる。
叩きつける雨音の重さが、教室のざわめきも、誰かの視線も、頭にこびりついていた見えないルールも、すべてを乱暴に洗い流していく。
不思議と、抵抗する力がふっと抜けた。
どうにでもなれ、と長く肺に溜まっていた息を吐き出した瞬間――重く垂れ込めていた雲の切れ間から、突き刺さるような夏の日差しが屋上に降り注いだ。
雨粒を纏った錆びたフェンスが、足元の水たまりが、彼の色素の薄い髪が。
世界中のあらゆるものが水鏡となって光を乱反射し、極彩色のプリズムとなって乱舞する。息を呑むほど、美しい光景だった。
ジーッ、カシャッ。
ぜんまいの軋む音と、物理的な重みを持ったシャッター音が鼓膜を打った。
驚いて顔を向けると、蒼太が私に向けて真っ直ぐにカメラを構えている。
「……今までで一番、いい顔してる」
彼が、カメラを下ろして静かに笑う。
雨水を吸って重くなった制服も、額に張り付く前髪も、不思議と嫌ではなかった。
透明なビニール傘の内側から、安全な景色だけを覗いてやり過ごしていた私の時計の針が。
この瞬間、強烈な熱と色彩を伴って、確かに動き出したのだ。
色褪せたガラスカウンター越しに、白髪の店主は私が差し出した黒いフィルムの塊を虫眼鏡で覗き込み、ゆっくりと首を横に振った。
「かなり古いフィルムだね。現像液に浸してみないと何が写ってるか分からないけど……丁寧にやるから、数日はかかるよ」
すぐに結果が出ないことに、胸の奥で安堵と焦燥がマーブル状に混ざり合い、重い溜息となってこぼれた。
店を出ると、鉛色の空からふいに冷たい水滴が落ちてきた。グレーのアスファルトに黒い染みが斑に広がり、むせ返るようなペトリコールが鼻腔を突き抜ける。
その匂いが、過去への強制的なトリガーになった。
視界の彩度が、唐突に反転する。
エアコンの冷たい風は消え去り、代わりにまとわりつくような夏の重い湿気が、全身の毛穴を塞いだ。
七年前、高校二年の夏。
教室は、見えないカーストと空気が何重にも張り巡らされた、ひどく窮屈な箱だった。
「ねえ結衣、これどう思う?」
「うん、すごくいいと思う」
黒板のチョークの粉が混ざったぬるい空気の中、誰かが作った正解の相槌を打ち、口角を数ミリ引き上げる。糊の効いた白いブラウスの襟が汗で首筋に張り付き、じわりと滲んだ熱が肌を這う。
誰の機嫌も損ねないように。誰の視界にも、はみ出したノイズとして映らないように。薄い氷の上を爪先立ちで歩くような毎日は、深く息を吸うことさえ許されない気がした。
昼休み、私は誰にも見つからないように、立ち入り禁止の札が掛かった非常階段を上った。錆びついた重い鉄扉に肩を押し当て、外の世界へこじ開ける。
体の芯まで穿つ蝉時雨と、熱されたコンクリートの照り返しが目を焼いた。
そこに、彼がいた。
第一ボタンを開けただらしない制服の着こなし。少し色素の薄い髪が、熱を帯びた風に揺れている。彼はフェンスに背中を預け、首から下げた無骨な黒いカメラを、ただ真っ直ぐに空へ向けていた。
サボり魔として有名な、瀬野蒼太。
こんなところで二人きりになっているのを見られたら、教室で何を言われるか分からない。気まずさに踵を返そうとした瞬間だった。
バチッ、と額に大粒の水滴が弾けた。
空が唐突に暗くひび割れ、バケツをひっくり返したような暴力的な夕立が、屋上を容赦なく叩きつけた。
「――濡れちゃう」
ブラウスが透けたらどうしよう。教室に戻った時、皆に何て言い訳をしよう。頭の中を、自分以外の「他人の目」ばかりが駆け巡る。慌てて屋内の階段へ逃げ込もうと、傘の代わりになるものを探して体を丸めた時だった。
ぐい、と熱い手首が私の腕を掴んだ。
「――逃げてばっかじゃ、面白いもの見逃すよ」
振り返ると、ずぶ濡れの蒼太が、ファインダーから目を離して無邪気に笑っていた。
雨粒が彼の長い睫毛からポロポロと滴り落ちているのに、彼はそれを拭おうともしない。ただ、この突発的な嵐そのものを全身で受け入れ、楽しんでいるようだった。
私の腕を掴む彼の手は、ひどく熱かった。冷たい雨粒が打ち付ける肌とのコントラストで、その微熱が火傷しそうなほど鮮明に伝わってくる。
叩きつける雨音の重さが、教室のざわめきも、誰かの視線も、頭にこびりついていた見えないルールも、すべてを乱暴に洗い流していく。
不思議と、抵抗する力がふっと抜けた。
どうにでもなれ、と長く肺に溜まっていた息を吐き出した瞬間――重く垂れ込めていた雲の切れ間から、突き刺さるような夏の日差しが屋上に降り注いだ。
雨粒を纏った錆びたフェンスが、足元の水たまりが、彼の色素の薄い髪が。
世界中のあらゆるものが水鏡となって光を乱反射し、極彩色のプリズムとなって乱舞する。息を呑むほど、美しい光景だった。
ジーッ、カシャッ。
ぜんまいの軋む音と、物理的な重みを持ったシャッター音が鼓膜を打った。
驚いて顔を向けると、蒼太が私に向けて真っ直ぐにカメラを構えている。
「……今までで一番、いい顔してる」
彼が、カメラを下ろして静かに笑う。
雨水を吸って重くなった制服も、額に張り付く前髪も、不思議と嫌ではなかった。
透明なビニール傘の内側から、安全な景色だけを覗いてやり過ごしていた私の時計の針が。
この瞬間、強烈な熱と色彩を伴って、確かに動き出したのだ。


