夕立みたいな恋だった

 彼が死んで、七回目の夏が来る。

 あの日から私の時計の針は泥水に沈んで軋みをあげるだけで動かない。彼だけが十八歳の姿のまま遠ざかり、私だけが二十五歳というひどく間の抜けた大人になってしまった。

 ――私にとって彼は、突然降り出した夕立みたいな人だった。

 息苦しいほど極彩色で、暴力的なまでに世界の輪郭を塗り替え、肌を粟立たせるような熱を孕んだ飛沫で私の全身を濡らし……あっという間に過ぎ去っていった。
 アスファルトが雨に濡れる匂いを嗅ぐたび、今でも、肺の裏側がひりつくように痛む。



 改札を抜けると、ひどい土砂降りだった。
 駅前のロータリーは、灰色の雨だれに乱反射するタクシーのテールランプで、ぼやけた水槽のように濁っている。

「うわ、最悪」

 舌打ちをして走り出していくスーツ姿の男や、色とりどりの折り畳み傘を広げながら足早に通り過ぎる人々を横目に、私は駅のコンコースのひさしの下で足を止めた。
 履き慣れた、ヒールの低い無難なベージュのパンプス。はね返る泥水で絶対に汚したくない。一日中、ブルーライトの冷たい光とエアコンの風に晒されてすっかり冷え切った体温を、これ以上奪われたくない。

 コンビニで透明なビニール傘を買うことさえ億劫で、ただ薄暗い空から容赦なく落ちてくる無数の水滴を、安全な膜の内側から眺めていた。濡れないように、波風を立てないように、息を潜めてやり過ごす。それが、私の選んだ「正しい」二十五歳の生き方だった。

 ざあざあ、という低いノイズが、世界の音を重く塞いでいく。
 ペトリコール――夏の終わりの埃っぽい風と、コンクリートが水に濡れた時のむせ返るような匂いが鼻腔を突いた瞬間、無意識に左手の爪が掌に深く食い込んでいた。

 雨は、駄目だ。

 どうしても、あの日のひどく不快な泥の匂いと、暗闇を切り裂くサイレンの赤い光を強制的に呼び覚ましてしまう。呼吸が浅くなる前に、私は逃げるようにして駅直結の屋根付き通路へ歩き出した。



 ワンルームの無機質な賃貸マンションに帰ると、狭い玄関のポストに不在票が刺さっていた。
 再配達で受け取った小さな段ボール箱は、雨水のせいか少しだけ縁が波打っている。差出人の欄には、ボールペンで丁寧に書かれた彼の母親の名前があった。

 ガムテープを剥がすと、古い紙の匂いと、線香の香りが微かに部屋の冷たい空気に混ざる。
 一番上に置かれていた一筆箋には、細く震えるような字が並んでいた。

『結衣ちゃん、お久しぶりです。来月の七回忌を前に、蒼太の部屋を整理していたら、これが出てきました。結衣ちゃんの名前が書かれた紙袋に入っていたから、きっと、あの子が最後に結衣ちゃんに見せたかったものなんだと思います。あの子のプライバシーだと思って、中身はあえて現像していません。蒼太の時間を、受け取ってあげてください』

 緩衝材の下に眠っていたのは、ずっしりと重い、黒い塊だった。
 傷だらけの革製のストラップ。指先が触れた瞬間、金属の冷たさがぞくりと肌を這い上がってくる。
 彼がいつも、それこそ制服のシャツの第一ボタンを開けた首元から、まるでお守りのようにぶら下げていた古いフィルムカメラだった。

 ――シャッターを巻く時の、あの「ジーッ」というぜんまいの軋む重い音。
 ――ファインダーの向こう側から、私だけを真っ直ぐに見つめていた、色素の薄い瞳。
 ――少し湿った彼の手首の、やけに高かった体温。

 指先が小刻みに震え始めた。もう何年も思い出すことを自分に禁じていたはずの微かな熱が、カメラの冷たい表面から逆流してくるようだった。

 どうして今になって。
 息を呑みながら裏側へひっくり返した時、そこに見覚えのある白いマスキングテープが雑に貼られているのに気づいた。
 乱暴で、右上がりの強い癖のある字。間違いなく、彼自身の筆跡だった。

『もし俺がいなくなっても、雨上がりには空を見て』

 文字をなぞった指先から、一瞬にして血の気が引いていくのがわかった。
 ドクン、と耳の奥でひどく嫌な音が鳴る。

 どうして。
 私たちはあの日、息が詰まるほどの土砂降りの中で、決定的にすれ違ってしまったのに。

 ――結衣はいつも、傘の中で濡れないようにしてるだけじゃん。

 あんなにも冷たい声で私を突き放し、背を向けて雨の中へ消えていった彼が、どうしてこんな言葉を残しているのだろう。
 その直後、二度と目を開けることのない姿になってしまったというのに。

 巻かれたままの真っ黒なフィルムの中には、私が知らない彼の、本当に最後の時間が封じ込められている。光の届かないカメラの底で、七年間も静かに息を潜めていたのだ。
 知るのが怖い。あの日の自分の醜さと、彼を殺してしまったも同然の罪悪感が、白日の下に晒されるのが恐ろしい。胃の奥がせり上がるような吐き気を覚える。

 それでも……。

 私は強く唇を噛み、冷え切った金属の塊を両手で包み込んだ。
 彼の止まった時計の針を動かさなければ、私の明日には永遠に冷たい雨が降り続ける。