解けることない、優しい呪いみたいな恋だった

「Closed」

 真鍮のドアノブに掛けられた木札を見て、私は思わず立ち止まった。
 昨日の夜、私が「続きの色を作ってあげる」と宣言してから半日しか経っていない。今日は定休日でもないはずだ。
 首を傾げながら、ゆっくりと重いドアを押し開ける。
「……えっ」
 息を呑んだ。
 視界に飛び込んできたのは、いつもの静かなカフェの光景ではなかった。
 私が陣取っていた奥の革張りソファは端に寄せられ、代わりに広々とした頑丈な作業台が鎮座している。その上には、プロでもおいそれと手が出せないような高価なアンティークガラスの板が何十枚も並べられ、ガラスカッターやルーターといった専用の工具が、まるで手術室のメスのように整然と揃えられていた。
 手元の影を消すための、目に優しい色温度の照明まで設置されている。
 たった一晩で、ここは完全な「ステンドグラス造りのための専用アトリエ」へと作り変えられていた。
「来たか」
 奥の部屋から、彼が姿を現す。
 いつも通りの静かな微笑み。だが、彼から立ち上る「水色」の質感が、昨日までとは明らかに異なっていた。
 爽やかな波打ち際のような軽やかさは消え去り、真綿のように重く、空間のすべてを塗りつぶすような「分厚い水色」。逃げ場のない、濃密な色。
「君が作業しやすいように整えておいた。何日泊まり込んでもいいように、奥の部屋も片付けてあるよ」
 少しの狂気すら感じるほどの、完璧すぎる準備。
 普通なら引いてしまうところだ。でも、私の胸の奥では、彼のために私が特別扱いされているという、甘い歓喜が勝ってしまった。
「……大げさじゃない? まあ、プロに頼むんだから、これくらい環境整えてもらわないと困るけどね」
 精一杯の虚勢を張りながら、私は作業台の前に立った。

 そこからの時間は、今までの静かな距離感が嘘のような、異常なほどの「溺愛」の連続だった。
 彼は店を開けることなく、つきっきりで私の世話を焼き始めた。
 私がガラスを切り出し、鉛線を這わせる作業に没頭していると、絶妙なタイミングで視界の端に温かいお茶が置かれる。
「少し休まないか。目を酷使しすぎだ」
 小皿に乗せられていたのは、宝石のように色鮮やかなフルーツサンド。あるいは、少し肌寒い時間帯には、ズワイガニの濃厚な出汁が効いた熱々の卵雑炊が、湯気を立てて運ばれてきた。
「美味しい……」
 私の共感覚を刺激するノイズが一切ない、ただ純粋な旨味の暴力。
 作業で両手が塞がっていると、彼が私の口元までサンドイッチを運んできた。
「手がいっぱいなら、食べさせようか」
「なっ、子供じゃないんだから!」
 顔にカッと熱が集まる。普段の彼なら絶対に言わないような、過保護すぎる甘やかしの言葉。
 反発しながらも、私の心は溶けるように満たされていた。
 今まで生きてきて、誰かにここまで過剰に、大切に庇護されたことなんて一度もなかった。天才だ、過敏だと腫れ物扱いされるか、才能だけを搾取されるかのどちらかだった。
 甘すぎる猛毒のような状況に戸惑いながらも、私は完全に骨抜きにされていく。
 視界は彼の放つ「濃密な水色」で隙間なく満たされ、外の世界のノイズは一滴たりとも侵入してこない。
 ここは、最高に心地よい箱庭だ。
 彼の手によって与えられる甘い餌と安全な空間に浸りながら、私はこの鳥籠から一生出られなくてもいいとさえ思い始めていた。

 作業は順調に進んだ。
 私は、作りかけのステンドグラスに残された「色の残滓」に意識を集中させる。
 過去の作者が込めた、焼き切れるような情熱と、狂気じみた祈り。
 その感情の波長を私の共感覚で読み取り、欠けているピースに最も相応しい色彩を導き出していく。
「……違う。これじゃない」
 何枚ものガラスを光に透かし、弾く。
 中央の凍りついた空白。ここを埋めるための、たった一枚の正解。
「……ここに入るのは、ただの青じゃない。もっと悲鳴みたいな、祈るような青紫だ」
 私は息を詰め、一枚のガラス板を手に取った。
 深い海のような青の底に、血の滲むような紫が混ざり合った、複雑な色合いのアンティークガラス。
 それを持ち上げ、照明の光に透かした瞬間。

 ガシッ。

「……っ!」
 不意に、私の右手首が強い力で掴まれた。
 ガラスを取り落としそうになり、ハッと横を見る。
 彼だった。
 いつものひんやりとした温度はない。私の手首を掴む彼の手は、火傷しそうなほどに熱く、微かに震えていた。
 彼の纏う分厚い水色の奥底。
 そこで、昨日見たあの「どす黒い執着の黒」が、まるで墨汁を水に落としたように、一瞬だけ爆発的に渦を巻いたのを視た。

「素晴らしい……」

 吐息のような、かすれた声だった。
 手首を掴まれたまま見上げると、彼は恍惚とした表情で、私の手元のガラスを凝視していた。
「君にしか、この色は見つけられなかった。完璧だ……」
 褒め称える声。狂気じみた賛美。
 褒められて、嬉しいはずだった。彼のために役に立てたのだと、誇らしいはずだった。
 でも。
 手首に食い込む彼の指の力に、背筋が凍るような冷たさを感じた。
 彼の硝子玉のような瞳は、見開かれている。
 だが、その視線の焦点は、私の「顔」には合っていなかった。私の存在など、彼の視界には全く入っていない。
 彼が熱烈に見つめ、愛おしそうに撫でるような視線を送っているのは、私が選び出したガラスの色と、それを掴んでいる私の「手」だけだった。

(……彼は今、私を通して『誰』を見ているの?)

 甘すぎる溺愛の沼の中で、チクリと胸に刺さった冷たい疑念の痛み。
 私を包み込むこの分厚い水色は、私を守るための盾なんかじゃない。
 あの凍りついた海の底にいる「誰か」を、私の才能を使って呼び覚ますための、歪な儀式の空間なのだ。
 その残酷な可能性に気づかないふりをしたまま、私はただ、掴まれた手首の熱さと痛みにじっと耐え続けていた。