深く冷たい、完全に凍りついた海の底。
昨日見たあの絶対零度の色彩が、まぶたの裏にこびりついて離れなかった。
アンティークテーブルの定位置に座りながら、私は濃いサングラス越しにカウンターの奥を見つめる。
ペーパーフィルターにお湯を注ぐ男の横顔。彼から静かに広がるのは、いつもの波一つない、穏やかで優しい水色だ。
だまされない。
この数週間、私を外のノイズから守ってくれていたこの美しい水色は、決して「穏やかさ」なんかじゃない。彼自身が自分の深層世界にある痛みを隠すために拵えた、分厚い氷の壁なのだ。
胸の奥が、ちくりと痛む。
彼の心をもっと知りたい。その分厚い氷の下に隠された、本当の彼に触れてみたい。
私の視線は自然と、彼の手元から離れ、店の最奥に立てかけられた巨大な木枠へと向かっていた。
カラン、とドアベルが鳴り、テイクアウトの客が訪れた。男がレジの対応をしている隙に、私は音を立てずにソファを立ち上がり、店の奥へと足を進めた。
作りかけの、ステンドグラス。
初めて見た時は、遠目から「素人にしては悪くない」と虚勢を張って見せただけだった。だが今、プロとしての目と、研ぎ澄まされた共感覚を全開にして至近距離からそれを観察する。
黒いサングラスを、ゆっくりと外した。
「……っ」
息を呑む。
至近距離から浴びるその作品は、圧倒的な「感情の暴風」だった。
組み上げられたガラスのピースから立ち上ってくるのは、焼き切れるような情熱の赤。そして、狂気じみた鮮やかな紫。
痛いほどに切実で、むせ返るほどに激しい感情の残滓が、ガラスの表面から熱を帯びて放たれている。
改めて確信した。
――こんなに激しい感情の色、あの『水色』の彼から出るわけがない。
彼が言った「俺が作っている」という言葉は嘘だ。
これは別の誰かが作ったものだ。おそらく、彼がその身を削るほどに大切に想い、そして喪ってしまった誰かの。
視線を中央へ移す。
周囲の激しい色彩の暴風の中で、最後にはめ込まれようとして作業が止まっている、中心の未完成部分。
そこだけが、昨日見た彼の心と同じ「凍りついた冷たい色」で、完全に停止していた。
作者がいなくなり、取り残された空白。彼自身の手では、この強烈な感情の渦に色を足すことができず、ただ時間が凍りついているのだ。
「……熱心だな。やっぱり、プロから見ると粗だらけか?」
不意に、背後から声が降ってきた。
客を見送り終えた彼が、音もなく私の後ろに立っていた。
ひんやりとした水色の空気が、私を包み込む。
私は逃げずに振り返り、彼を真っ直ぐに見上げた。
「……これ、あんたが作ったんじゃないでしょ」
直球の指摘。
その瞬間、彼の纏う水色が、ピクリと微かに揺れた。硝子玉のような瞳の奥で、光が硬質に反射する。
責めるつもりなんて、少しもなかった。
プロとしてのプライドでも、嘘を暴く優越感でもない。ただ、彼を救いたかった。
この凍りついた空白に囚われ、心を死なせたまま息をしている彼を、私が動かしてあげたい。
「ここから先の色、あんたじゃ永遠に埋められないよ」
震える声で、私は言葉を紡いだ。純粋で、ひどく傲慢な、愛情の暴走。
「……私が、続きの色を作ってあげようか?」
私が、あなたの止まった時間を動かしてあげる。
この冷たい呪縛から、あなたを掬い上げてあげるから。
店内の空気が、シンと静まり返った。
真鍮の古時計の音すら、遠くの出来事のように感じられる。
男は伏し目がちに、私の背後にあるステンドグラスを見つめていた。
沈黙の中、私の共感覚が、彼の心の異変を捉えた。
いつもは波一つない優しい水色が、ひどく歪に波打っている。
そして。
その凍りついた水色の奥底、その深淵から。
何かに飢えたような、どぎつい執着の『黒』が、ほんの一滴だけ、ポツリと滲み出たのを視た。
泥のように濁りきった、おぞましい感情の破片。
だが、彼を救いたいという熱に浮かされていた私は、その危険な黒色を、「彼が初めて見せてくれた、人間らしい感情の揺らぎ」なのだと、致命的な誤認をしてしまった。氷が溶け始めているのだと、勝手に思い込んだ。
「……君が、これを完成させてくれるのか?」
男が、ゆっくりと顔を上げた。
前髪の奥から覗く瞳が、今までで一番深く、重たい熱を帯びて私を捉える。
絡みつくような視線。
「うん」
私は深く頷いた。
それが、絶対に解けない呪いの渦中へ自ら足を踏み入れる行為だとは、夢にも思わないまま。
昨日見たあの絶対零度の色彩が、まぶたの裏にこびりついて離れなかった。
アンティークテーブルの定位置に座りながら、私は濃いサングラス越しにカウンターの奥を見つめる。
ペーパーフィルターにお湯を注ぐ男の横顔。彼から静かに広がるのは、いつもの波一つない、穏やかで優しい水色だ。
だまされない。
この数週間、私を外のノイズから守ってくれていたこの美しい水色は、決して「穏やかさ」なんかじゃない。彼自身が自分の深層世界にある痛みを隠すために拵えた、分厚い氷の壁なのだ。
胸の奥が、ちくりと痛む。
彼の心をもっと知りたい。その分厚い氷の下に隠された、本当の彼に触れてみたい。
私の視線は自然と、彼の手元から離れ、店の最奥に立てかけられた巨大な木枠へと向かっていた。
カラン、とドアベルが鳴り、テイクアウトの客が訪れた。男がレジの対応をしている隙に、私は音を立てずにソファを立ち上がり、店の奥へと足を進めた。
作りかけの、ステンドグラス。
初めて見た時は、遠目から「素人にしては悪くない」と虚勢を張って見せただけだった。だが今、プロとしての目と、研ぎ澄まされた共感覚を全開にして至近距離からそれを観察する。
黒いサングラスを、ゆっくりと外した。
「……っ」
息を呑む。
至近距離から浴びるその作品は、圧倒的な「感情の暴風」だった。
組み上げられたガラスのピースから立ち上ってくるのは、焼き切れるような情熱の赤。そして、狂気じみた鮮やかな紫。
痛いほどに切実で、むせ返るほどに激しい感情の残滓が、ガラスの表面から熱を帯びて放たれている。
改めて確信した。
――こんなに激しい感情の色、あの『水色』の彼から出るわけがない。
彼が言った「俺が作っている」という言葉は嘘だ。
これは別の誰かが作ったものだ。おそらく、彼がその身を削るほどに大切に想い、そして喪ってしまった誰かの。
視線を中央へ移す。
周囲の激しい色彩の暴風の中で、最後にはめ込まれようとして作業が止まっている、中心の未完成部分。
そこだけが、昨日見た彼の心と同じ「凍りついた冷たい色」で、完全に停止していた。
作者がいなくなり、取り残された空白。彼自身の手では、この強烈な感情の渦に色を足すことができず、ただ時間が凍りついているのだ。
「……熱心だな。やっぱり、プロから見ると粗だらけか?」
不意に、背後から声が降ってきた。
客を見送り終えた彼が、音もなく私の後ろに立っていた。
ひんやりとした水色の空気が、私を包み込む。
私は逃げずに振り返り、彼を真っ直ぐに見上げた。
「……これ、あんたが作ったんじゃないでしょ」
直球の指摘。
その瞬間、彼の纏う水色が、ピクリと微かに揺れた。硝子玉のような瞳の奥で、光が硬質に反射する。
責めるつもりなんて、少しもなかった。
プロとしてのプライドでも、嘘を暴く優越感でもない。ただ、彼を救いたかった。
この凍りついた空白に囚われ、心を死なせたまま息をしている彼を、私が動かしてあげたい。
「ここから先の色、あんたじゃ永遠に埋められないよ」
震える声で、私は言葉を紡いだ。純粋で、ひどく傲慢な、愛情の暴走。
「……私が、続きの色を作ってあげようか?」
私が、あなたの止まった時間を動かしてあげる。
この冷たい呪縛から、あなたを掬い上げてあげるから。
店内の空気が、シンと静まり返った。
真鍮の古時計の音すら、遠くの出来事のように感じられる。
男は伏し目がちに、私の背後にあるステンドグラスを見つめていた。
沈黙の中、私の共感覚が、彼の心の異変を捉えた。
いつもは波一つない優しい水色が、ひどく歪に波打っている。
そして。
その凍りついた水色の奥底、その深淵から。
何かに飢えたような、どぎつい執着の『黒』が、ほんの一滴だけ、ポツリと滲み出たのを視た。
泥のように濁りきった、おぞましい感情の破片。
だが、彼を救いたいという熱に浮かされていた私は、その危険な黒色を、「彼が初めて見せてくれた、人間らしい感情の揺らぎ」なのだと、致命的な誤認をしてしまった。氷が溶け始めているのだと、勝手に思い込んだ。
「……君が、これを完成させてくれるのか?」
男が、ゆっくりと顔を上げた。
前髪の奥から覗く瞳が、今までで一番深く、重たい熱を帯びて私を捉える。
絡みつくような視線。
「うん」
私は深く頷いた。
それが、絶対に解けない呪いの渦中へ自ら足を踏み入れる行為だとは、夢にも思わないまま。

