表の看板の明かりが落とされ、重厚な木のドアに掛けられた札が「CLOSED」に裏返される。
アンティークカフェの営業が終了した、夜の時間。
店内に残っているのは、カウンターの奥で静かにグラスを磨き続ける男と、一番奥のソファ席を陣取る私だけ。
テーブルに散らばった三十七色の色鉛筆。その真ん中で、私は無防備に顔を晒したまま、ステンドグラスのデザイン画に鉛筆を走らせていた。
目を守るための黒いサングラスは、今夜も鞄の中だ。
カチ、カチ、カチ。
真鍮の古時計が刻む、規則正しい秒針の音。グラスを拭い上げる布巾の、微かな摩擦音。
他人の感情のノイズが一切存在しない、絶対的な静寂。
ふう、と短く息を吐き出す。
肺の隅々にまで、古い木材と珈琲の香りが染み渡っていく。世界で一番呼吸がしやすいこの場所で、私はすっかり、警戒心を解いた野良猫になり下がっていた。
カリカリと動かしていた鉛筆の芯を、ふと止める。
顔を上げ、カウンター越しに男の横顔を見つめた。
ランプの琥珀色の光を浴びた伏せ目がちな瞳。色素の薄い髪が、彼が動くたびにサラリと揺れる。
彼から滲み出す、波一つない水色。
あの刺々しいオレンジ色を放つ常連客が怒鳴り込んできた時も。私が「マグロ丼を作れ」と理不尽な我が儘を押し付けた時も。
彼は決して、感情を波立たせなかった。
苛立ちの赤も、困惑のグレーも、彼を染め上げたことは一度もない。
他人の感情の起伏が「色」として飛び込んでくる私にとって、常に一定の温度を保ち続ける彼のその特性は、奇跡そのものだった。
どうして、そんな色でいられるのだろう。
この数週間で少しだけ外れかけた心のストッパーが、私の口を無防備に動かした。
「……ねえ」
静寂の底に落とした声は、自分でも驚くほど素直な響きを持っていた。
男がグラスを磨く手を休めず、ほんの少しだけ顔をこちらへ向ける。
「あんたって、どうしていつもそんなに『凪いだ色』をしてるの?」
無意識のうちに、指先で色鉛筆を転がす。
「怒ったり、焦ったりしないわけ? 私が変なこと言っても、いつも同じ顔してるし」
言葉の裏側に潜む、(あなたのことをもっと知りたい)という不器用な好意。それを誤魔化すように、わざと少しだけ生意気なトーンを作って投げかける。
グラスを磨いていた白い布巾が、ピタリと止まった。
ほんの一瞬の、空白。
男はゆっくりと振り返り、いつものように穏やかな微笑みを口元に浮かべた。
「俺は昔から、感情の起伏が少ない方だからね。あまり、何かに心を動かされることがないんだ」
温度のない、なめらかなバリトン。
いつも通りの、優しい彼だ。
……はずだった。
だが、私の「目」は、その瞬間だけ、彼の纏う水色の質感が決定的に変容したのを捉えていた。
ゾクリと、背筋を悪寒が駆け抜けた。
温かくて、穏やかな春の湖面。私を守ってくれていたはずの水色が、違う。
光の届かない、ひどく暗い深淵。
すべての波紋を拒絶する、完全に凍りついた、蠢くことすら無い、死の海の底。
息を呑む。
今、彼から発せられているのは、「穏やかさ」などという生易しいものではなかった。
感情が動かないのではない。波立たないのではない。
……心が、とうの昔に死んでしまっているのだ。
彼の硝子玉のような瞳の奥が、何かを取り返しのつかない喪失を思い出すように、ひどく暗く、濁った影を帯びて沈んでいく。
優しい水色の皮を被った、底なしの虚無。
その異様な冷たさに触れた瞬間、私は本能的な恐怖で身をすくませ、椅子の上で固まった。
「さて」
次の瞬間、凍りついていた空気がふわりと解けた。
彼は再びいつもの「優しい水色」の空気を纏い直し、何事もなかったかのように布巾を畳む。
「そろそろ店じまいだ。夜道は危ないから、途中まで送るよ」
促すような言葉。
私は弾かれたように我に返り、「……うん」と短く頷きながら、慌てて鞄にスケッチブックと色鉛筆を放り込んだ。
カチャン、と鍵のかかる音が夜の路地裏に響く。
街灯の乏しい暗い道を、彼と並んで歩き出す。
彼の横顔を盗み見る。そこにあるのは、いつもと変わらない、静かで穏やかな水色だけだ。
気のせいだったのだろうか。
いや、違う。私の目が、色を見間違えるはずがない。
鞄の紐を握りしめる。胸の奥に、小さな棘が刺さったような違和感が痛い。
彼の心は、本当はどうなっているんだろう。
あの凍りついた海の底に、彼は何を沈めているのだろう。
いつも私を外のノイズから守り、温かいご飯を作ってくれる、この静かで優しい人の、本当の心。
それに触れてみたい。
彼を、あの冷たい深淵から掬い上げたい。
恐れと、好奇心。そして、今まで感じたことのない、胸を締め付けるような切実な欲求。
それが「恋」と呼ばれる感情の輪郭であることに気づかないふりをしたまま、私は夜のノイズの中を、彼と二人で静かに歩き続けた。
アンティークカフェの営業が終了した、夜の時間。
店内に残っているのは、カウンターの奥で静かにグラスを磨き続ける男と、一番奥のソファ席を陣取る私だけ。
テーブルに散らばった三十七色の色鉛筆。その真ん中で、私は無防備に顔を晒したまま、ステンドグラスのデザイン画に鉛筆を走らせていた。
目を守るための黒いサングラスは、今夜も鞄の中だ。
カチ、カチ、カチ。
真鍮の古時計が刻む、規則正しい秒針の音。グラスを拭い上げる布巾の、微かな摩擦音。
他人の感情のノイズが一切存在しない、絶対的な静寂。
ふう、と短く息を吐き出す。
肺の隅々にまで、古い木材と珈琲の香りが染み渡っていく。世界で一番呼吸がしやすいこの場所で、私はすっかり、警戒心を解いた野良猫になり下がっていた。
カリカリと動かしていた鉛筆の芯を、ふと止める。
顔を上げ、カウンター越しに男の横顔を見つめた。
ランプの琥珀色の光を浴びた伏せ目がちな瞳。色素の薄い髪が、彼が動くたびにサラリと揺れる。
彼から滲み出す、波一つない水色。
あの刺々しいオレンジ色を放つ常連客が怒鳴り込んできた時も。私が「マグロ丼を作れ」と理不尽な我が儘を押し付けた時も。
彼は決して、感情を波立たせなかった。
苛立ちの赤も、困惑のグレーも、彼を染め上げたことは一度もない。
他人の感情の起伏が「色」として飛び込んでくる私にとって、常に一定の温度を保ち続ける彼のその特性は、奇跡そのものだった。
どうして、そんな色でいられるのだろう。
この数週間で少しだけ外れかけた心のストッパーが、私の口を無防備に動かした。
「……ねえ」
静寂の底に落とした声は、自分でも驚くほど素直な響きを持っていた。
男がグラスを磨く手を休めず、ほんの少しだけ顔をこちらへ向ける。
「あんたって、どうしていつもそんなに『凪いだ色』をしてるの?」
無意識のうちに、指先で色鉛筆を転がす。
「怒ったり、焦ったりしないわけ? 私が変なこと言っても、いつも同じ顔してるし」
言葉の裏側に潜む、(あなたのことをもっと知りたい)という不器用な好意。それを誤魔化すように、わざと少しだけ生意気なトーンを作って投げかける。
グラスを磨いていた白い布巾が、ピタリと止まった。
ほんの一瞬の、空白。
男はゆっくりと振り返り、いつものように穏やかな微笑みを口元に浮かべた。
「俺は昔から、感情の起伏が少ない方だからね。あまり、何かに心を動かされることがないんだ」
温度のない、なめらかなバリトン。
いつも通りの、優しい彼だ。
……はずだった。
だが、私の「目」は、その瞬間だけ、彼の纏う水色の質感が決定的に変容したのを捉えていた。
ゾクリと、背筋を悪寒が駆け抜けた。
温かくて、穏やかな春の湖面。私を守ってくれていたはずの水色が、違う。
光の届かない、ひどく暗い深淵。
すべての波紋を拒絶する、完全に凍りついた、蠢くことすら無い、死の海の底。
息を呑む。
今、彼から発せられているのは、「穏やかさ」などという生易しいものではなかった。
感情が動かないのではない。波立たないのではない。
……心が、とうの昔に死んでしまっているのだ。
彼の硝子玉のような瞳の奥が、何かを取り返しのつかない喪失を思い出すように、ひどく暗く、濁った影を帯びて沈んでいく。
優しい水色の皮を被った、底なしの虚無。
その異様な冷たさに触れた瞬間、私は本能的な恐怖で身をすくませ、椅子の上で固まった。
「さて」
次の瞬間、凍りついていた空気がふわりと解けた。
彼は再びいつもの「優しい水色」の空気を纏い直し、何事もなかったかのように布巾を畳む。
「そろそろ店じまいだ。夜道は危ないから、途中まで送るよ」
促すような言葉。
私は弾かれたように我に返り、「……うん」と短く頷きながら、慌てて鞄にスケッチブックと色鉛筆を放り込んだ。
カチャン、と鍵のかかる音が夜の路地裏に響く。
街灯の乏しい暗い道を、彼と並んで歩き出す。
彼の横顔を盗み見る。そこにあるのは、いつもと変わらない、静かで穏やかな水色だけだ。
気のせいだったのだろうか。
いや、違う。私の目が、色を見間違えるはずがない。
鞄の紐を握りしめる。胸の奥に、小さな棘が刺さったような違和感が痛い。
彼の心は、本当はどうなっているんだろう。
あの凍りついた海の底に、彼は何を沈めているのだろう。
いつも私を外のノイズから守り、温かいご飯を作ってくれる、この静かで優しい人の、本当の心。
それに触れてみたい。
彼を、あの冷たい深淵から掬い上げたい。
恐れと、好奇心。そして、今まで感じたことのない、胸を締め付けるような切実な欲求。
それが「恋」と呼ばれる感情の輪郭であることに気づかないふりをしたまま、私は夜のノイズの中を、彼と二人で静かに歩き続けた。

