解けることない、優しい呪いみたいな恋だった

 アンティークテーブルに広げたスケッチブック。微かな鉛筆の擦過音だけが、心地よい静寂に溶けていく。
 午後の柔らかな光が、ステンドグラスの硝子片を通して、床に水たまりのような影を落としていた。
 私の顔面を覆う分厚いサングラスは、外されている。ノイズキャンセリングイヤホンも、鞄の底だ。
 他人の感情を遮断するための鎧を、私は完全に解いていた。
 ここは、安全だから。
 離れたカウンターでは、男が静かに珈琲豆の選別をしている。彼から滲み出す、波一つない穏やかな水色。その澄み切った色彩が、埃の舞う店内の空気をひんやりと満たし、私の呼吸を規則正しく整えてくれていた。
 微睡むような、平和な時間。
 デザイン画の線をなぞりながら、私は無意識のうちに口角を緩めていた。

 カラン。

 真鍮のドアベルが、乾いた音を立てた。
 瞬間。
 網膜を、鋭利な刃物が切り裂いた。

「いやあ、今日も最悪でね」

 ひどく濁った、太い声。
 その音波と共に、刺々しいオレンジ色と、腐乱した果実のような不快な赤色が、堰を切ったように密室へ雪崩れ込んできた。
「……っ」
 鉛筆が指から滑り落ち、床を転がる。
 入ってきたのは、初老の男だった。スーツの肩から、極度のストレスと苛立ち、そして他者への猜疑心が、どぎつい原色の飛沫となって撒き散らされている。
 暴力的な色彩の波が、無防備な私の眼球を直接殴りつけた。
 視界が、ぐらりと傾く。
 胃袋の底から、強烈な吐き気が込み上げた。
 渋谷のスクランブル交差点で倒れた日の、あの極彩色の地獄がフラッシュバックする。
 息が、吸えない。
 気管が痙攣し、喉の奥でヒューッと情けない音が鳴る。
 隠さなきゃ。鎧を、着ないと。
 私はテーブルに突っ伏すようにして、鞄のジッパーに手を伸ばした。
 だが、指先がカタカタと震え、金具を掴むことができない。爪が空を切り、キャンバス地の表面を無様に引っ掻く。
 泥のような赤とオレンジのノイズが、足元から這い上がってくる。
 駄目だ。飲み込まれる。呼吸の仕方が、わからない。
 パニックに陥り、目を固く閉じた、その時。

 ふわりと、視界が翳った。

 極彩色の飛沫が、不自然なほどピタリと止む。
 恐る恐る目を開く。
 目の前に、広い背中があった。
 微かに漂う、珈琲と古い木材の匂い。
 男が、私と初老の客との直線上に立ち、その身体で私を完全に隠していた。
 彼から広がる静かで冷たい水色が、客の放つ刺々しいノイズと衝突し、シューッと音を立てて鎮火していくように見える。
 圧倒的な、水色の盾。
 彼は私を振り返ることなく、背手に回した手で、テーブルの上にコトンと何かを置いた。
 濃い、サングラス。
 私が鞄から取り出そうとしていた、私の鎧。
「……」
 声も出せない私を背後で守ったまま、彼はなめらかな動作で客の方へと向き直る。
「お疲れのようですね」
 温度のない、けれど決して客を逆撫でしない、穏やかなバリトン。
「今日は、奥の席よりもカウンターの方が風通しがいいですよ。冷たい水をご用意しましょう」
 怒り狂っていた客のノイズが、彼の凪いだ声に絡め取られていく。
 男は巧みな誘導で、客の意識を私から完全に逸らし、店で最も私から遠いカウンター席へと歩かせていった。

 震える指でサングラスを掴み、顔にかける。
 暗いレンズ越しに見る世界。肺いっぱいに、酸素を吸い込んだ。
 冷や汗で張り付いた前髪の奥、視界のノイズは、遠く離れたカウンターで彼の水色に中和され、すっかり輪郭を失っていた。
 客はカウンターに身を乗り出し、とめどなく愚痴をこぼしている。
 男はグラスを磨きながら、それに相槌を打つ。彼の水色は、どれだけ客が泥のような感情をぶつけてこようと、微塵も濁ることはなかった。
 ふと、グラスを布巾で拭いながら。
 彼がチラリと、こちらへ視線を向けた。
 硝子玉のような瞳が、レンズ越しの私の目を探り、『大丈夫か』と静かに問うている。
 私は、ゆっくりと一度だけ瞬きをした。

 胸の奥で、小さく、トクンと音がした。
 痛いような、甘いような、今まで感じたことのない奇妙な収縮。
 テーブルの下で、膝掛けを強く握りしめる。
 ……違ったのだ。
 私がこの店で安全だったのは、ただここが人の来ない静かな場所だったからじゃない。
 彼が、その水色で。
 私の気付かないところで、ずっと私を守ってくれていたからだ。
「……ばか」
 誰にともなく、かすれた声がこぼれる。
 都合のいいご飯係。ただの居心地のいい場所。
 そんな不器用な言い訳が、音を立てて崩れ落ちていくのを、私はもう止めることができなかった。