解けることない、優しい呪いみたいな恋だった

 アンティークテーブルの赤茶けた表面を、三十七色の色鉛筆が占拠している。
 削りカス。丸められたトレーシングペーパー。いくつも描き直されたステンドグラスの原案。
 あの琥珀糖の日から一週間。店の最奥にある革張りのソファ席は、完全に私のアトリエと化していた。
 重たい黒のサングラスは、鞄の底で眠っている。ノイズキャンセリングイヤホンも、右耳だけは外してテーブルの端に転がしていた。
 視界をチカチカと刺激する他人の感情は、ここにはない。
 真鍮の古時計が刻む規則正しい微かな打音と、珈琲をドリップする静かな水滴の音。
 凪いだ水色の中で、私は心ゆくまで色彩の世界に没頭することができた。

「……お腹すいた。死ぬ」

 鉛筆を放り投げ、机に突っ伏した。
 木材の冷たい感触が頬に心地よい。胃の底が、情けなく収縮を繰り返している。
 カウンターの奥でペーパーフィルターにお湯を注いでいた男が、細く息を吐いた。
「うちはカフェなんだが。まともな客はいつ来るんだろうな」
 呆れたような口調。だが、彼から広がる水色は、春の陽だまりのように穏やかで、一切の波紋を描いていない。
 私は身を起こし、ふんぞり返った。
「今日はマグロの気分。マグロ丼、作ってよ」
 要求。極めて理不尽な無茶振り。
 男は珈琲の滴下から目を離さず、即答した。
「ここはアンティークカフェだ。マグロはない」
 呼吸が、止まる。
「……えっ」
 脳の処理能力が著しく低下する。カフェ。アンティーク。マグロ、ない。
 嘘だ。信じない。
 私は数分間、完全に思考を停止させた。目の前の空間を見つめたまま、ただ瞬きだけを繰り返す。
 男がドリップポットを置く音がした。
「……そっか。……マグロ」
 唇から零れ落ちた声は、自分でも驚くほど湿気を帯びていた。
 膝を抱える。デニムの生地に顔を押し当てた。
 理不尽だとは分かっている。だが、一度マグロ丼に設定された胃袋を、どう軌道修正すればいいのか分からない。失われた赤身の輝き。酢飯の匂い。
 私が丸まって微動だにしないでいると、深いため息が聞こえた。
「マグロはないが。卵ならある」

 数分後、微かな足音と共に、私の目の前に白い皿がコトンと置かれた。
 鼻腔をくすぐる、バターの芳醇な香り。
 顔を上げる。
 皿の中心に鎮座していたのは、見事な紡錘形を描くフワフワのオムライスだった。
 息を呑む。
 鮮やかな黄色。その頂上から滴り落ちる、艶やかな赤。
 私の共感覚において、その二色は「ノイズ」の象徴だった。黄色は、薄っぺらい歓喜や耳障りな騒音。赤は、むき出しの怒りや攻撃性。他人の放つそれらの色は、いつも私の網膜を焼き、激しい頭痛を引き起こす。
 反射的に目を細める。
 だが、痛みが、来ない。
 恐る恐る目を見開いた。
 湯気を立てるそのオムライスからは、いかなる感情のノイズも発せられていなかった。
 あるのはただ、物質としての純粋な黄色と赤。
 鶏卵が加熱されて固まることで生まれた優しい黄色。完熟したトマトが煮詰められた、深く甘い赤色。
 それはまるで、教会の窓を彩る上質な色ガラスのようだった。
 美しい。
 スプーンを握る。表面の卵に切れ目を入れると、半熟の内側がとろりと崩れ、湯気を上げるチキンライスが顔を出した。
 一口、口に運ぶ。
 舌の上で広がる卵の濃厚な甘み。バターのコク。そして、ケチャップの柔らかな酸味。
「……」
 ノイズがしない。ただ純粋に、美味しい。
 焦燥も、苛立ちも、嘘もない。作り手の感情が味覚を侵食することのない、完璧な食事。
 スプーンを動かす手が止まらなくなった。
 黙々と咀嚼し、飲み込む。鮮やかな黄色と赤のガラス細工が、次々と私の胃袋の中へ消えていく。

 あっという間に皿を空にしてしまった私に、男はカウンターから静かに食後の麦茶を差し出した。
 氷がグラスにぶつかり、カランと涼しげな音を立てる。
 冷たい麦茶を喉に流し込む。
 視線の先。彼は再び本を開き、水色の静寂の中に身を沈めている。
 肺の底で、何かがゆっくりと解けていくのを感じた。
 ノイズがないから。静かだから。
 最初は、ただそれだけの理由だった。私にとってここは、外の地獄から逃げ込むための、ただのシェルターに過ぎなかった。
 でも。
 グラスの水滴を指でなぞる。
 私はもう、それだけの理由でここにいるわけじゃない。
 この温かい食事。静かなマグロの不在。そして、一切のノイズを放たない彼の背中。
「……明日は、何作るの?」
 静寂を切り裂くように、不器用な言葉が口を突いて出た。
 自分から明日の約束を強要するような、図々しい問いかけ。
 男は本から視線を上げず、ただページを捲る。
「さあ。市場の仕入れ次第だな」
 伏せられた長い睫毛の奥で、微かに目元が緩んだ。
 クスリと、極めて小さな笑い音が、ひんやりとした水色の空気に溶けていく。

 真鍮の古時計が、穏やかな時間を刻む。
 私は再び鉛筆を握り、三十七色の世界へと静かに潜っていった。