解けることない、優しい呪いみたいな恋だった

 液晶画面から放たれる青白い光が、網膜をチカチカと灼き刺す。
 スマートフォンの通知音が鳴るたび、受信トレイに溜まっていく催促のメール。文面から滲み出すのは、クライアントの焦燥を示す濁った黄色と、金銭欲に塗れた生々しい紫色のノイズだった。
「……っ」
 こめかみを鋭い痛みが走る。
 ノイズキャンセリングイヤホンを耳の奥まで押し込んでも、視覚から流れ込んでくる他者の感情は防げない。胃の底からせり上がる吐き気を堪え、私は作業机に突っ伏した。
 散らばった色鉛筆。白紙のスケッチブック。
 新作のステンドグラスのデザイン画は、昨日から一筆も進んでいない。
 目を閉じると、暗闇の中にあの静寂がフラッシュバックした。
 古い木材の匂い。真鍮の時計の音。
 そして、波一つない、透き通った水色。
 あそこなら。あの完全な静寂の中なら、少しは息ができるかもしれない。
 気がつけば、私はスケッチブックを鞄に押し込み、逃げるようにアトリエを飛び出していた。

 真鍮のドアベルが、カランと控えめな音を鳴らす。
 重厚な木のドアを押し開けると、あのひんやりとした水色の空気が私を包み込んだ。
 カウンターの奥で、珈琲豆の瓶を拭いていた男が顔を上げる。
「……いらっしゃい」
 静かな声だった。
 私は分厚いサングラスのブリッジを指で押し上げ、顎をツンと反らす。
「たまたま、近くまで来たから」
 早口で言葉をぶつける。
「あと、あのステンドグラス、あんたが変な色を足して台無しにしてないか、プロとして確認しに来てあげただけ。……別に、他意はないから」
 我ながら痛々しいほどの虚勢。
 普通ならここで、呆れのグレーや、不快感を示す淀んだ色が視界に混ざるはずだ。
 だが、男から広がる水色は、春の湖面のように凪いだままだった。
 彼は手に持っていた布巾を置き、静かに頷く。
「それは助かる。プロの意見を聞くまで、触らないでおいたんだ」
 私の不器用な嘘を、一切の反発もなく受け止める。
「この前の席、空いてるよ」
 彼が視線で示したのは、店の奥。ステンドグラスのすぐ傍にある、あの革張りのソファ席だった。
「……あっそ。じゃあ、遠慮なく」
 そっぽを向きながら、早足で奥へ向かう。
 ソファに深く腰を下ろし、鞄からスケッチブックを取り出してテーブルに広げる。
 威嚇するように背筋を伸ばし、鉛筆を握りしめた。

 しばらくすると、微かな足音と共に、テーブルに白い陶器のカップが置かれた。
 ダージリンの華やかな香りが鼻腔をくすぐる。
「お茶請けにどうぞ」
 カップの隣に添えられた小さなガラス皿。
 そこに無造作に転がっていたのは、色とりどりの小さな石ころのようなものだった。
 薄紅、浅葱色、淡い檸檬。
 表面は擦りガラスのように白く粉を吹き、内側には透き通るようなゼリー状の色彩を閉じ込めている。まるで、波に洗われたシーグラスのようだった。
「琥珀糖だ。少し甘いものが欲しいだろう」
 男はそれだけ言い残し、静かにカウンターへ戻っていく。
 息を呑む。
 光を透過するそのお菓子は、私が扱う色ガラスに酷似していた。美しい。
 私は警戒しながら、淡い檸檬色の欠片を一つ指で摘む。
 唇に運ぶ。
 シャリッ。
 薄い氷を割るような微かな音と共に、表面の砂糖の結晶が崩れる。続いて、内側の柔らかな寒天が舌の上でとろけた。
 純粋な、甘さ。
 クライアントの欲情も、街ゆく人々の苛立ちも。何一つのノイズも混ざっていない、ただ静かで優しい砂糖の味。
「……」
 肺の底に溜まっていた泥のような空気を、ゆっくりと吐き出す。
 周囲を見渡す。店内にいるのは、遠く離れたカウンターで静かに本を開く彼だけ。
 視界を攻撃してくる色は、ここにはない。
 私は右手を上げ、こめかみに触れる。
 ゆっくりと、濃いサングラスを外し、テーブルの端に置いた。続けて、耳を塞いでいたイヤホンを引き抜く。

 視界が鮮明になる。
 本来の明るさを取り戻した世界で、私は鉛筆を握り直し、スケッチブックに向き合った。
 カリカリと、芯が紙を擦る音だけが響く。
 カウンターの男は、私の素顔にも、描いているデザイン画にも、一切の興味を示さない。過剰な干渉も、哀れみもない。ただ、同じ空間の端と端で、互いの時間を消費しているだけ。
 話しかけられない。踏み込まれない。
 それが、私にとってどれほど贅沢な安堵であるか。
 気がつけば、滞っていた鉛筆が滑らかに動き始めていた。
 ステンドグラスの図案が、白い紙の上に次々と立ち上がっていく。
 紅茶の温かい香りと、視界の端で静かに揺れる水色。
 なんだ。意外と居心地いいじゃない。
 琥珀糖の欠片を口に放り込みながら、私は心の奥底でひっそりと決断する。
 明日もまた、ここに来て作業をしよう。プロの監修が必要だって、彼も言っていたし。
 真鍮の古時計が、静かな時間を刻み続けていた。
 それは、私たちが共有し始めた「日常」の、最初の足音だった。