「これ、誰が作ったの……?」
静寂の底に落とした私の声は、ひび割れたガラスのように震えていた。
背後から、衣擦れの音が微かに聞こえる。男がゆっくりと近づいてくる気配と共に、ひんやりとした水色の空気が足元へ流れ込んできた。
「俺が作っているんだ。趣味の延長だけどね」
頭上から降ってきたのは、温度のない穏やかな声だった。
未完成のステンドグラスを見上げる。
切り出された色ガラスの輪郭。無機質な鉛線の這う軌跡。
天才的な色彩感覚――世間がそう持て囃す私の網膜は、その造形に秘められた歪さを即座に捉えていた。
配色は、息を呑むほどに美しい。並外れた才能が宿っている。
だが、色が、凍りついている。
情熱の赤も、憂鬱の青も、本来あるべき感情の脈動が、ある一点を境にぷつりと途絶えているのだ。まるで、呼吸を忘れたまま時を止められた標本のように。作り手の感情が、途中で迷子になったまま立ち尽くしている。
私は振り返り、男を見上げた。
凪いだ水色。一切の感情が波立たない、彼特有の色。
彼の言ってることは嘘だ。
「ふーん」
乾いた声が出た。喉の奥で息を整え、意図的に口角を上げる。
「素人にしては悪くないけど。……最後のピースの色、完全に死んでるね」
プロとしての自負。あるいは、見透かされることへの防衛本能。
鼻先で笑い飛ばすように放ったその言葉は、痛いほど生意気な響きを持っていた。
だが、男の纏う水色は微塵も揺らがない。
怒りのオレンジも、屈辱の濁った赤も浮かび上がらない。
「厳しいな」
伏せられた長い睫毛が微かに揺れ、硝子玉のような瞳が細められる。静かな水色を湛えたまま、ただ薄く微笑んだだけだった。
壁掛けの古時計が、ボーンと鈍い音を鳴らす。
針が示す時間を見て、肺がキュッと縮み上がった。
長居しすぎた。
反射的にテーブルの上の黒いフレームを掴み、顔を覆い隠す。
濃いサングラスのレンズを通して見る世界は、少しだけ暗く、安全だ。他人の視線から素顔を隠す、私だけの鎧。
「……お金、払うから。いくら?」
デニムのポケットから財布を引っ張り出しながら、尖った声を投げる。
「言っておくけど、別に感謝してるわけじゃないからね。たまたま倒れただけで、よくあることだし」
早口になるのを止められない。防衛線の構築。過剰なほどの針を逆立て、彼との間に明確な壁を作ろうとする。
男はカウンターの奥から布巾を取り出し、ゆっくりと手を拭いた。
「代金はいらないよ。その代わり」
彼が、こちらを見る。
「また、ガラスの色について教えてくれないか」
踏み込んでこない。
無理に引き留めることも、連絡先を聞き出そうとすることもない。哀れみも、好奇心も、過剰な親切も。そこには何もなかった。
ただ、「そこにいていい」と許容されるだけの、途方もない静寂。
拍子抜けして、握りしめていた財布の角が指に食い込む。
他人の無遠慮な感情に踏み荒らされ、すり減ってきた私にとって、その温度のない距離感が、どれほど呼吸しやすいものか。
「……っ、知らない。気が向いたらね」
乱暴に財布を突っ込み、逃げるように背を向けた。
重厚な木のドアを押し開ける。
途端、暴力的なまでのノイズが鼓膜と網膜を殴りつけた。
夕暮れに染まり始めた街。
家路を急ぐサラリーマンの肩から発せられる、苛立ちの赤。すれ違う学生たちの、浮ついた薄っぺらいピンク。排気ガスと香水の匂いが混ざり合った、どぎつい原色の絵の具が、濁流となって私を飲み込もうとする。
サングラス越しでも容赦なく突き刺さる感情のノイズに、思わず顔をしかめた。
だが――。
足取りは、いつものように重くなかった。
鉛のように胃を沈ませていた吐き気がない。代わりに、温かい角煮と白米の確かな重みが、身体の内側からじんわりと熱を発している。
目蓋の裏に焼き付いているのは、波一つない、透き通った水色。
呼吸をするたび、あの古い木材と珈琲の匂いが、鼻腔の奥で微かに蘇る。
スクランブル交差点の手前で、私は足を止めた。
振り返る。
人波の向こう側、路地裏の入り口に、小さなアンティークカフェの看板がひっそりと息を潜めている。
別に、あの人に会いたいわけじゃない。
唇を噛み締め、心の中で強く反芻する。
あんな無愛想で、何を考えているか分からない男。そもそも、あのステンドグラスだって、どこか不自然だった。そもそも何故嘘をついているのか……。
靴の爪先で、アスファルトの小石を蹴り飛ばす。
……でも。
あのご飯は、ノイズがなくて食べやすかった。それに、あのステンドグラスの『続き』をどうするのか、プロとして見ておいてあげてもいいし。
誰に聞かせるわけでもない言い訳が、頭の中でぽろぽろと零れ落ちる。
「……また、来ようかな」
夕闇に溶けるような小さな呟きは、喧騒のノイズにかき消され、誰の耳にも届かなかった。
静寂の底に落とした私の声は、ひび割れたガラスのように震えていた。
背後から、衣擦れの音が微かに聞こえる。男がゆっくりと近づいてくる気配と共に、ひんやりとした水色の空気が足元へ流れ込んできた。
「俺が作っているんだ。趣味の延長だけどね」
頭上から降ってきたのは、温度のない穏やかな声だった。
未完成のステンドグラスを見上げる。
切り出された色ガラスの輪郭。無機質な鉛線の這う軌跡。
天才的な色彩感覚――世間がそう持て囃す私の網膜は、その造形に秘められた歪さを即座に捉えていた。
配色は、息を呑むほどに美しい。並外れた才能が宿っている。
だが、色が、凍りついている。
情熱の赤も、憂鬱の青も、本来あるべき感情の脈動が、ある一点を境にぷつりと途絶えているのだ。まるで、呼吸を忘れたまま時を止められた標本のように。作り手の感情が、途中で迷子になったまま立ち尽くしている。
私は振り返り、男を見上げた。
凪いだ水色。一切の感情が波立たない、彼特有の色。
彼の言ってることは嘘だ。
「ふーん」
乾いた声が出た。喉の奥で息を整え、意図的に口角を上げる。
「素人にしては悪くないけど。……最後のピースの色、完全に死んでるね」
プロとしての自負。あるいは、見透かされることへの防衛本能。
鼻先で笑い飛ばすように放ったその言葉は、痛いほど生意気な響きを持っていた。
だが、男の纏う水色は微塵も揺らがない。
怒りのオレンジも、屈辱の濁った赤も浮かび上がらない。
「厳しいな」
伏せられた長い睫毛が微かに揺れ、硝子玉のような瞳が細められる。静かな水色を湛えたまま、ただ薄く微笑んだだけだった。
壁掛けの古時計が、ボーンと鈍い音を鳴らす。
針が示す時間を見て、肺がキュッと縮み上がった。
長居しすぎた。
反射的にテーブルの上の黒いフレームを掴み、顔を覆い隠す。
濃いサングラスのレンズを通して見る世界は、少しだけ暗く、安全だ。他人の視線から素顔を隠す、私だけの鎧。
「……お金、払うから。いくら?」
デニムのポケットから財布を引っ張り出しながら、尖った声を投げる。
「言っておくけど、別に感謝してるわけじゃないからね。たまたま倒れただけで、よくあることだし」
早口になるのを止められない。防衛線の構築。過剰なほどの針を逆立て、彼との間に明確な壁を作ろうとする。
男はカウンターの奥から布巾を取り出し、ゆっくりと手を拭いた。
「代金はいらないよ。その代わり」
彼が、こちらを見る。
「また、ガラスの色について教えてくれないか」
踏み込んでこない。
無理に引き留めることも、連絡先を聞き出そうとすることもない。哀れみも、好奇心も、過剰な親切も。そこには何もなかった。
ただ、「そこにいていい」と許容されるだけの、途方もない静寂。
拍子抜けして、握りしめていた財布の角が指に食い込む。
他人の無遠慮な感情に踏み荒らされ、すり減ってきた私にとって、その温度のない距離感が、どれほど呼吸しやすいものか。
「……っ、知らない。気が向いたらね」
乱暴に財布を突っ込み、逃げるように背を向けた。
重厚な木のドアを押し開ける。
途端、暴力的なまでのノイズが鼓膜と網膜を殴りつけた。
夕暮れに染まり始めた街。
家路を急ぐサラリーマンの肩から発せられる、苛立ちの赤。すれ違う学生たちの、浮ついた薄っぺらいピンク。排気ガスと香水の匂いが混ざり合った、どぎつい原色の絵の具が、濁流となって私を飲み込もうとする。
サングラス越しでも容赦なく突き刺さる感情のノイズに、思わず顔をしかめた。
だが――。
足取りは、いつものように重くなかった。
鉛のように胃を沈ませていた吐き気がない。代わりに、温かい角煮と白米の確かな重みが、身体の内側からじんわりと熱を発している。
目蓋の裏に焼き付いているのは、波一つない、透き通った水色。
呼吸をするたび、あの古い木材と珈琲の匂いが、鼻腔の奥で微かに蘇る。
スクランブル交差点の手前で、私は足を止めた。
振り返る。
人波の向こう側、路地裏の入り口に、小さなアンティークカフェの看板がひっそりと息を潜めている。
別に、あの人に会いたいわけじゃない。
唇を噛み締め、心の中で強く反芻する。
あんな無愛想で、何を考えているか分からない男。そもそも、あのステンドグラスだって、どこか不自然だった。そもそも何故嘘をついているのか……。
靴の爪先で、アスファルトの小石を蹴り飛ばす。
……でも。
あのご飯は、ノイズがなくて食べやすかった。それに、あのステンドグラスの『続き』をどうするのか、プロとして見ておいてあげてもいいし。
誰に聞かせるわけでもない言い訳が、頭の中でぽろぽろと零れ落ちる。
「……また、来ようかな」
夕闇に溶けるような小さな呟きは、喧騒のノイズにかき消され、誰の耳にも届かなかった。

