鼻腔を撫でる、古い木材が呼吸しているような乾いた匂い。
深く焙煎された珈琲の香りが、鼓膜の奥で張り詰めていた神経をゆっくりと解いていく。
重い瞼を持ち上げる。
網膜を刺すような極彩色は、どこにもない。
ランプの琥珀色の光が、磨き込まれたアンティークテーブルの表面で鈍く反射している。チクタクと、真鍮の古時計が一定の規則正しい音を刻んでいた。
濃いサングラスのレンズ越しに、周囲を見回す。
革張りのソファ。沈み込むような柔らかな座り心地。
視線の先、カウンターの向こう側で、微かなページを捲る音がした。
男が、本を読んでいる。
スクランブル交差点で私を受け止めた、あの男だった。
伏せられた長い睫毛。色素の薄い瞳が、活字を追って静かに動く。彼から広がるのは、波一つない、凪いだ水色。
人が密集する空間で常に発生する、苛立ちの赤や、猜疑心のグレー、下心に塗れた濁ったピンク。そうした感情のノイズが、ここには一切存在しない。
ただ、冷たくて優しい水色の静寂だけが、空間を満たしている。
「――目が、覚めたか」
静かな声だった。
男が本から視線を上げ、こちらを見る。
心臓が跳ねた。反射的にソファの背もたれに身体を押し付け、身構える。
「……何、勝手に運んでるの」
喉から出た声は、自分でも驚くほど尖っていた。
ダメージ加工の深いデニムの裾を握りしめ、顎を上げる。
「誘拐? 変なことしたら、すぐに警察呼ぶから」
威嚇。ハリネズミのように針を逆立て、相手の出方を伺う。
普通ならここで、男の周囲の空気が困惑のグレーに染まるか、あるいは理不尽な態度に対する怒りのオレンジが明滅するはずだ。
だが、男の纏う水色は、微塵も揺らがなかった。
彼は本を閉じ、ゆっくりと立ち上がる。
「警察を呼ぶのは構わないが、その前に少し胃袋に何か入れた方がいい。低血糖で倒れたんだろう」
足音が近づく。
警戒して身を縮める私を一瞥し、男はそのままキッチンへと姿を消した。
拍子抜けだった。
奇抜な服。室内でも外さない真っ黒なサングラス。そして、恩を仇で返すような暴言。
それらをすべて浴びせても、彼の凪いだ水色は一切の波紋を描かない。
鍋に火がかかる音。トントンと、リズミカルにまな板を叩く包丁の音。
漂ってくる出汁と醤油の甘い匂いに、胃袋が情けなく陥落する。
数分後、テーブルに置かれたのは、湯気を立てるお盆だった。
「豚の角煮だ。少し味を薄めにしている」
白い陶器の器の中で、琥珀色に輝く煮汁に浸かった分厚い豚肉。隣には、ふっくらとよそわれた白米と、三つ葉の浮いたお吸い物。
喉が鳴る。だが、箸を伸ばす手は無意識に震えた。
他人が作った料理を食べることは、私にとって一種の賭けだ。
料理人の焦燥感は酸味の強い黄色として味覚を侵食し、疲労は泥のような苦味となって舌に纏わりつく。他人の感情がノイズとして溶け込んだ食事は、いつだって私にロシアンルーレットを強いてきた。
息を詰め、箸で角煮の端を割る。
抵抗らしい抵抗もなく、肉の繊維がほろりと崩れた。
恐る恐る、一口だけ口に運ぶ。
――味が、する。
舌の上で溶ける脂の甘み。生姜の効いた醤油の深いコク。
焦りも、苛立ちも、疲労も。どんな感情のノイズも混ざっていない、純粋で、暴力的なほどの「美味しさ」。
「……っ」
温かい白米をかき込む。角煮の肉汁とご飯が混ざり合い、空っぽだった胃袋を優しく満たしていく。
視界の端で、水色が静かに揺れている。
男が、カウンターから無言で私を見守っていた。
鼻の奥がツンと痛む。
噛み締めるたび、熱い滴が頬を伝い、口元へ落ちた。塩の味がした。
私は顔を伏せ、ただ無心に、その温かい食事を胃袋に流し込んだ。
空になったお盆が下げられ、代わりに温かいほうじ茶が入った湯呑みが置かれる。
立ち上る湯気の向こうで、水色の静寂が私を包み込んでいる。
ここは、安全だ。
肺の底に溜まっていた強張りが、音を立てて崩れていく。
ゆっくりと右手を上げ、こめかみに触れる。
分厚い黒のフレームを掴み、そのままサングラスを外した。
視界が、本来の明るさを取り戻す。
裸眼で見る世界。他人のノイズを遮断するための鎧を剥ぎ取った、無防備な私の素顔。
男の視線が、私に向けられている。
色素の薄い、硝子玉のような瞳。
その奥に、私の姿が映っているはずだった。
だが――。
彼の焦点は、私の瞳を通り抜け、はるか後ろの空間へ向かって焦点が結ばれている。
男の瞳の奥で、ほんのわずかに、水色が深い群青へと沈むのが見えた。
誘われるように、私も後ろを振り返る。
薄暗い店の奥。壁際に立てかけられた、巨大な木枠。
そこには、無数の色ガラスが嵌め込まれた、作りかけのステンドグラスがあった。
蒼、紫、そして深い翠。
未完成でありながら、それは狂おしいほどの引力を持っていた。切り取られた星屑の破片が、互いの輪郭を侵食し合い、一つの宇宙を形成しようとしている。
緻密な鉛線の交差。ガラスの表面に刻まれた、微細な傷跡さえもが、作り手の切実な祈りを雄弁に語っていた。
圧倒的な、色彩の暴力。
息を呑む。
「これ……」
乾いた唇から、声がこぼれ落ちた。
「これ、誰が作ったの……?」
静寂の底で、真鍮の古時計だけが、冷たく時間を刻み続けていた。
深く焙煎された珈琲の香りが、鼓膜の奥で張り詰めていた神経をゆっくりと解いていく。
重い瞼を持ち上げる。
網膜を刺すような極彩色は、どこにもない。
ランプの琥珀色の光が、磨き込まれたアンティークテーブルの表面で鈍く反射している。チクタクと、真鍮の古時計が一定の規則正しい音を刻んでいた。
濃いサングラスのレンズ越しに、周囲を見回す。
革張りのソファ。沈み込むような柔らかな座り心地。
視線の先、カウンターの向こう側で、微かなページを捲る音がした。
男が、本を読んでいる。
スクランブル交差点で私を受け止めた、あの男だった。
伏せられた長い睫毛。色素の薄い瞳が、活字を追って静かに動く。彼から広がるのは、波一つない、凪いだ水色。
人が密集する空間で常に発生する、苛立ちの赤や、猜疑心のグレー、下心に塗れた濁ったピンク。そうした感情のノイズが、ここには一切存在しない。
ただ、冷たくて優しい水色の静寂だけが、空間を満たしている。
「――目が、覚めたか」
静かな声だった。
男が本から視線を上げ、こちらを見る。
心臓が跳ねた。反射的にソファの背もたれに身体を押し付け、身構える。
「……何、勝手に運んでるの」
喉から出た声は、自分でも驚くほど尖っていた。
ダメージ加工の深いデニムの裾を握りしめ、顎を上げる。
「誘拐? 変なことしたら、すぐに警察呼ぶから」
威嚇。ハリネズミのように針を逆立て、相手の出方を伺う。
普通ならここで、男の周囲の空気が困惑のグレーに染まるか、あるいは理不尽な態度に対する怒りのオレンジが明滅するはずだ。
だが、男の纏う水色は、微塵も揺らがなかった。
彼は本を閉じ、ゆっくりと立ち上がる。
「警察を呼ぶのは構わないが、その前に少し胃袋に何か入れた方がいい。低血糖で倒れたんだろう」
足音が近づく。
警戒して身を縮める私を一瞥し、男はそのままキッチンへと姿を消した。
拍子抜けだった。
奇抜な服。室内でも外さない真っ黒なサングラス。そして、恩を仇で返すような暴言。
それらをすべて浴びせても、彼の凪いだ水色は一切の波紋を描かない。
鍋に火がかかる音。トントンと、リズミカルにまな板を叩く包丁の音。
漂ってくる出汁と醤油の甘い匂いに、胃袋が情けなく陥落する。
数分後、テーブルに置かれたのは、湯気を立てるお盆だった。
「豚の角煮だ。少し味を薄めにしている」
白い陶器の器の中で、琥珀色に輝く煮汁に浸かった分厚い豚肉。隣には、ふっくらとよそわれた白米と、三つ葉の浮いたお吸い物。
喉が鳴る。だが、箸を伸ばす手は無意識に震えた。
他人が作った料理を食べることは、私にとって一種の賭けだ。
料理人の焦燥感は酸味の強い黄色として味覚を侵食し、疲労は泥のような苦味となって舌に纏わりつく。他人の感情がノイズとして溶け込んだ食事は、いつだって私にロシアンルーレットを強いてきた。
息を詰め、箸で角煮の端を割る。
抵抗らしい抵抗もなく、肉の繊維がほろりと崩れた。
恐る恐る、一口だけ口に運ぶ。
――味が、する。
舌の上で溶ける脂の甘み。生姜の効いた醤油の深いコク。
焦りも、苛立ちも、疲労も。どんな感情のノイズも混ざっていない、純粋で、暴力的なほどの「美味しさ」。
「……っ」
温かい白米をかき込む。角煮の肉汁とご飯が混ざり合い、空っぽだった胃袋を優しく満たしていく。
視界の端で、水色が静かに揺れている。
男が、カウンターから無言で私を見守っていた。
鼻の奥がツンと痛む。
噛み締めるたび、熱い滴が頬を伝い、口元へ落ちた。塩の味がした。
私は顔を伏せ、ただ無心に、その温かい食事を胃袋に流し込んだ。
空になったお盆が下げられ、代わりに温かいほうじ茶が入った湯呑みが置かれる。
立ち上る湯気の向こうで、水色の静寂が私を包み込んでいる。
ここは、安全だ。
肺の底に溜まっていた強張りが、音を立てて崩れていく。
ゆっくりと右手を上げ、こめかみに触れる。
分厚い黒のフレームを掴み、そのままサングラスを外した。
視界が、本来の明るさを取り戻す。
裸眼で見る世界。他人のノイズを遮断するための鎧を剥ぎ取った、無防備な私の素顔。
男の視線が、私に向けられている。
色素の薄い、硝子玉のような瞳。
その奥に、私の姿が映っているはずだった。
だが――。
彼の焦点は、私の瞳を通り抜け、はるか後ろの空間へ向かって焦点が結ばれている。
男の瞳の奥で、ほんのわずかに、水色が深い群青へと沈むのが見えた。
誘われるように、私も後ろを振り返る。
薄暗い店の奥。壁際に立てかけられた、巨大な木枠。
そこには、無数の色ガラスが嵌め込まれた、作りかけのステンドグラスがあった。
蒼、紫、そして深い翠。
未完成でありながら、それは狂おしいほどの引力を持っていた。切り取られた星屑の破片が、互いの輪郭を侵食し合い、一つの宇宙を形成しようとしている。
緻密な鉛線の交差。ガラスの表面に刻まれた、微細な傷跡さえもが、作り手の切実な祈りを雄弁に語っていた。
圧倒的な、色彩の暴力。
息を呑む。
「これ……」
乾いた唇から、声がこぼれ落ちた。
「これ、誰が作ったの……?」
静寂の底で、真鍮の古時計だけが、冷たく時間を刻み続けていた。

