解けることない、優しい呪いみたいな恋だった

「……っ、触らないで!!」

 私の名を呼ばなかったその手を、思い切り振り払った。
「ごめん、紬、これは……」
 彼が我に返り、焦ったように手を伸ばしてくる。
 だが、もう遅い。私の共感覚は、彼から溢れ出す感情の真実を、逃げ場のない至近距離で直視してしまっていた。
 どす黒く、泥のように濁った執着と後悔。
 ずっと彼を縛り付けていた亡霊の色が、偽りの「優しい水色」のメッキを突き破り、どろどろと床へ溢れ出している。
「嘘つき……っ」
 呼吸ができない。肺の中に泥水を流し込まれたように、酸素が頭に行き渡らない。
 私は防衛の要である濃いサングラスをカウンターに置き去りにしたまま、狂ったようにカフェのドアを押し開け、外へと飛び出した。
 土砂降りの雨が、アスファルトを激しく叩きつけていた。

 冷たい雨が、容赦なく私の身体を打ち据える。
 夜の街。行き交う車のヘッドライト、水溜まりに乱反射するネオンの光。
 いつもなら、この無数の光と、他人が発する無自覚な感情のノイズに当てられて、数秒でパニックを起こして倒れ込んでいるはずだった。
 でも、今の私には何も見えなかった。他人の色なんて、一滴も視界に入ってこない。
 私の世界は今、私自身の奥底から噴き出す「悲鳴のような真っ赤な絶望」だけで、完全に塗りつぶされていたからだ。

「紬!」

 歩道橋の階段を駆け上がろうとしたところで、背後から強く腕を引かれた。
 コンクリートの床に、膝から崩れ落ちる。
 雨に打たれ、ずぶ濡れになった彼が、息を切らして私を見下ろしていた。
 その姿を見た瞬間、私の中で張り詰めていた糸が、無惨な音を立ててちぎれ飛んだ。
「……私を、人形みたいに扱って楽しかった!?」
 雨音に負けないよう、叫んでいた。喉が千切れても構わなかった。
「あのステンドグラスも、優しいご飯も、私にかけてくれた言葉も! 全部、全部あの子のためだったんでしょ!」
 私の言葉が鋭い刃となって、彼に突き刺さる。
「私が喜ぶのを見て、ホッとしてたの!?『これで、ハルに会える』って! 私の目も、手も、心も、あんたにとってはただの便利な道具だったんだ!」
 涙がとめどなく溢れ、雨水と混ざって頬を伝う。
「……あんたなんか、最低の嘘つきだ!!」

 罵倒の雨を浴びながら、彼は言い訳を一つもしなかった。
 ただ、ずぶ濡れのまま、深く重い泥色の感情を纏って立ち尽くしている。
 反論も、弁解もしない。
 それが、罪悪感でとうの昔に壊れていた彼の、残酷な真実の姿だった。

 雨だれの音だけが、二人の間に重く横たわる。
 やがて、彼は泥のような黒い感情を纏いながら、静かに、ひどく悲しげに微笑んだ。

「……君のその目が、ずっと怖かった」

 忘れられない、あの一言。
 その言葉が、雷のように私の心を撃ち抜いた。
 怖い? 私が、他人の感情を見透かしてしまうから?
 違う。それだけじゃない。
 私の共感覚が捉えた彼の真意は、もっとずっと、悲しくて残酷なものだった。
 利用しているだけの自分に対して、私が向けてしまった「痛いほど純粋で、無防備な好意」。
 私が彼を信じ、彼の色に染まり、無邪気な色を向ければ向けるほど。それは、狂気に囚われた彼にとって、自身の醜い罪悪感を容赦なく抉り出す、最も恐ろしい罰だったのだ。
 私が愛を乞う瞳で見つめるたびに、彼は地獄の業火で焼かれていたのだ。

「……さようなら、天才(つむぎ)」

 彼が初めて、本当の私の名前を呼んだ。
 偽りの恋人でも、身代わりの道具でもない。「私」としての輪郭を、最後に一度だけなぞるように。
 その言葉を最後に。
 私の共感覚が捉えていた彼の色――私を包んでいたあの水色も、泥のような黒い執着も――そのすべてが、ふっと完全に消失した。
 私に対する感情も、未練も、罪悪感すらも、ここで終わりにすると決めた、絶対的な拒絶の色。
 透明になった彼は、振り返ることなく、雨の奥へと歩き出し、やがて夜の闇に溶けて消えた。