解けることない、優しい呪いみたいな恋だった

「Closed」の札が掛けられたままの重厚な木のドアは、もう何週間も開かれていない。
 外の世界の喧騒も、他人の放つ刺々しい感情のノイズも、このカフェの奥には一切届かなかった。
 私は一度もアトリエ兼自宅に帰ることなく、この店に泊まり込みで修復作業に没頭していた。陽の光を浴びない私の肌は陶器のように白く透き通り、目の下には消えない青紫の隈が張り付いている。
 鏡を見る機会すら与えられなかったけれど、自分の瞳だけはかつてないほどに美しい色を放っているという自覚があった。私が導き出すステンドグラスの色彩に同調するように、深く、研ぎ澄まされた光。
 彼は影のように私に寄り添い、私が数多のガラス片の中から「正しい色」を選び出す瞬間だけ、ひどく恍惚とした表情を浮かべていた。
 狂気にも似た、閉ざされた楽園。

「……お腹、空いた」

 私がポツリとこぼすと、彼はすぐに立ち上がり、奥のキッチンへ向かった。
 しばらくして運ばれてきたのは、白い陶器の器に盛られた、ルビーのように艶やかに輝く最高級のマグロ丼だった。
 いつか私が冗談でねだった、理不尽な我が儘。それを彼は、完璧な形で用意してくれたのだ。
「美味しいか?」
 彼は私の手から工具を取り上げ、代わりに箸を持ち、一口ずつ丁寧に私の口へと運んでくれる。
「君はただ、美しい色を選ぶことだけを考えていればいい。他のことは全部、僕がやってあげるから」
 歪で、狂気に満ちた甘やかし。
 普通なら恐怖を感じるはずのその過剰な奉仕を、私は「至上の愛」なのだと信じ込んでいた。彼にとって、私がそれだけ特別なのだと。
 私の共感覚が捉える彼の「水色」は、今や私の視界をすべて覆い尽くし、外部のノイズを完全に遮断していた。
 だが、その水色はもはや、かつて私を守ってくれた「穏やかな海」の質感ではなかった。
 ぬるりと肌にまとわりつくような、重い液体。
 まるで、獲物をゆっくりと溶かして取り込もうとする、巨大な粘膜のような。
 それでも私は、その毒に侵されたまま、幸せな夢を見続けていた。彼が与えてくれる餌と安全な胃袋の中で、私は自ら進んで彼の一部になろうとしていたのだ。

 修復作業は、ついに佳境を迎えた。
 残るは、中央の最も重要なピースだけ。
 あの「完全に凍りついた海の底」を埋めるための、最後の鍵。
 私は何百枚ものアンティークガラスを光に透かし、弾き、また別のガラスを手に取る。
「違う……これでもない」
 焦燥で、指先が震える。
 その時、誤ってガラスの鋭利な断面が指先を掠めた。
「っ……」
 白い肌に、一筋の鮮血が滲む。
 滴り落ちたその血の「赤」が、脳裏で強烈なインスピレーションとなって弾けた。
 ――これだ。
 血の滲んだかのような赤紫と、深海の青が混ざり合った、奇跡の色。
 私は震える手でその一枚を選び出し、ルーターで削り、鉛線で囲い込んだ。
 息を詰め、中央の空白に、最後のピースをはめ込む。

 パチリ。

 硝子が完璧な位置に収まった、その瞬間だった。
 西日を浴びたステンドグラスが、店内に言葉を失うほど美しい光の乱舞を投げかけた。
 狂気じみた紫、焼き切れるような赤、そして、悲鳴のような青紫。
 すべての感情の残滓が、一つの完璧な調和となって、私たちの網膜を焼き尽くす。

「……ああ」

 隣で、彼が崩れ落ちるように膝をついた。
 彼はそのまま私の身体を強く、息が止まるほど強く抱きしめた。
 彼の肩が震えている。
 私の首筋に、彼から零れ落ちた熱い涙がポタポタと滴り落ちた。
 歓喜。達成感。そして、永遠の喪失からの生還。
 私は幸福の絶頂で、彼の背中に腕を回そうとした。

「……やっと、会えた」

 耳元で、彼が囁いた。
 熱を帯びた、狂おしいほどの愛を込めた声で。

「君の選ぶ色は、やっぱり世界で一番美しいよ。――『陽(ハル)』」

 空気が、完全に凍りついた。
 抱き上げようとした私の腕が、宙で不自然に止まる。

 呼ばれたのは、私の名前ではなかった。
「紬」ではなく。聞いたこともない、誰かの名前。
 その瞬間。
 私を心地よく包み込み、外界のノイズから守ってくれていたあの濃密な「水色」が。
 パラパラと、薄い硝子が砕け散るような乾いた音を立てて、私の視界から剥がれ落ちていった。

 剥がれた水色の下から現れたのは。
 あの土砂降りの夜に一度だけ見た、どす黒い、泥のような執着と後悔。
 彼が私に見せていた優しさも、過保護な甘やかしも、すべてはこのドロドロとした真っ黒な狂気を隠すための、ただのメッキに過ぎなかったのだ。

「……」

 私はゆっくりと、彼を突き飛ばした。
 彼は抵抗することなく後ずさったが、その瞳は私を捉えてはいなかった。
 彼の視線は、私の頭越しに、西日を浴びて輝く「完成したステンドグラス」だけに注がれている。うっとりと、恋人に再会したような恍惚とした笑みを浮かべて。

 私の手の中には、彼が作業台の引き出しの奥に隠していた一冊の古いスケッチブックが残されていた。
 パラリと捲ったページ。
 そこには、今完成した作品と全く同じ図案と。
 私ではない『陽(ハル)』という人物へ向けた、狂おしいほどの愛の言葉が、びっしりと書き連ねられていた。

 ――ああ、そうか。
 私は、一度も。
 ただの一度も、彼に『視られて』なんていなかったんだ。

 夕暮れのカフェに、絶望の泥色が、音もなく溢れ出していった。