『共感覚は、他人の臓腑の色を暴く。だから私は、黒い硝子で世界を遮断するのだ』
色ガラスを透過した光が、白い壁に幾何学模様の影を落としている。
天井の高いギャラリーは、微かな埃の匂いと、無数の靴音が擦れる音で満たされていた。
「素晴らしい色彩感覚だ。まさに奇跡の光ですよ」
「この透明感……、本当に若き天才ですね」
次々と差し出される名刺。仕立ての良いスーツ。香水の匂い。
賞賛の言葉が吐き出されるたび、私の網膜を、チカチカと点滅するショッキングピンクや、ひらひらと薄っぺらい黄色の残像が撫で回す。
胃袋の底が、微かに波立つ。
黒く分厚いサングラスのレンズ越しでも、彼らが無自覚に垂れ流す感情のノイズは防ぎきれない。
口角だけを引き上げ、喉の奥で乾いた音を鳴らす。誰も、私の目など見ていない。彼らが見ているのは、私ではなく「若き天才」という肩書きに群がる自分自身の虚栄心だ。
壁に飾られたステンドグラスを見る。
赤、青、緑。硝子の破片が寄り集まって作り出した、偽物の光の海。
私が本当に見たい色は、もうこの世界のどこにもない。
――絶対に解けない、優しい呪いみたいな恋だった。
アスファルトを激しく打ち据える雨音が、鼓膜を塞いでいた。
暗い路地裏。街灯の光さえ届かない夜の底で、私の視界は泥で埋め尽くされていた。
どす黒く、ひどく濁った泥の奔流。
目の前に立つ男の輪郭すら、その粘ついた暗黒に飲み込まれている。彼から溢れ出す名状しがたい執着と、爛れたような後悔の色が、雨水に混じって足元へ這い寄ってくる。
肺が酸素を拒絶した。濡れた前髪が冷たく額に張り付き、全身の震えが止まらない。
「……来ないで」
声帯が引き攣る。口から飛び出したのは、濡れたガラスを引っ掻くような、鋭利で惨めな音だった。
「もう二度と、私の前に現れないでよ……ッ」
泥がうねる。彼が一歩踏み出すたび、泥濘のような黒が私の足首に絡みつこうとする。
吐き気を堪え、濡れたコンクリートを蹴って後ずさる。
雨だれが、彼の端正な頬を伝い落ちた。伏せられた長い睫毛の奥で、硝子玉のような瞳が微かに動く。
「……君のその目が、ずっと怖かった」
雨のノイズを引き裂く、静かで、決定的な冷たさ。
言葉の意味を脳が処理するより早く、眼球の奥で何かが弾けた。
視界を覆い尽くしていた泥の黒が、ふっと消滅した。
波も、色も、温度も。何も、ない。
脈動を忘れたかのように、彼を囲む空間だけが完全な虚無に切り取られている。
私に向けられていたすべての熱が、死んだ。
膝から力が抜け落ちる。冷たい水溜まりに両膝をつき、水飛沫を上げる。
遠ざかっていく革靴の足音が、いつまでも耳の奥で反響していた。
時は遡る。あの日、彼と出会った、あの交差点。
原色の絵の具が、頭蓋の内側にぶちまけられる。
刺々しいオレンジ。ひどく濁った赤。爛れた紫。
渋谷のスクランブル交差点。信号機が青に変わった瞬間、堰を切ったように押し寄せる人波。
すれ違う肩の摩擦、舌打ち、スマートフォンを見つめる焦点の合わない眼球。
誰もが垂れ流す無自覚な悪意と欲望が、極彩色のノイズとなって網膜を焼き焦がす。
ノイズキャンセリングイヤホンを突き破り、耳の奥で高い耳鳴りが鳴り響く。
呼吸の仕方を、忘れた。
アスファルトから立ち昇る熱気。排気ガスとむせ返るような香水の匂いが混ざり合い、胃の内容物が逆流しそうになる。
足首がもつれ、視界がぐるぐると回転した。
ひび割れたコンクリートの地面が迫る。無意識に両腕で頭を庇い、目を閉じた。
――その時。
強引に、腕を引かれた。
倒れ込む寸前で宙に浮いた身体を、硬い腕が支える。
それからどのくらい経ったのだろう。
ふわりと、古い木材の香りと、淹れたての珈琲の匂いが鼻腔をくすぐった。
目を開く。
脳髄を叩き割っていた極彩色のノイズが、嘘のように引いていた。
代わりに視界を満たしたのは、水色だった。
波一つない、静かで、澄み切った水色。
春の雪解け水のように透明なその色が、極彩色の地獄から私を隔離するように包み込んでいる。
男を見上げる。
周囲の狂騒が、厚いガラスの向こう側へと遠ざかる。彼の静かな呼吸、わずかに揺れる前髪、そのすべてから、ひんやりとした静寂な水色が広がっていた。
収縮していた肺の奥深くまで、久しぶりに空気を吸い込む。
息が、できる。
私はただ呆然と、その透き通るような水色を見つめていた。
あんなにも優しくて、美しい水色だったのに。
どうして私たちは、あんな結末を迎えてしまったのだろう。

