キャッチボールをもう一度。

 河川敷で彰伸が栞へトライアウトへの挑戦の意思表明した日から一週間。
 彰伸はとにかく体力水準を現役時代へ近づける目的で、ランニングとダッシュを日課にして、消耗した栄養を補うために飲酒は控えて充分な食事を摂るように心掛けた。
 生活改善のおかげか以前に感じていた気怠さがなくなり、この節制生活も悪くないと思い始めた頃、またも栞に河川敷へ呼び出された。
 ランニングのついでの寄り道で河川敷まで来た彰伸は、道路へ背中を向けて土手に座る肩口にかかる黒髪とセーラー服を見つける。

「よお、来てやったぜ」

 後ろから声を掛けると、栞は振り向きもせずに土手の下を指差した。

「あれを見て。何をしているかわかる?」

 栞の指差す先には、河川敷のグラウンドでプラスチックのバットを使って草野球をして遊ぶ子どもたちがいた。
 あれがどうした、という思いで彰伸は答える。

「子どもが野球してんな」
「そうね。私たちも行くわよ」

 彰伸の返答を聞くなり栞は土手から立ち上がり、河川敷のグラウンドへ降り始めた。
 背後で彰伸が動かないのを感じてか、土手の途中で振り返る。

「私たちも混じって草野球するのよ」
「なんでそうなるんだよ」

 意図が読めない誘いに彰伸は疑問を投げた。
 真顔で栞が口を開く後ろで、子どもたちが栞を見つけて笑顔を向けてくる様子が彰伸の目に入る。
 草野球している子どもの一人が頭の上で手を振る。

「栞ねえちゃん、一緒にやろうぜ」

 声に気が付いた栞は笑顔で子どもたちに手を振り返し、今行くからと告げてから彰伸へ顔を戻す。

「いい気分転換になると思うわよ。それに今のあなたに足りてないものを知れるはず」
「俺のことを見透かしたような言い方だな」
「あなたのファンだもの。ほら行くわよ」

 例の如くお決まりの文句を返すと、彰伸の顔をじっと見つめた。
 真顔での凝視に耐えられなくなった彰伸は視線を外して嘆息する。

「わかったから黙って見つめんな。居心地悪いわ」
「行くわよ」

 繰り返しそう告げて栞が土手を降りていく。
 栞を追って彰伸も子どもたちが遊ぶ河川敷のグラウンドへ下った。
 栞がグラウンドまで着くと、子ども達は揃って手を止めて栞のもとまで駆け寄ってくる。
 子どものうちの安物の野球帽を被った一人が栞に着いてきた彰伸に目を向け、栞を振り返る。

「栞ねえちゃん、このオジサンだれ?」

 子どもにオジサンと呼ばれて彰伸は眉を顰めるが、栞はちらとだけ彰伸に視線を寄越してから子どもへ答える。

「元プロ野球選手よ。今はまだ運動神経の良いオジサンだと思ってもらえればいいわ」

 運動神経の良いオジサン、という褒められているのか貶されているのか判別つかない呼び方に、彰伸は文句がつけづらく口を噤んでしまう。
 野球帽の子どもは彰伸をじっと見つめて首を傾げる。

「プロ野球選手なの、オジサンのこと見たことないや」
「それは無理もないわ、引退してから期間が空いてるもの。でも野球は上手いからこの人も入れてもらっていかしら?」

 栞が頼むと野球帽以外の子どもも頷き、じゃあねと他の子どもたちと相談し合いながら告げる。

「栞ねえちゃんがこっちで、オジサンはこっちのチームね」
「俺も栞ねえちゃんがいい。知らないオジサンいらないよ」
「栞ねえちゃんの方がいいよ。オジサン臭そうだもん」

 臭いは関係ねえだろ、と彰伸は子どもたちの辛辣な言葉に反駁したくなるが、相手が相手なので腹の内でぐっと堪える。
 栞は子どもたちを見渡しながら、この人私より上手よ、と彰伸に関する情報を小出しにした。

「元プロ野球選手って言ったでしょ。野球ならとんでもなく活躍するわよ」

 擁護するような言い方に聞こえたが、野球ならという細かいニュアンスに彰伸は若干傷ついた。
 それだと他のことじゃ活躍できない、みたいじゃねえか。
 言い返したかったが、野球以外の実績を何も持ち合わせていないことにも思い至り、大人げないと余計な口出しは控える。
 子ども達の希望に沿って栞と彰伸は別のチームに分かれ、栞は外野守備、彰伸は攻撃側に回る。

「栞ねえちゃん、今日も外野お願い」
「栞ねえちゃんがいれば、外野安心だな」
「任されたわ。ランナーは返させないから」
「栞ねえちゃん、心強い」

 栞が守備側の子どもたちと楽しそうに喋っている。
 なんだ、ほんとうにあいつの目的がわかんねぇ。
 彰伸が疑問をとともに栞の様子を眺めていると、野球帽の子どもが寄ってきてプラスチックバットを突き出してきた。

「オジサン打ってみてよ。栞姉ちゃんが言うには活躍できるんでしょ?」
「まあ、な。見とけよ、元プロの実力」

 試すような口ぶりの子どもに火を付けられた彰伸は、プラスチックバットを受け取り、空気でも持っているようなバットの軽さに驚愕する。

「なにこれ、かるっ。こんなんでお前たち遊んでんの」
「軽いのを言い訳にしないでよ」
「しねぇよ。しっかしどれほど飛ぶのかね、こんなので」 

 プラスチックバットをしげしげと眺めて一回素振りをしてみた。
 あまりの軽さに彰伸自身の腕が一周してしまいそうなほどのスイングスピードになる。

「俺には軽すぎる。扱いづらいな」
「バッター早く打席に立ちなさい。アウトにするわよ」

 外野と言っても子どもの遊びなので二塁ベースほどの距離しかなく、栞がヤジの如く彰伸を急かした。
 攻撃と守備双方の子ども達も栞に同調するように彰伸を目線で促す。

「わかったわかった、今打席入るから」

 彰伸は素振りをやめ、長年使い込んで端が削られたホームベースの左側に立ち、バットを構えた。
 ピッチャーを担う子どもが精いっぱいに身体を使って投球する。
 ベース目掛けて子どもの投げたボールが飛んでくると、彰伸は素振りの時のスイングスピードを頭に入れながら、しっかりとボールを引き込んでからバットを振り抜いた。
 完璧にボールの芯を捉えた感覚がバットに伝わりほくそ笑む。

「よらっ、と」

 芯を捉えた打球は彰伸の斜め左方向の空へ発射されたような勢いで飛んでいった。
 驚愕の口を開いてボールの行方を子ども達が見届ける中、彰伸は爽快な気分で塁間をゆっくりと回る。

「オジサンすげー。めっちゃ飛んだ」
「栞ねえちゃんの言ってたこと、マジだったのか。ただのオジサンじゃねぇな」

 口々に彰伸を評価し直す子ども達。
 彰伸は小石で縁が描かれただけの二塁に立ち止まり、得意げな顔でピッチャーの子どもに笑い掛ける。

「これは文句なしのホームランでいいよな?」
「すげぇなオジサン。ホームランだよ」

 彰伸の実力に驚嘆しつつ、少しだけ悔しげに認めた。
 ボール取りに行かないといけないじゃん、と彰伸の打球に賞賛を送っていた攻撃側の一人が思い出したように打球の方向へ走り出す。
 初打席ホームランで河川敷の子ども達に認めらた彰伸は、野球の上手いオジサンとして子ども達と完全に打ち解けたのだった。