太陽が中天まで昇った昼頃まで草野球で遊んだ子ども達は、彰伸と栞に別れを告げて河川敷から去っていった。
人の良い笑顔でいた彰伸だが、子ども達の姿が見えなくなると途端にしかめ面を戻して栞を振り向く。
「おい。なんで子ども達の遊びに俺を誘ったんだ。お前は俺にトライアウトを受けさせたいんだろ?」
目的とはかけ離れた時間を過ごしたことの不満を栞にぶつけた。
栞は彰伸の言葉を真顔で受け止め、ほのかに笑う。
「今日のあなたは楽しそうに笑っていたわ。その笑顔が演技だとは思えない」
「演技じゃねぇけど、それがどうしたって言うんだ?」
相変わらず栞の意図が読めず、彰伸はしきりに問い掛ける。
察しの悪い彰伸を嘲弄するでもなく栞は答える。
「野球の本来あるべき形をあなたに再確認してもらいたかったの」
「あるべき形、なんだそりゃ」
意味深な発言に眉をひそめる。
栞は質問を待っていたかのように微笑む。
「野球は悩むものでも苦しいものでもないの。楽しいものなのよ。打って走って守って、喜ぶものなの」
「……そうかよ」
栞の返答を否定する理屈が彰伸の中にはなかった。
野球は楽しいもの。
その言葉が脳内で反芻され、自分を疑いたくなるほど腑に落ちた。
敵わない、という気分で彰伸は栞から視線を逸らす。
「お前の言う通りかもな。正直、久しぶりに楽しかった」
「楽しいことに気づいてくれたなら、来てもらった甲斐があったわ」
納得を示した彰伸に、栞は安堵の声を零す。
野球は楽しい、という気持ちが、彰伸の記憶から小学生の時に野球を始めたばかりの頃を思い出させた。
あの時期以来かもな、野球の楽しさを味わえたの。
懐かしい記憶に彰伸はつい口の端は緩む。
「そういや、俺も子どもの頃は楽しいから野球やってたわ。こんな感覚忘れてたわ」
「あなたにもそういう時期があったのね」
珍しく笑う彰伸を見て、栞が嬉しそうに表情を綻ばせる。
年下の栞と笑顔を向け合っていることに痒さを感じた彰伸は、笑顔を引っ込めて自慢げに鼻を鳴らす。
「俺はもっとレベルの高い環境でやってたけどな。子どもの遊びと一緒だと思うなよ」
元プロという自負心で言う彰伸に、栞は彰伸の自負さえ見越していたかのように目尻を下げた。
「知ってる。あなたは凄い選手で、私はあなたのファンだもの」
「そうか、知ってるならいいんだ。せっかく外出てきたし、ランニングしてから帰るわ。もう用はないだろ?」
女子高生とは思えぬ包容を持って自負を受け止められた彰伸は、少し気恥ずかしい気分で暗に解散を申し出る。
そうね、と栞は微笑み返す。
「見られてるとやりにくいでしょう。帰るわ」
「じゃあな」
短く別れを告げて背中を向けようとして、栞が顔の前で手を振るのが見えて顔を彼女へ戻す。
栞はほんの僅かに寂しさの滲む微笑を浮かべていた。
「それじゃあ、またね」
「おう。またな」
栞の表情に戸惑いながらも、これで正しいのか判断できないまま手を小さく振り返してから背中を向けた。
彰伸が歩き出すと栞も反対方向に足を運び、二人は昼間の河川敷を後にした。
ランニングやダッシュなどを終えて彰伸はアパートまで戻ってきた。
以前よりの息切れが浅くなりトレーニング後の足腰の怠さが軽く感じるようになって、変化しつつある自身の体力に手応えを覚える。
なにかのために頑張るって、あんがい気持ちいいな。
栞の頼みでトライアウトに参加するためにトレーニングを始めたが、体力以上に精神的な充足も得られていることに最近になって気が付いた。
住み慣れたアパートを見上げながら、栞との出会いに肯定的な自分を見出して笑みが漏れる。
俺は身体を動かすのが好きなのかもな。
バイト先と自宅との往復が日課になっていた以前よりも、燻っていた正体不明の憂鬱さが薄まっていた。
栞の前では不承不承という態度を取ってしまうが、ファンだと言って関わろうとしてくれる彼女に感謝の念があることは間違いない。
とはいえ、未だにトライアウトに参加させたい理由はわからないが、今の彰伸が参加すること自体に意義があるような気がして、野球に対する未練も払拭できるような予感さえ覚えている。
近いうち、ボール投げてみるか?
いつの間にか自分から意欲的に行動しようとしていることに、彰伸は口元を緩めた。
栞は河川敷から寄り道せずに自宅へ帰り着いた。
玄関に栞の帰宅した音を聞いてか、リビングにいた母親が玄関へ顔を出す。
これから昼食でも作るつもりだったのかエプロン姿の母親は、栞を見るなり心配そうな顔つきになる。
「おかえり、栞。今日はやりたいこと進んだ?」
「ちょっとずつだけど、進んでるわ」
答えながら、気を遣わせている負い目で口調が沈む。
娘の様子を見ながら母親は心配顔で問いを重ねる。
「身体の方は大丈夫なの。本当は療養してないといけないのよ?」
「まだ大丈夫よ。なんとかなってるわ」
栞は努めて平然とした顔を作るが、本音では終日ベッドで安静にしていたいぐらい苦しかった。
気丈を装う娘の心情を察してか母親は言いたそうな顔をしながらも、お昼ごはん作るからとだけ告げてリビングに引き返していった。
「ありがとう、お母さん」
栞はリビングへ入る母親の背中に告げてから、日に日に身体的要因で億劫になってきている階段を上がって自室に籠った。
自室に入るなりベッドに仰向けで倒れ込む。
ベッドから斜め上に見上げる位置にはハンガーに掛けられた彰伸が現役自体のレプリカユニフォーム、壁には数年前の球団カレンダーの彰伸のページが貼られており、他にも部屋中に栞が宮下彰伸のファンであることを示すグッズがたくさん置いてある。
そんな大好きな宮下彰伸に囲まれた自室の中で、栞は苦痛を全身から抜くように太い息を吐き出した。
ダメね、どんどん体力が落ちてる。ちょっと遊びに付き合っただけなのに。
衰微していく自身の体力と日々身体が蝕まれていく感覚のせいで、このまま寝てしまったら悪夢に魘される気がした。
心から惹きつけられ何度も見直したかつての宮下の投球を思い出しながら、栞は母親に呼ばれるまで静かに眠りについた。
人の良い笑顔でいた彰伸だが、子ども達の姿が見えなくなると途端にしかめ面を戻して栞を振り向く。
「おい。なんで子ども達の遊びに俺を誘ったんだ。お前は俺にトライアウトを受けさせたいんだろ?」
目的とはかけ離れた時間を過ごしたことの不満を栞にぶつけた。
栞は彰伸の言葉を真顔で受け止め、ほのかに笑う。
「今日のあなたは楽しそうに笑っていたわ。その笑顔が演技だとは思えない」
「演技じゃねぇけど、それがどうしたって言うんだ?」
相変わらず栞の意図が読めず、彰伸はしきりに問い掛ける。
察しの悪い彰伸を嘲弄するでもなく栞は答える。
「野球の本来あるべき形をあなたに再確認してもらいたかったの」
「あるべき形、なんだそりゃ」
意味深な発言に眉をひそめる。
栞は質問を待っていたかのように微笑む。
「野球は悩むものでも苦しいものでもないの。楽しいものなのよ。打って走って守って、喜ぶものなの」
「……そうかよ」
栞の返答を否定する理屈が彰伸の中にはなかった。
野球は楽しいもの。
その言葉が脳内で反芻され、自分を疑いたくなるほど腑に落ちた。
敵わない、という気分で彰伸は栞から視線を逸らす。
「お前の言う通りかもな。正直、久しぶりに楽しかった」
「楽しいことに気づいてくれたなら、来てもらった甲斐があったわ」
納得を示した彰伸に、栞は安堵の声を零す。
野球は楽しい、という気持ちが、彰伸の記憶から小学生の時に野球を始めたばかりの頃を思い出させた。
あの時期以来かもな、野球の楽しさを味わえたの。
懐かしい記憶に彰伸はつい口の端は緩む。
「そういや、俺も子どもの頃は楽しいから野球やってたわ。こんな感覚忘れてたわ」
「あなたにもそういう時期があったのね」
珍しく笑う彰伸を見て、栞が嬉しそうに表情を綻ばせる。
年下の栞と笑顔を向け合っていることに痒さを感じた彰伸は、笑顔を引っ込めて自慢げに鼻を鳴らす。
「俺はもっとレベルの高い環境でやってたけどな。子どもの遊びと一緒だと思うなよ」
元プロという自負心で言う彰伸に、栞は彰伸の自負さえ見越していたかのように目尻を下げた。
「知ってる。あなたは凄い選手で、私はあなたのファンだもの」
「そうか、知ってるならいいんだ。せっかく外出てきたし、ランニングしてから帰るわ。もう用はないだろ?」
女子高生とは思えぬ包容を持って自負を受け止められた彰伸は、少し気恥ずかしい気分で暗に解散を申し出る。
そうね、と栞は微笑み返す。
「見られてるとやりにくいでしょう。帰るわ」
「じゃあな」
短く別れを告げて背中を向けようとして、栞が顔の前で手を振るのが見えて顔を彼女へ戻す。
栞はほんの僅かに寂しさの滲む微笑を浮かべていた。
「それじゃあ、またね」
「おう。またな」
栞の表情に戸惑いながらも、これで正しいのか判断できないまま手を小さく振り返してから背中を向けた。
彰伸が歩き出すと栞も反対方向に足を運び、二人は昼間の河川敷を後にした。
ランニングやダッシュなどを終えて彰伸はアパートまで戻ってきた。
以前よりの息切れが浅くなりトレーニング後の足腰の怠さが軽く感じるようになって、変化しつつある自身の体力に手応えを覚える。
なにかのために頑張るって、あんがい気持ちいいな。
栞の頼みでトライアウトに参加するためにトレーニングを始めたが、体力以上に精神的な充足も得られていることに最近になって気が付いた。
住み慣れたアパートを見上げながら、栞との出会いに肯定的な自分を見出して笑みが漏れる。
俺は身体を動かすのが好きなのかもな。
バイト先と自宅との往復が日課になっていた以前よりも、燻っていた正体不明の憂鬱さが薄まっていた。
栞の前では不承不承という態度を取ってしまうが、ファンだと言って関わろうとしてくれる彼女に感謝の念があることは間違いない。
とはいえ、未だにトライアウトに参加させたい理由はわからないが、今の彰伸が参加すること自体に意義があるような気がして、野球に対する未練も払拭できるような予感さえ覚えている。
近いうち、ボール投げてみるか?
いつの間にか自分から意欲的に行動しようとしていることに、彰伸は口元を緩めた。
栞は河川敷から寄り道せずに自宅へ帰り着いた。
玄関に栞の帰宅した音を聞いてか、リビングにいた母親が玄関へ顔を出す。
これから昼食でも作るつもりだったのかエプロン姿の母親は、栞を見るなり心配そうな顔つきになる。
「おかえり、栞。今日はやりたいこと進んだ?」
「ちょっとずつだけど、進んでるわ」
答えながら、気を遣わせている負い目で口調が沈む。
娘の様子を見ながら母親は心配顔で問いを重ねる。
「身体の方は大丈夫なの。本当は療養してないといけないのよ?」
「まだ大丈夫よ。なんとかなってるわ」
栞は努めて平然とした顔を作るが、本音では終日ベッドで安静にしていたいぐらい苦しかった。
気丈を装う娘の心情を察してか母親は言いたそうな顔をしながらも、お昼ごはん作るからとだけ告げてリビングに引き返していった。
「ありがとう、お母さん」
栞はリビングへ入る母親の背中に告げてから、日に日に身体的要因で億劫になってきている階段を上がって自室に籠った。
自室に入るなりベッドに仰向けで倒れ込む。
ベッドから斜め上に見上げる位置にはハンガーに掛けられた彰伸が現役自体のレプリカユニフォーム、壁には数年前の球団カレンダーの彰伸のページが貼られており、他にも部屋中に栞が宮下彰伸のファンであることを示すグッズがたくさん置いてある。
そんな大好きな宮下彰伸に囲まれた自室の中で、栞は苦痛を全身から抜くように太い息を吐き出した。
ダメね、どんどん体力が落ちてる。ちょっと遊びに付き合っただけなのに。
衰微していく自身の体力と日々身体が蝕まれていく感覚のせいで、このまま寝てしまったら悪夢に魘される気がした。
心から惹きつけられ何度も見直したかつての宮下の投球を思い出しながら、栞は母親に呼ばれるまで静かに眠りについた。
