栞からトライアウトの参加を勧められた日から彰伸は、頼みを引き受けるか否かをバイトで集中を欠くほど考え続けた。
だがどれだけ考えても、今の生活に対する形容しがたい物足りなさと断る理由が思い浮かばず、待ち合わせ場所の河川敷に訪れた。
晩秋の冷たさを含んだ風をパーカー越しに感じながら河川敷に歩き着くと、高さの揃った芝の繁茂した緑の土手に見覚えしかないセーラー服の少女が腰を下ろしていた。
少女は土手を下った先にある土で汚れたホームベースだけの野球グラウンドを眺めていたが、彰伸が近づくのを察してかおもむろに振り返る。
斜め後ろに佇む彰伸と目が合うと僅かに微笑む。
「来てくれたのね。よかった」
「お前にトライアウトの話をされてから野球やってた頃の記憶が頭から離れねぇ」
「ここに来たってことは、トライアウトに参加する気になってくれたのよね?」
確認するように栞が尋ねるが、彰伸は気まずそうに顔を逸らして首裏を触れる。
「野球がやりたい、っていう気持ちはまだねぇよ。けどお前の頼みを断る理由もみつからねぇんだよ。なんていうかな、消去法みたいな気分でここに来たんだよ」
落胆させるかもしれない、と彰伸は答えながら思った。
しかし栞は微笑みを崩さず、納得したように頷いてから言葉を返す。
「最初はそれでも構わないわ。トライアウトに向けてトレーニングしていれば、すぐに野球選手のあなたに戻れるはずだから」
迷いない栞の口ぶりに彰伸は疑問の目を向ける。
「ずいぶん自信ありげだな。俺が途中で投げ出すかもしれないのに」
「別に確信があるわけじゃないわよ。一度信じたら疑わずに信じ込みたいだけよ」
「よくわかんねぇ感覚だな」
栞の考えは彰伸の一言に集約している。
一切の根拠もなく信じたいから信じる、という盲目的な行動には普通の人は出られないものだ。
わからなくていいわよ、と栞は言い切ってから話題を変えるように立ち上がってスカートについた塵を払う。
「トライアウトまで二か月もないわ。今すぐに鍛え直した方がいいと思うの」
一般論みたく栞は提案した。
当たり前のことを話す栞に彰伸は同意する。
「そうだな。いくら元プロで怪我もすでに癒えたとはいえ引退した身だ。いきなり全力投球したらまた身体を壊しかねない」
「そう言うってことは、何かトレーニングでも考えてきてるの?」
「何も」
彰伸が即答すると、栞は呆れを含んだ表情になる。
「なんの準備もしてないのね。期待しないで聞くけど、どんなトレーニングから始めるつもりなの?」
「どうしよう、な?」
問いかけに対して問い掛けを返す。
栞は仕方ないという風情で意見を口にする。
「ランニングはどうなの。現役の時より体力だいぶ落ちてるでしょ?」
「アリだな。今のところ他に思いつかねぇし、とりあえず走ってみるか。でもいいのか、トライアウトを勧めたのはお前なのに、そんな悠長なこと言ってて」
彰伸からすれば元プロの自分に一時的とはいえ実戦復帰を望んだ以上、栞の腹の内で何かしらの筋道が立っているものだと思っていた。
だが彰伸の想定とは異なり栞は自信のない顔をした。
「いろいろ考えていることはあるけど、次からでいいわ」
「急に遠慮深くなるな。まあいいや、手始めにランニングでもしてくる」
走る以外に思いつかなかった彰伸は脚の筋を伸ばし始める。
「私はコンビニ行ってくるわ。水分ぐらい欲しいでしょ?」
栞が彰伸の準備運動を眺めながら気を利かせる。
それじゃ頼むわ、と彰伸は告げて栞を尻目に走り出す。
「怪我しないでね」
栞はそれだけ口にすると彰伸とは反対方向に歩き出した。
ランニングに行ったまま戻らない、という卑怯な逃亡を実行しないとも限らないのに、何故だか栞は信頼してくれていた。
一時間ほど経過して彰伸が戻ってくると、晩秋にも関わらず顔に大量の汗をかき、膝に手を当てて肩で呼吸していた。
「すごく辛そう。歩ける?」
土手の芝に座って彰伸を待っていた栞が覗う。
彰伸は苦しげな息遣いのまま顔だけを栞へ向けた。
「歩くぐらいは問題ないが、はぁ、こんなキツかったか。現役の時は、はあ、この倍は走ってたぞ」
「引退して二年以上経ってるもの、仕方ないわよ」
トライアウトへ挑戦するよう懇願したわりには、心配そうに慰める。
彰伸は疲弊した足腰を休ませるために、深い意味はなく栞と大人一人分ほど離れた土手の芝の上に腰を下ろした。
宙を仰ぎながら呼吸を整える彰伸を栞はちらと見て、中腰で立ち上がり彰伸の横まで近づいてくる。
「隣、座るわよ」
「ふー、はあ、あ、ああ」
彰伸が生返事をすると、栞は言葉通りの隣に体育座りで腰を落とした。
互いに何も喋らず、すっかり高くまで昇った日差しの下で、冬の兆しらしい冷たい風が二人の間を吹きすぎていく。
しばらく二人とも寡黙に徹し、河川上の高架を通る線路車両だけが少しずつだが時間が進んでいることを知らせた。
「お前の予定はいいのかよ?」
二度目の在来線の通過を皮切りに長い沈黙を破って彰伸が話し掛けた。
穏やかに流れる河川を眺めていた栞が、話しかけられたことに気づいて振り向く。
「唐突な質問ね。私の予定なんか聞いてどうするのよ」
「今朝、俺の予定を聞いただろ。だからお前の方はいいのかな、と思ってよ」
問い掛けの意味など考えていなかった彰伸は最もらしい理由を返した。
栞はスカートのポケットからスマホを取り出して、時刻だけ見てすぐに仕舞う。
「もう正午前よ。今さらじゃない?」
「先に聞いておかなかったのは悪い。で、お前の予定はないのかよ?」
詫びつつ繰り返し尋ねた。
栞がおかしそうに微笑む。
「宮下選手のトレーニングに付き合うのが私の予定だったの。びっくりするでしょうけど、ファンだもの飽きないわ」
アパートに電撃訪問してきた時から相変わらずのファン宣言に、彰伸は栞に対して常識が通用しないような印象を覚える。
「言っちゃ悪いが普通じゃねぇな。お前高校生だろ。やりたいこと、とか、やるべきこと、とかあるだろ?」
「自分でも普通じゃないのは理解しているわ。でもいいのよ、私は私のやりたいことをやっているだけだもの」
疑問を投げた彰伸に栞が微笑みながら答える。
栞の達観したような発言に、彰伸の方がむしろ無粋なことを言っている気分になってしまった。
彰伸は不用意な言葉を避けるために黙ってしまう。
再びの沈黙が降りると途端に空腹を感じて、彰伸は朝から何も食べていないことを思い出す。
「腹減った。どっか食べ行ってくるわ」
呼吸も段々と整い、立ち上がりながら栞に告げる。
自然と栞を見下ろすような位置になり、何気なく栞の姿が華奢な背格好に心配が過ってくる。
「お前、ちゃんと食ってるか?」
彰伸の前触れのない問いに、栞は目を大きくしてびっくりした表情を返す。
「何よ、急に」
「痩せてるなぁ、と思ってよ。ちゃんと食ってるよな?」
念を押して尋ねつつも、まずかったかなと彰伸は顰め面になる。
栞はおもむろに腰を上げて、彰伸へのポーズのように自分の全身像を見回す。
「あなたから見れば痩せているかもね。私、女性らしい身体つきじゃないし、アスリートでもないもの」
真面目な返答をしてから心外そうな目つきを彰伸に注ぐ。
「それにしても失礼じゃないかしら。痩せてるとか食ってるとか、女子高生に尋ねることじゃないわ」
「失礼だったか、すまん」
現役女子高生との会話などしたことがない彰伸は、自身の無神経さを詫びた。
急に話題がなくなり彰伸は歩き出そうと半身を捻る。。
「ファミレスで何か食ってから帰るわ。お前は?」
話の流れの中で尋ねると、栞はスカートについた汚れをはたいた。
「私も行くわ。体力つくもの食べてもらいたいし、それにお酒は控えて欲しいから監視のためにも」
「監視するなよ。女子高生に監視されたら肩身が狭いわ」
「別に監視だけじゃないわよ。これからのために聞いておきたいこともあるの。バイトの日程とか、食生活とか、あなたがこれからトライアウトを受けるために、私は出来るだけ携わりたいの」
やんわりと抗議した彰伸に、栞は行動の思惑を真顔で打ち明ける。
自分のため、と言外に告げられた彰伸は同伴を拒否する気が失せ、好きにしろと返事をして背を向けた。
「ほんと物好きだな、お前」
「だって、あなたのファンだもの」
彰伸の軽口のような嫌味にも明け透けに答えて一歩後ろを着いてくる。
元プロ野球選手とそのファンは近くのファミレスは移動した。
だがどれだけ考えても、今の生活に対する形容しがたい物足りなさと断る理由が思い浮かばず、待ち合わせ場所の河川敷に訪れた。
晩秋の冷たさを含んだ風をパーカー越しに感じながら河川敷に歩き着くと、高さの揃った芝の繁茂した緑の土手に見覚えしかないセーラー服の少女が腰を下ろしていた。
少女は土手を下った先にある土で汚れたホームベースだけの野球グラウンドを眺めていたが、彰伸が近づくのを察してかおもむろに振り返る。
斜め後ろに佇む彰伸と目が合うと僅かに微笑む。
「来てくれたのね。よかった」
「お前にトライアウトの話をされてから野球やってた頃の記憶が頭から離れねぇ」
「ここに来たってことは、トライアウトに参加する気になってくれたのよね?」
確認するように栞が尋ねるが、彰伸は気まずそうに顔を逸らして首裏を触れる。
「野球がやりたい、っていう気持ちはまだねぇよ。けどお前の頼みを断る理由もみつからねぇんだよ。なんていうかな、消去法みたいな気分でここに来たんだよ」
落胆させるかもしれない、と彰伸は答えながら思った。
しかし栞は微笑みを崩さず、納得したように頷いてから言葉を返す。
「最初はそれでも構わないわ。トライアウトに向けてトレーニングしていれば、すぐに野球選手のあなたに戻れるはずだから」
迷いない栞の口ぶりに彰伸は疑問の目を向ける。
「ずいぶん自信ありげだな。俺が途中で投げ出すかもしれないのに」
「別に確信があるわけじゃないわよ。一度信じたら疑わずに信じ込みたいだけよ」
「よくわかんねぇ感覚だな」
栞の考えは彰伸の一言に集約している。
一切の根拠もなく信じたいから信じる、という盲目的な行動には普通の人は出られないものだ。
わからなくていいわよ、と栞は言い切ってから話題を変えるように立ち上がってスカートについた塵を払う。
「トライアウトまで二か月もないわ。今すぐに鍛え直した方がいいと思うの」
一般論みたく栞は提案した。
当たり前のことを話す栞に彰伸は同意する。
「そうだな。いくら元プロで怪我もすでに癒えたとはいえ引退した身だ。いきなり全力投球したらまた身体を壊しかねない」
「そう言うってことは、何かトレーニングでも考えてきてるの?」
「何も」
彰伸が即答すると、栞は呆れを含んだ表情になる。
「なんの準備もしてないのね。期待しないで聞くけど、どんなトレーニングから始めるつもりなの?」
「どうしよう、な?」
問いかけに対して問い掛けを返す。
栞は仕方ないという風情で意見を口にする。
「ランニングはどうなの。現役の時より体力だいぶ落ちてるでしょ?」
「アリだな。今のところ他に思いつかねぇし、とりあえず走ってみるか。でもいいのか、トライアウトを勧めたのはお前なのに、そんな悠長なこと言ってて」
彰伸からすれば元プロの自分に一時的とはいえ実戦復帰を望んだ以上、栞の腹の内で何かしらの筋道が立っているものだと思っていた。
だが彰伸の想定とは異なり栞は自信のない顔をした。
「いろいろ考えていることはあるけど、次からでいいわ」
「急に遠慮深くなるな。まあいいや、手始めにランニングでもしてくる」
走る以外に思いつかなかった彰伸は脚の筋を伸ばし始める。
「私はコンビニ行ってくるわ。水分ぐらい欲しいでしょ?」
栞が彰伸の準備運動を眺めながら気を利かせる。
それじゃ頼むわ、と彰伸は告げて栞を尻目に走り出す。
「怪我しないでね」
栞はそれだけ口にすると彰伸とは反対方向に歩き出した。
ランニングに行ったまま戻らない、という卑怯な逃亡を実行しないとも限らないのに、何故だか栞は信頼してくれていた。
一時間ほど経過して彰伸が戻ってくると、晩秋にも関わらず顔に大量の汗をかき、膝に手を当てて肩で呼吸していた。
「すごく辛そう。歩ける?」
土手の芝に座って彰伸を待っていた栞が覗う。
彰伸は苦しげな息遣いのまま顔だけを栞へ向けた。
「歩くぐらいは問題ないが、はぁ、こんなキツかったか。現役の時は、はあ、この倍は走ってたぞ」
「引退して二年以上経ってるもの、仕方ないわよ」
トライアウトへ挑戦するよう懇願したわりには、心配そうに慰める。
彰伸は疲弊した足腰を休ませるために、深い意味はなく栞と大人一人分ほど離れた土手の芝の上に腰を下ろした。
宙を仰ぎながら呼吸を整える彰伸を栞はちらと見て、中腰で立ち上がり彰伸の横まで近づいてくる。
「隣、座るわよ」
「ふー、はあ、あ、ああ」
彰伸が生返事をすると、栞は言葉通りの隣に体育座りで腰を落とした。
互いに何も喋らず、すっかり高くまで昇った日差しの下で、冬の兆しらしい冷たい風が二人の間を吹きすぎていく。
しばらく二人とも寡黙に徹し、河川上の高架を通る線路車両だけが少しずつだが時間が進んでいることを知らせた。
「お前の予定はいいのかよ?」
二度目の在来線の通過を皮切りに長い沈黙を破って彰伸が話し掛けた。
穏やかに流れる河川を眺めていた栞が、話しかけられたことに気づいて振り向く。
「唐突な質問ね。私の予定なんか聞いてどうするのよ」
「今朝、俺の予定を聞いただろ。だからお前の方はいいのかな、と思ってよ」
問い掛けの意味など考えていなかった彰伸は最もらしい理由を返した。
栞はスカートのポケットからスマホを取り出して、時刻だけ見てすぐに仕舞う。
「もう正午前よ。今さらじゃない?」
「先に聞いておかなかったのは悪い。で、お前の予定はないのかよ?」
詫びつつ繰り返し尋ねた。
栞がおかしそうに微笑む。
「宮下選手のトレーニングに付き合うのが私の予定だったの。びっくりするでしょうけど、ファンだもの飽きないわ」
アパートに電撃訪問してきた時から相変わらずのファン宣言に、彰伸は栞に対して常識が通用しないような印象を覚える。
「言っちゃ悪いが普通じゃねぇな。お前高校生だろ。やりたいこと、とか、やるべきこと、とかあるだろ?」
「自分でも普通じゃないのは理解しているわ。でもいいのよ、私は私のやりたいことをやっているだけだもの」
疑問を投げた彰伸に栞が微笑みながら答える。
栞の達観したような発言に、彰伸の方がむしろ無粋なことを言っている気分になってしまった。
彰伸は不用意な言葉を避けるために黙ってしまう。
再びの沈黙が降りると途端に空腹を感じて、彰伸は朝から何も食べていないことを思い出す。
「腹減った。どっか食べ行ってくるわ」
呼吸も段々と整い、立ち上がりながら栞に告げる。
自然と栞を見下ろすような位置になり、何気なく栞の姿が華奢な背格好に心配が過ってくる。
「お前、ちゃんと食ってるか?」
彰伸の前触れのない問いに、栞は目を大きくしてびっくりした表情を返す。
「何よ、急に」
「痩せてるなぁ、と思ってよ。ちゃんと食ってるよな?」
念を押して尋ねつつも、まずかったかなと彰伸は顰め面になる。
栞はおもむろに腰を上げて、彰伸へのポーズのように自分の全身像を見回す。
「あなたから見れば痩せているかもね。私、女性らしい身体つきじゃないし、アスリートでもないもの」
真面目な返答をしてから心外そうな目つきを彰伸に注ぐ。
「それにしても失礼じゃないかしら。痩せてるとか食ってるとか、女子高生に尋ねることじゃないわ」
「失礼だったか、すまん」
現役女子高生との会話などしたことがない彰伸は、自身の無神経さを詫びた。
急に話題がなくなり彰伸は歩き出そうと半身を捻る。。
「ファミレスで何か食ってから帰るわ。お前は?」
話の流れの中で尋ねると、栞はスカートについた汚れをはたいた。
「私も行くわ。体力つくもの食べてもらいたいし、それにお酒は控えて欲しいから監視のためにも」
「監視するなよ。女子高生に監視されたら肩身が狭いわ」
「別に監視だけじゃないわよ。これからのために聞いておきたいこともあるの。バイトの日程とか、食生活とか、あなたがこれからトライアウトを受けるために、私は出来るだけ携わりたいの」
やんわりと抗議した彰伸に、栞は行動の思惑を真顔で打ち明ける。
自分のため、と言外に告げられた彰伸は同伴を拒否する気が失せ、好きにしろと返事をして背を向けた。
「ほんと物好きだな、お前」
「だって、あなたのファンだもの」
彰伸の軽口のような嫌味にも明け透けに答えて一歩後ろを着いてくる。
元プロ野球選手とそのファンは近くのファミレスは移動した。
