掃除があらかた終わると、栞がゴミ袋を彰伸に渡して口を開いた。
「次は何をして欲しい?」
真意の掴めない顔つきで彰伸に尋ねる。
彰伸はゴミ袋から栞は呆れた視線を返す。
「まだいる気かよ。帰れよ」
「私は掃除業者じゃないの。掃除が終わったら帰るなんて言ってないわ」
反論しようのない物言いに彰伸は疲れた顔になる。
別に気に障るようなことされたわけじゃないんだよな。
むしろ掃除をしてくれて助かった思いがあり、彰伸は目の前の少女に声を荒げる気にはなれなかった。
なんとか理由をつけて帰ってもらうしかない。
彰伸は布団横の時計を見る。
「この後バイトはあんだよ。だから帰ってくれ」
「そう。それじゃ家に居るわけにはいかないわね」
栞は素直に納得すると、すぐにドアの前まで戻りパンプスに履き替え始めた。
やっと帰ってくれるか、と彰伸が安心して栞の靴を履く様子を見るともなく眺める。
パンプスを履き直した栞が彰伸の方へ向き直る。
「何か食べたいものはある。どうせ独り身でロクな物食べてないんでしょ」
ゴミを集めて彰伸の食事内容を想像できたのか、少女は案じるような口ぶりで希望を問うた。
年下のそれもまだ高校生ぐらいにしか見えない少女に気を遣われて、惨めさを感じて彰伸は眉根を顰める。
「この後バイトあるって言ってるだろ。帰れ」
「わかったわ。バイト頑張ってね」
突き放した言い方で告げると、流石に栞も気が悪くなった様子で彰伸の部屋から去っていった。
彰伸はアパートの階段を降りる足音を聞き、わざわざドアを開けて栞がいないのを確認してからバイトへ向かう支度を始めた。
支度と言っても服を着替えて、財布やスマホなどの貴重品をズボンのポケットに突っ込むぐらいだが。
「この部屋、こんな広かったかよ」
部屋を出る間際、ゴミを排出したことで足場が増えた自室に、彰伸は異質な感じを覚えて妙に落ち着かなかった。
すっかり日が暮れた頃、彰伸はバイトから帰ってきた。
肉体労働の配達バイトで疲弊した身体でアパートの階段を上がり、ようやく自分の部屋のドアが見えたところで彰伸の足は止まった。
最近になって見慣れてしまったセーラー服の少女がドアの横の壁にもたれていた。
少女もとい栞は彰伸と視線が合うと、足元に置いたエコバッグを持ち上げて彰伸に歩み寄る。
「おかえり。鍵開けてもらえるかしら」
「開けてもらえるかしら、じゃねぇよ。また来たのかよ」
「私の目的は達成できていないもの。達成できるまでしつこく訪問させてもらうわ」
うんざりした顔になる彰伸に栞は平然と言い返した。
栞を突き飛ばして道を空けるわけにもいかず、彰伸は自身が部屋に入るために仕方なくドアを開錠する。
「そんなところで立たれてると迷惑だ。早く目的とやらを果たして帰ってくれや」
不承不承という感じで彰伸は告げて、栞の横を抜けてドアを開けたまま中に入る。
「それじゃお邪魔するわ」
一言断ってから栞は彰伸の後に続いて部屋に踏み入り、エコバッグを持ったままキッチンへ足を向けた。
一人用の狭いキッチンの調理台にエコバッグを置くと、バッグから食材を取り出しながら彰伸を振り向く。
「ちょっとキッチン借りるわね」
そう言うと、すぐさま調理台へ視線を戻すが彰伸が慌てて詰め寄った。
「お前、キッチンで何を始める気だ?」
「何って料理するのよ。お腹空いたでしょ?」
悪気のない口調で質問に質問で返してくる。
彰伸はまんざら空腹を否定できず、図星を突かれた気分で顔を顰める。
「たしかにメシはまだだ。けどなんでお前が作ろうとしてんだよ」
「宮下選手に食べて欲しいから。朝ゴミ出しをした感じ、独り身でロクな食事してないでしょう?」
「そんなの勝手だろ。お前にとやかく言われる筋合いはねぇ」
「代金も取らないし、美味しくなければ食べなくてもいいから。お願い、私に作らせてもらえないかしら?」
不満を申し立てる彰伸に栞は懇願した。
栞からの切実な頼みに自分に不利益はないと考えた彰伸は、力を抜くように大きく溜息を吐いて少女に背中を向ける。
「勝手にしろ」
「ありがと」
折れてくれた彰伸に栞は礼を口にすると、慣れた身のこなしで狭いキッチンの中料理を始めた。
彰伸は栞が手際よく料理する様子をしばらく眺めたが、次第に睡魔が襲い掛かりちゃぶ台に突っ伏して眠りに落ちてしまった。
うたた寝していた彰伸の鼻腔に、俄かにトマトケチャップのほんのりとした甘い匂いが入り込んできた。
「なんだ、この匂い」
ぼんやりとした意識で匂いの正体を確かめようとする彰伸が顔を上げると、目の前に匂いの正体があった。
ちゃぶ台の上には使い捨ての紙皿に盛られたまだ温かそうなオムライスの黄色が置かれている。
状況の意味が吞み込めずにオムライスを見つめる彰伸の視界の端で、黒髪の少女がちゃぶ台の横から覗き込んできた。
「勝手に起きたわね。起こす手間が省けたわ」
「なあ、これお前か?」
彰伸がオムライスを指差して尋ねると、栞は得意になる様子もなくスプーンを彰伸の前に置いた。
「どうぞ。食べて」
「俺のためにオムライスを作ったのか?」
家族でもない男へ料理を振舞う栞の意図が気になって彰伸は質問を重ねた。
栞は問いかける彰伸と視線を合わせて毅然と答える。
「宮下選手のために何かしたいと思って。オムライス好きなんでしょ」
「知ってたのか?」
「ファンだもの。選手名鑑に書かれてあることは暗記してるわ。ほら食べてみて」
驚く彰伸に手作りのオムライスを勧める。
彰伸は勧めに応じてスプーンを手に取るが、すぐには食べ始めずにじっと少女の目的について頭を巡らせた。
害どころかお節介なほどの親切をしてくれているが、ファンだからといって易々と厚意を受け取っていては良くない気がした。
分別のある大人が下す判断として、倫理的に未成年の少女を家族でもなし男の家に度々訪問させてはならない。
栞に対しての態度を決めた彰伸は、栞へ真面目な視線を向ける。
「食べる前に言わせてくれ。このオムライスを食べたら、二度と俺には関わらないでくれ」
常識に則って諭せば言い聞かせられると思った。
だが栞は眉を顰めて不服を露わにする。
「絶対に嫌よ」
「……は?」
考える余地もないほどに断固として拒否され、彰伸は愕然と声が出てしまう。
あまりの強気な反抗に二の句が継げない彰伸に、栞は揺るぎない信念の籠った瞳で見つめ返す。
「あなたがマウンドで投げる姿をもう一度見たいの。そのためだけに私はここに来たの」
驚愕で言葉が無くなっていた彰伸は、目の前の少女から窺える覚悟に気圧されたように呆れた。
「正気か、お前」
「正気よ」
短く答える栞の眼差しには梃子でも動かない力強さがあった。
俺なんかの説得でどうにかなる相手じゃないぞ。
栞の真剣な様子に彰伸は余計にたじろいでしまう。
「完全に引退してから二年ぐらい経ってるんだぞ。万一マウンドに上がったとしても現役の時みたいには投げられないぞ」
無様を晒すだけ、という言い訳で栞の方から心変わりすることを期待した。
栞は重々承知という真顔で彰伸から視線を逸らさない。
「もちろん現役ほどの投球が出来るとは思っていないわ。それに今すぐにとも言わない、十一月の合同トライアウトまでに決断して欲しいの」
「十一月って、あと二か月もねぇじゃねぇか」
栞の提案を検討しかけて彰伸は事の性急さに抗議する。
「万全じゃなくてもいいの。だからお願い、私の頼みを聞いてください」
反発する彰伸に対して、栞はついにちゃぶ台に頭をつかんばかりに下げて懇願した。
俺がマウンドで投げることに、それほどの価値があるのか。
自分のファンであると主張する少女からの願いに、野球を辞めた彰伸といえども心が揺れないことはなく、心が揺れる自分がいることに彰伸は内心驚いた。
応援してくれる人のために投げたい気持ちが俺には残ってるのか?
彰伸は苦痛と挫折を押し潰して降りたあの舞台に、再び立っている自分の姿を想像した。
あの時がいちばん自分らしかったんじゃないか?
ロジンを触った粉っぽさ、硬球の手に馴染んだ感触、正対した時に見える目を開いたようなキャッチャーミット。
思い出してしまうと、マウンドから見ていた何もかもが自分の世界だったような気がしてくる。
もしかして、ここにいる俺は本当の俺じゃないのでは?
今まで思い描かないようにしていたイメージ像が、彰伸の胸のうちに疑問を抱かせた。
「考えさせてくれ」
そんな返事が自然と彰伸の口から出た。
彰伸の返事を聞いた栞は、顔を上げてわずかな希望を見出した表情になる。
「ありがとう。考えてくれるのね」
「曖昧な答えで悪いな」
「断られないだけでもいいわ」
そう言うと、気持ちを切り替えるようにオムライスを指差す。
「それを食べたら承諾しないといけない、なんて言わないから遠慮せずに食べて」
「じゃあ、いただきます」
いただきます、なんていつぶりに言ったかな、と彰伸は思考をどうでもいい方向に移して栞が作ったオムライスを口に運んだ。
程よい炊き加減のチキンライスと、黄身のとろみを残した卵が口の中で絶妙な味わいを醸した。
「美味しい」
酒とつまみばかりで鈍っていた彰伸には舌が踊り出しそうな味だった。
「そう。よかったわ」
彰伸の評価に栞は努めて微笑を抑えたように呟いた。
その後、彰伸が食べ終わるのを待って栞は食器などの洗い物まで済ましてから暇を告げてドアの前まで下がった。
靴を履き替える間際、彰伸へ正面を向いて口を開く。
「三日後は何時からバイトかしら?」
「三日後? その日は夕方からだな、それがどうかしたのか?」
「それじゃ三日後の午前十時、近くの河川敷で待ってる」
彰伸は予定を聞く意図を確かめるが、返ってきたのは一方的な待ち合わせ場所と時間の指定だった。
結局、彰伸の質問には答えず栞は身を翻して部屋から去っていってしまった。
「用向きぐらい言えっての」
悪態じみて彰伸は吐き捨てたが、保留に近い返答をした手前もあり、待ち合わせを反故にする気は全く湧かなかった。
「次は何をして欲しい?」
真意の掴めない顔つきで彰伸に尋ねる。
彰伸はゴミ袋から栞は呆れた視線を返す。
「まだいる気かよ。帰れよ」
「私は掃除業者じゃないの。掃除が終わったら帰るなんて言ってないわ」
反論しようのない物言いに彰伸は疲れた顔になる。
別に気に障るようなことされたわけじゃないんだよな。
むしろ掃除をしてくれて助かった思いがあり、彰伸は目の前の少女に声を荒げる気にはなれなかった。
なんとか理由をつけて帰ってもらうしかない。
彰伸は布団横の時計を見る。
「この後バイトはあんだよ。だから帰ってくれ」
「そう。それじゃ家に居るわけにはいかないわね」
栞は素直に納得すると、すぐにドアの前まで戻りパンプスに履き替え始めた。
やっと帰ってくれるか、と彰伸が安心して栞の靴を履く様子を見るともなく眺める。
パンプスを履き直した栞が彰伸の方へ向き直る。
「何か食べたいものはある。どうせ独り身でロクな物食べてないんでしょ」
ゴミを集めて彰伸の食事内容を想像できたのか、少女は案じるような口ぶりで希望を問うた。
年下のそれもまだ高校生ぐらいにしか見えない少女に気を遣われて、惨めさを感じて彰伸は眉根を顰める。
「この後バイトあるって言ってるだろ。帰れ」
「わかったわ。バイト頑張ってね」
突き放した言い方で告げると、流石に栞も気が悪くなった様子で彰伸の部屋から去っていった。
彰伸はアパートの階段を降りる足音を聞き、わざわざドアを開けて栞がいないのを確認してからバイトへ向かう支度を始めた。
支度と言っても服を着替えて、財布やスマホなどの貴重品をズボンのポケットに突っ込むぐらいだが。
「この部屋、こんな広かったかよ」
部屋を出る間際、ゴミを排出したことで足場が増えた自室に、彰伸は異質な感じを覚えて妙に落ち着かなかった。
すっかり日が暮れた頃、彰伸はバイトから帰ってきた。
肉体労働の配達バイトで疲弊した身体でアパートの階段を上がり、ようやく自分の部屋のドアが見えたところで彰伸の足は止まった。
最近になって見慣れてしまったセーラー服の少女がドアの横の壁にもたれていた。
少女もとい栞は彰伸と視線が合うと、足元に置いたエコバッグを持ち上げて彰伸に歩み寄る。
「おかえり。鍵開けてもらえるかしら」
「開けてもらえるかしら、じゃねぇよ。また来たのかよ」
「私の目的は達成できていないもの。達成できるまでしつこく訪問させてもらうわ」
うんざりした顔になる彰伸に栞は平然と言い返した。
栞を突き飛ばして道を空けるわけにもいかず、彰伸は自身が部屋に入るために仕方なくドアを開錠する。
「そんなところで立たれてると迷惑だ。早く目的とやらを果たして帰ってくれや」
不承不承という感じで彰伸は告げて、栞の横を抜けてドアを開けたまま中に入る。
「それじゃお邪魔するわ」
一言断ってから栞は彰伸の後に続いて部屋に踏み入り、エコバッグを持ったままキッチンへ足を向けた。
一人用の狭いキッチンの調理台にエコバッグを置くと、バッグから食材を取り出しながら彰伸を振り向く。
「ちょっとキッチン借りるわね」
そう言うと、すぐさま調理台へ視線を戻すが彰伸が慌てて詰め寄った。
「お前、キッチンで何を始める気だ?」
「何って料理するのよ。お腹空いたでしょ?」
悪気のない口調で質問に質問で返してくる。
彰伸はまんざら空腹を否定できず、図星を突かれた気分で顔を顰める。
「たしかにメシはまだだ。けどなんでお前が作ろうとしてんだよ」
「宮下選手に食べて欲しいから。朝ゴミ出しをした感じ、独り身でロクな食事してないでしょう?」
「そんなの勝手だろ。お前にとやかく言われる筋合いはねぇ」
「代金も取らないし、美味しくなければ食べなくてもいいから。お願い、私に作らせてもらえないかしら?」
不満を申し立てる彰伸に栞は懇願した。
栞からの切実な頼みに自分に不利益はないと考えた彰伸は、力を抜くように大きく溜息を吐いて少女に背中を向ける。
「勝手にしろ」
「ありがと」
折れてくれた彰伸に栞は礼を口にすると、慣れた身のこなしで狭いキッチンの中料理を始めた。
彰伸は栞が手際よく料理する様子をしばらく眺めたが、次第に睡魔が襲い掛かりちゃぶ台に突っ伏して眠りに落ちてしまった。
うたた寝していた彰伸の鼻腔に、俄かにトマトケチャップのほんのりとした甘い匂いが入り込んできた。
「なんだ、この匂い」
ぼんやりとした意識で匂いの正体を確かめようとする彰伸が顔を上げると、目の前に匂いの正体があった。
ちゃぶ台の上には使い捨ての紙皿に盛られたまだ温かそうなオムライスの黄色が置かれている。
状況の意味が吞み込めずにオムライスを見つめる彰伸の視界の端で、黒髪の少女がちゃぶ台の横から覗き込んできた。
「勝手に起きたわね。起こす手間が省けたわ」
「なあ、これお前か?」
彰伸がオムライスを指差して尋ねると、栞は得意になる様子もなくスプーンを彰伸の前に置いた。
「どうぞ。食べて」
「俺のためにオムライスを作ったのか?」
家族でもない男へ料理を振舞う栞の意図が気になって彰伸は質問を重ねた。
栞は問いかける彰伸と視線を合わせて毅然と答える。
「宮下選手のために何かしたいと思って。オムライス好きなんでしょ」
「知ってたのか?」
「ファンだもの。選手名鑑に書かれてあることは暗記してるわ。ほら食べてみて」
驚く彰伸に手作りのオムライスを勧める。
彰伸は勧めに応じてスプーンを手に取るが、すぐには食べ始めずにじっと少女の目的について頭を巡らせた。
害どころかお節介なほどの親切をしてくれているが、ファンだからといって易々と厚意を受け取っていては良くない気がした。
分別のある大人が下す判断として、倫理的に未成年の少女を家族でもなし男の家に度々訪問させてはならない。
栞に対しての態度を決めた彰伸は、栞へ真面目な視線を向ける。
「食べる前に言わせてくれ。このオムライスを食べたら、二度と俺には関わらないでくれ」
常識に則って諭せば言い聞かせられると思った。
だが栞は眉を顰めて不服を露わにする。
「絶対に嫌よ」
「……は?」
考える余地もないほどに断固として拒否され、彰伸は愕然と声が出てしまう。
あまりの強気な反抗に二の句が継げない彰伸に、栞は揺るぎない信念の籠った瞳で見つめ返す。
「あなたがマウンドで投げる姿をもう一度見たいの。そのためだけに私はここに来たの」
驚愕で言葉が無くなっていた彰伸は、目の前の少女から窺える覚悟に気圧されたように呆れた。
「正気か、お前」
「正気よ」
短く答える栞の眼差しには梃子でも動かない力強さがあった。
俺なんかの説得でどうにかなる相手じゃないぞ。
栞の真剣な様子に彰伸は余計にたじろいでしまう。
「完全に引退してから二年ぐらい経ってるんだぞ。万一マウンドに上がったとしても現役の時みたいには投げられないぞ」
無様を晒すだけ、という言い訳で栞の方から心変わりすることを期待した。
栞は重々承知という真顔で彰伸から視線を逸らさない。
「もちろん現役ほどの投球が出来るとは思っていないわ。それに今すぐにとも言わない、十一月の合同トライアウトまでに決断して欲しいの」
「十一月って、あと二か月もねぇじゃねぇか」
栞の提案を検討しかけて彰伸は事の性急さに抗議する。
「万全じゃなくてもいいの。だからお願い、私の頼みを聞いてください」
反発する彰伸に対して、栞はついにちゃぶ台に頭をつかんばかりに下げて懇願した。
俺がマウンドで投げることに、それほどの価値があるのか。
自分のファンであると主張する少女からの願いに、野球を辞めた彰伸といえども心が揺れないことはなく、心が揺れる自分がいることに彰伸は内心驚いた。
応援してくれる人のために投げたい気持ちが俺には残ってるのか?
彰伸は苦痛と挫折を押し潰して降りたあの舞台に、再び立っている自分の姿を想像した。
あの時がいちばん自分らしかったんじゃないか?
ロジンを触った粉っぽさ、硬球の手に馴染んだ感触、正対した時に見える目を開いたようなキャッチャーミット。
思い出してしまうと、マウンドから見ていた何もかもが自分の世界だったような気がしてくる。
もしかして、ここにいる俺は本当の俺じゃないのでは?
今まで思い描かないようにしていたイメージ像が、彰伸の胸のうちに疑問を抱かせた。
「考えさせてくれ」
そんな返事が自然と彰伸の口から出た。
彰伸の返事を聞いた栞は、顔を上げてわずかな希望を見出した表情になる。
「ありがとう。考えてくれるのね」
「曖昧な答えで悪いな」
「断られないだけでもいいわ」
そう言うと、気持ちを切り替えるようにオムライスを指差す。
「それを食べたら承諾しないといけない、なんて言わないから遠慮せずに食べて」
「じゃあ、いただきます」
いただきます、なんていつぶりに言ったかな、と彰伸は思考をどうでもいい方向に移して栞が作ったオムライスを口に運んだ。
程よい炊き加減のチキンライスと、黄身のとろみを残した卵が口の中で絶妙な味わいを醸した。
「美味しい」
酒とつまみばかりで鈍っていた彰伸には舌が踊り出しそうな味だった。
「そう。よかったわ」
彰伸の評価に栞は努めて微笑を抑えたように呟いた。
その後、彰伸が食べ終わるのを待って栞は食器などの洗い物まで済ましてから暇を告げてドアの前まで下がった。
靴を履き替える間際、彰伸へ正面を向いて口を開く。
「三日後は何時からバイトかしら?」
「三日後? その日は夕方からだな、それがどうかしたのか?」
「それじゃ三日後の午前十時、近くの河川敷で待ってる」
彰伸は予定を聞く意図を確かめるが、返ってきたのは一方的な待ち合わせ場所と時間の指定だった。
結局、彰伸の質問には答えず栞は身を翻して部屋から去っていってしまった。
「用向きぐらい言えっての」
悪態じみて彰伸は吐き捨てたが、保留に近い返答をした手前もあり、待ち合わせを反故にする気は全く湧かなかった。
