キャッチボールをもう一度。

 彰伸は何故かマウンドに立っていた。
 はっとして周りを見回すと、現役時代に所属していたチームの面々が守備位置からマウンドの彰伸に期待の視線を注いでいた。
 正面からバッテリーを組むベテラン捕手がマスクを取りながら彰伸へ歩み寄ってくる。

「宮下、今日は完全にお前の日だ。最後のアウトまで楽しめ」

 そう励ますと、彰伸の左肩を軽くグラブで叩いてホームベースへと戻っていく。
 ベテラン捕手に彰伸は笑い返そうとしたが、何故か右肩が急激に重く感じて上手く笑えなかった。

 今、どういう状況なんだ?

 マウンドに立ったまま彰伸は自分の身体を見下ろす。
 左手にはグラブを嵌め、右手にはプロ仕様の野球ボールを握り、現役時代のユニフォームに袖を通している。
 スタンドの電光掲示板を見ようとして、唐突に視界が歪み始めた。

 なんだ、これ?

 頭がよろめくような気分の悪さに襲われ、慌てて捕手の方に視線を戻そうとした。
 だが視線の先に捕手はおらず、漆黒の闇だけが彰伸の眼前に広がっていた。
 投球の目標を失い、彰伸はマウンド上で茫然と立ち尽くす。
 どうなってんだよ、投げられねぇじゃねえか。
 何かおかしいと本能的に気が付いた瞬間、右肩の上に重りのある物が乗っている感覚になり、そちらへ目を向けた。

「ぎゃあ!」

 思わず悲鳴をあげてしまった。
 右肩には黒々とした死神が佇立しており、大きな鎌を彰伸の右肩に振り下ろした。
 振り下ろされた鎌が右肩に突き刺さると、電撃のような激痛が右肩から指先へ走り抜けた。

「あがぁ」

 彰伸が痛みに呻いた直後、意識の外側からインターホンの音が耳に入ってきた。
 直面している悲劇とは場違いな突然のインターホンに、彰伸の瞼がこじ開けられる。

「はあ、あ、夢か?」

 不意に目が覚めた彰伸は、ぼんやりとした意識の外からしきりにインターホンが鳴らされ耳朶を刺激されていた。
 徐々に先ほどまでの光景が夢だという認識が腹に落ち始めると、途端に誰かによってうるさく鳴らされるインターホンが気になり始めた。
 無視すれば帰るだろう、と起き上がるのが面倒で仰向けのままでいたが、断続的にインターホンが鳴らされ続ける。
 諦めの悪い訪問者に、彰伸もさすがに痺れを切らして起き上がりドアを開けた。

「何回も鳴らすな。うるせぇ……ぞ」

 ドアを開けるなり外に立つ人物に注意するが、訪問者の姿を目に入れて言葉尻が萎んでしまう。
 訪問者は黒髪を肩口で切り揃えた清楚な印象のセーラー服の女子学生で、彰伸には見覚えしかなかった。

「ほんとに今日も来たのかよ」

 不満げにぼやくと、女子学生もとい栞は平然とした顔で口を開く。

「明日も来るって言ったでしょ。何も驚くことないはずだわ」
「本当に来るとは思わないだろ、普通」

 歓迎していない顰め面で返す彰伸。
 栞は端から取り合う気がないように真面目な顔で切り出す。

「あなたに大事な話があって来たの。ひとまず話を聞いてもらえないかしら?」
「……本当に話を聞くだけでいいのか?」
「その後のことは宮下選手次第よ」

 意味深な物言いだったが彼女から悪意らしき雰囲気を感じず、彰伸は話だけでも聞こうとドアノブを掴んでいた手をドアの縁に移す。

「で、話って?」
「この写真を見てもらえるかしら?」

 栞は一枚の写真を彰伸に渡した。
 彰伸は探るような目で写真を眺める。
 写真には現役時代の若い彰伸と小学低学年くらいの女の子が、彰伸の方が屈んで目の高さを合わせた姿勢で並んで写真に収まっている。
 写真の中の楽観的な笑顔の自分に青臭さを彰伸が感じながら、写真から栞の方へ視線を戻す。

「この写真が何だって言うんだ?」
「見て気付くことがないかしら?」
「はあ?」

 栞の回りくどい言い方に苛つきながら写真を子細に見る。
 新しく何か発見することはない、と高を括っていたが写真の背景が妙に見覚えがあり、彰伸は記憶を呼び起こした。

 あれ、これって俺の実家の廊下じゃね?

 彰伸の表情の変化を感じ取ったのか、栞が伺う視線を彰伸に送る。

「どう。わかった?」
「この写真撮ったの、俺の実家か?」

 あたりを付けて尋ねると、栞は僅かに口角を緩めて頷いた。

「そうよ。それで写ってる女の子が昔の私。親戚で集まった時にお母さんのスマホで宮下選手に撮ってもらったの」

 栞の説明から彰伸の中で新たな疑問が湧いてくる。

 もしかして、この少女は案外近しい血縁関係なのか?

「俺の実家で撮ったってことは、お前も親戚としてあの日同じ家にいたってことだよな。俺が知らないだけでどこかで血が繋がってんのか?」
「そうね。宮下選手の父親の従姉妹の夫の妹の娘が私よ」
「……だいぶ他人よりだな、それは」

 彼女は解説する家系図がすぐに頭に描けないが、だいぶ遠い親戚であることは彰伸にも伝わってきた。
 それでも一応の親戚で以前に会っていると知り、彰伸の中で少しだけ栞に対する警戒が緩む。

「昔にお前と知り合っていることは心得た。でもどうして俺の居場所がわかったんだ?」

 彰伸の疑問は栞の素性よりも、自分の居場所を探し当てたことに向かった。
 なんだそんなこと、と栞は詰まらなさそうな顔になる。

「球団関係者に聞いたり、親戚に教えてもらったり、宮下選手と仲の良かった元チームメイトに尋ねたり、いろいろな人に会って探したからよ。案外近くに住んでたのね」
「そこまでして俺に会いに来たのか。何か目的がないと嫌になるだろ」

 想像以上の足労で自分のもとを訪れた栞に、彰伸は同情的な目を送る。
 目的があるのよ、と栞は真面目な顔で返した。

「でも、その目的を話す前に頼みを聞いてもらえないかしら?」

 気掛かりな様子で言った。
 彰伸が目顔で続きを促すと、栞は部屋の中を指差す。

「部屋の中を掃除させてもらうわ」

 そう告げると、彰伸の横を通り抜けようと横に割って入ってくる。
 思わず彰伸が避けてしまうと、栞は部屋まで上がって散らかった室内を見回すなり唇を歪めた。

「もうちょっと綺麗に出来ないのかしら」

 ゴミが散乱した室内に呆れ声でぼやく。
 勝手に入ってきてうるせぇ、と彰伸は反発するが、栞は取り合う気もなさそうに散らかったポリ袋を集め始める。

「私一人でもあなたの部屋を掃除させてもらうわ。面倒なら嫌々手伝わなくてもいいから」
「あんま勝手に触んなよ。俺の部屋だぞ」
「なら触って欲しくない物は先に避けて。それには触らないようにするから」

 掃除をやめさせるつもりで彰伸が言ったのだが、栞に手を止める気配などなく挙句に彰伸に指示を出した。
 彰伸は力づくで追い出すこともできたが、栞のセーラー服越しにもわかる華奢な身体つきを見ると、倫理的に強引な手段を取る気は失せた。
 止める気も起きない彰伸は、栞がポリ袋の中身を確認しながらゴミを集めていく様子を眺めた。

「これ、唐揚げのパックね。やっぱり鶏肉好きなのね」
「やっぱりってなんだよ。他の肉の方が好きかもしれないだろ」
「プロ五年目の選手名鑑に、好きな食べ物の欄で鶏肉って書いてあったでしょ。だから今でも鶏肉好きなんだ、と」
「そうなのか。俺自身でも覚えてないのに」
「言ったじゃない、ファンだもの」

 栞は話しながらポリ袋を集めた後も、分別したり総菜の入っていた容器をまとめたり、制服スカートの裾が汚れるのも厭わずに彰伸の部屋の掃除を続けていく。
 文句ひとつ口にせず掃除をする栞に流石の彰伸も気が悪くなってきて、一歩近づいて傍のポリ袋を栞よりも先に拾った。

「もういい。あとは自分でやる」
「気にしないで。無理に手伝わなくて構わないわ」

 栞は遠慮を見せるが、彰伸は聞かずに栞の手からゴミを集めた袋を掠め取る。

「いい年した大人が未成年に世話焼かれてたまるか。もういっぱいだろ、捨てて来る」
「そう。じゃあお願い」

 彰伸は栞の返事を聞くまでもなくアパート近くの収集場所へゴミ袋を捨てに行った。
 なんなんだよ、あの子。何が目的で掃除してんだ?
 ファンだから、と言って甲斐甲斐しさを見せる栞に、彰伸は若干の情けなさを含んだ複雑な気持ちになった。