キャッチボールをもう一度。

 ファンの少女から嫁入り宣言された日から月日は流れ、宮下彰伸はプロ野球選手を引退して二年が経過し、簡単なバイトをこなして日々を送っていた。

「やっと帰って来たぜ。今日もお疲れ様」

 安アパートの一室に帰宅した彰伸は、ドアの前に立つなり自分を労った。
 左手にはコンビニで買ってきた安い発泡酒とつまみ代わりのポテトチップスを入れたポリ袋を提げている。
 これからバイトに明け暮れた一日の中で至福の時間となる晩酌を嗜むつもりだった。
 鍵を開けて部屋に入ると、若干の饐えたような酒臭さに彰伸は帰宅した実感を得た。
 部屋の中は今日と同じポリ袋がちゃぶ台を囲むように放置され、ちゃぶ台の向こう側で敷きっぱなしの布団を除いてポリ袋や発泡酒の缶で部屋は埋まっていた。
 彰伸は散らかったポリ袋をキャットウォークのように踏み分けて、ちゃぶ台の前に腰を下ろす。
 ポリ袋から中身を取り出し、ちゃぶ台の上でポテトチップスの袋を広げる。

「結局、これなんだよな」

 独り言を呟いてから手も洗わずにポテトチップスを一枚口に入れてから、発泡酒を開けて泡ごと口へ流し込んだ。
 喉を動かして飲み下すと、一瞬の快感に彰伸は大きい息遣いを吐いた。

「ぷはぁ、疲れた」

 飲酒の頭を溶かすような奇妙な爽快感とともに、彰伸の口から一日を体現する愚痴がこぼれる。
 バイトが際立って苦痛だとか、嫌味な先輩がいるとか、そういった対外的な理由ではなく、何故か異常に疲れるのだ。
 プロ野球という華やかな世界から、いきなり在野に放たれた現在の彰伸には疲れた以外の感想が出てこない。
 とはいえ自分の意思だけで戻れるほどプロ野球の世界が甘くないことも彰伸は理解していた。

「明日は何のバイトだったかな?」

 一口目とは打って変わり発泡酒を啜りながら、何もない宙に視線を据えて明日の事に思考を飛ばす。
 漫ろな気分で考えていると、明日のバイト内容を思い出す。

「配達か。気ぃ遣うな」

 彰伸が勤めているアルバイトの中では時給は高い方だが、なにより届け先に注意を払う仕事だ。
 段ボールの表面が少し傷ついているだけでクレームを寄越す客もいるのだ。それもその傷は大抵、彰伸が運ぶ前からついている傷ばかりだ。
 彰伸自身が梱包しているわけではないのだが最終的に届けた者に責任が被りやすく、その点配達は損な役回りの多いアルバイトでもある。
 配達のアルバイトを庇ってくれる社員もいるが、全員がそうでない以上やはり気を遣うのだ。

「クレーム入れるなよ」

 ささやかな訴えを口に出しながら、安酒とつまみを感慨もなく口に入れていく。
 バイトから帰り、一人で晩酌して、眠くなったら寝る、それが今の彰伸の生活だった。
 やがて飲みながら漫然としていると眠気を催し、彰伸は発泡酒の缶をちゃぶ台に置いて床に身を投げ出した。
 とろとろと瞼が重くなってきたその瞬間、彰伸の鼓膜をインターホンの電子音が揺さぶった。

「な、なんだ?」

 唐突なインターホンに瞼が跳ねるように捲れ、眠りに落ちそうになっていた意識が手元に戻ってくる。
 彰伸は緩慢に起き上がり、インターホンが鳴った理由を確かめにドアまで近づいた。
 子どもが悪戯するような時間でもないし、訪客や宅配を呼んだ覚えもない。
 何かの勧誘だったら断ろうと端から決めて彰伸はドアを開けた。

「……は?」

 ドアの外に立つ人物に彰伸の頭にあった考えは全て疑問に置き換わった。
 目の前には皺のないセーラー服姿をして肩口で切り揃えられた黒髪が清楚な印象を与える女子学生が真顔で佇んでいた。
 女子学生を訝しげに眺めていると、女子学生の方から口を開いた。

「元プロ野球選手の宮下彰伸選手よね?」

 女子学生からのほぼ素性を言い当てている問いかけに、彰伸は遅ればせながら警戒心を抱く。

「そうだが、なんで俺の居場所を知ってんだ。それとお前誰だ?」
「ただのいちファンよ」

 平然として答える女子学生に、彰伸は厄介な雰囲気を感じ取り拒絶するためにドアノブに手を伸ばす。

「俺が宮下彰伸だって調べはついてるんだろうから否定はしない。だが帰ってくれ、元プロ野球選手だろうが今はプライベートだ、邪魔しないでくれ」

 謝絶を言い渡して顎でアパートの階段へ差し向ける。
 しかし女子学生は引き返す様子はなく、足元に置かれたリュックから幾つかの物を取り出した。
 彼女がリュックから出したのは、かつて彰伸がサインした色紙、抽選でしか貰えない彰伸のサイン入りユニフォームで、彰伸は嫌な予感を覚え思わず身を引く。

「ほんの一部だけれど、これで私がファンだってことを証明できるでしょ」
「サインは何枚も書いてる。転売されたやつを……」

 反論しながらサイン色紙をつぶさに見ると、彰伸のサインの下に小さく「しおりちゃんへ」と宛名まで書き残してある。
 彰伸がサイン色紙の真偽を見定めている間に、女子学生は彰伸が身を引いたことで生まれた隙間から部屋の様子を覗く。
 しおり、という名前を彰伸は記憶から呼び起こそうとするが思い出せず、サイン色紙を指差して女子学生に尋ねる。

「お前、しおりっていうのか?」
「ええ。黒田栞よ」

 女子学生は名乗り、彰伸の返答を待つような顔をするが、生憎彰伸は思い出せず、そうなんだ、とだけ返した。

「ファンだったのはわかったし、俺が宮下彰伸だってことも認める。でも今はプライベートなんだ、帰ってくれ」

 これ以上の問答は受け付けないという意思表示で、彰伸は丁重に断りを入れた。
 女子学生は何か言いたそうに表情を変えかけたが、彰伸は階段の方向へ腕を振り向ける。
 それでも女子学生は動かず、心配するような顔で続ける。

「部屋の中汚くて、お酒の缶ばっかり。もうちょっと健康に気を付けた方がいいわよ」

 お節介にも説教してきた女子学生に、彰伸の堪忍袋の緒が切れる。

「うるせぇよ、お前は俺の親か。余計なお世話だ帰れ!」

 大人げなくも声を荒げ、女子学生の視線を遮断するように思い切りドアを閉める。

「明日も来るから」

 悪態を吐いて内側から鍵をかける彰伸の耳に、ドア越しで女子学生の声が聞こえた。
 来るな、何様だよ。
 内心で毒づいた彰伸は階段を降りる足音を聞き届けてから、酒の匂いが広がる部屋の中に戻った。
 そのあと彰伸はほろ酔い気分のまま床に身を投げ出して寝付いてしまった。