眼球に針が近づいてくる。
革ベルトで固定された足首が抜け出そうと藻掻き、革ベルトが軋む音を立てる。
執拗に消毒された瞼から匂う消毒液が鼻孔を擽り、吐き気を催す。
鉗子で見開かれた眼が、乾燥と近づく痛みに耐えきれず啜り泣く。
吐息が乾いている。
針の先端を見失い、瞳孔が四方を向く。
角膜に先端が触れた。
「痛っ、痛いっ!やめて!お願い!先生、やっぱり私には無理です!」
針が角膜に触れている。
身を捩らせても、痛みから逃げられない。
織畑先生が深く溜息をつく。
「伊織さん、この工程を乗り越えなければ、不安障害や恐怖症は克服できません。それはあなたも同意の上のはずです」
鉗子が外される。
瞬きを繰り返す。必死に鼓動を押さえ込む。
「分かっています、頭では分かっているんです。けど…」
まだ、針が触れた感触が残っている。
「まあ、この施術には慣れが必要ですから。これから徐々に慣らしていきましょう。あとはアンケートを書いていただければ、今日の施術は終了です」
先生の言葉に安堵する。
これは正しい療法なのだ。
帰ろうと背を向ける瞬間、壁に貼られた「おくすりじょうずにのもうね!」の壁紙が目に入る。
「あの、先生。何か処方をしていただけないでしょうか?一人の時に発作が抑えられなくて」
「処方ですね。伊織さんがご希望であれば、適切な薬があるんですよ」
先生が引き出しから複数枚の束を持ち出し、診察室の机に広げる。
「エリフィナという国外試験段階の新薬でね。不安障害やPTSDの新規治療薬なんだ。まあ、簡単に言えば恐怖記憶を弱める物だ」
そう言いながら、織畑先生が包装された錠剤を書類の束の上に置いた。
半透明な錠剤が、「ELF-3」と記載されたブリスターパックに七錠個包装されている。
内部に微細な白い粉末が入っており、半透明の膜が診察室の蛍光灯の明かりを受けて僅かに濁って見える。
「エリフィナ、ですか」
「一日に三度、食後に水と飲み干します。軽食でも良いので、事前に何か口にしてから摂取する様にしてください」
後方で控えていた看護師が、処方箋を持ち電話をかけ始めた。
「分かりました。あと、この薬に副作用はないのでしょうか?以前、別の薬で酷い吐き気に襲われて…」
衆目を浴びる中で嘔吐した際の恐怖が蘇り、両腕に鳥肌が立つ。
「ああ、伊織さんの嘔吐恐怖はそこから来ているのですね。大丈夫です、多少のリバウンド症状はありますが、嘔吐や頭痛などの身体的反応はありません」
「そうなんですね、安心しました。これで少しは楽になると良いのですが」
大丈夫ですよ、根気良く治療して行きましょう、と言う織畑先生に何度も頭を下げ、薬を受け取り帰路についた。
地下鉄には乗れず、通院だけで徒歩で往復6キロの距離を毎月だ。
鋏や紙切れを目にする事も出来ない。
どちらも私の身体を切り刻み、切りつけるのではないかと身体が竦むのだ。
歩道橋が近道だが、崩れ落ちるのではと恐れていつも遠回りしている。
早く、早く家に帰りたい。
外には不安の種が多すぎる。
エリフィナを摂取しなくては。
普段、外出中の嘔吐を避ける為、胃に何も入れずに晩ご飯だけの一日一食にしており、外食も禁じている。
買い置きのヨーグルトを口にし、水道水をコップに溜める。
これでやっと、症状が緩和する。
包丁に怯えずに料理が出来る。
待ちきれず、ブリスターパックから錠剤を取り出し、手が止まる。
しかし、どこまで緩和されるのだろうか。
今まで何を試しても、不安障害は快方に向かわなかったではないか。
いや、あれだけ親身に見守ってくださる織畑先生を疑うような事は良くない。
恐る恐る舌に乗せ、水道水を流し込む。
何も変わらない。
どこかで、劇的な変化を望んでいた。
違う人間に生まれ変わるのだと。
結局はただのプラシーボで、今まで何度も処方されてきた薬と変わらない。
今朝の針の先端が迫ってくる怖気が、肌に張り付き離れない。
もう一錠、飲んでしまおうか。
織畑先生はここにはいないのだから。
恐る恐る舌に乗せ、水で一気に流し込む。
苦みが口蓋に広がる。
いや、苦みではない。
舌の感覚がずれている。
味覚が半秒遅れて届く。
金属的な何かが喉を降りていく。
数秒後、心臓の鼓動が聞こえた。
いつもより、ずっと大きく。
ドクン、ドクンという音が、頭蓋骨の内側で反響している。
まな板の上の林檎が妙に鮮明に見える。
赤が、赤すぎる。
今なら、もしかしたら。
徐ろに席を立ち、ゆっくりと包丁を手に取る。
ゆっくりと右手首を返し、切っ先を目に向け近づける。
数センチの距離になり、今朝の針の先端の感触を思い出す。
試してみたい衝動が抑えきれない。
思い切り手を振りかぶり、振り下ろした。
ピンポーン。
訪問者に邪魔され、手元が狂い、眼球を外した。
「伊織?いるんでしょ?あたしだけど」
なんだってこんな時に。
一番会いたくない時に限っていつもこうだ。
ガチャガチャとドアノブを揺らす音が煩わしい。
慌ててドアチェーンをロックし、僅かにドアを開く。
「…何?今、忙しいんだけど」
「母親に向かってその口ぶりは何よ?早くこれ開けなさいよ」
再度ガチャガチャと騒ぎ立てられ、仕方なくドアチェーンを外した。
お隣さんにどう思われるか分かったものではない。
「相変わらず部屋は汚いし、あんたまた太ったんじゃない?」
「見苦しいから早く痩せなさいよ。あたしまで色眼鏡で見られるでしょ」
まただ。
私が何故、醜形恐怖になったのかまるで分かっていない。
「それより、なんで連絡もせずに来たの?いつも言っているのに」
「あんたさあ、最近投資積み立てしてるでしょ。それなのに、あたしに何の連絡も寄越さないんだから」
「ねえ、これ何?痩身薬かなんか?無駄遣いするならあたしにちょうだいよ」
母が雑にエリフィナの外袋を取り上げ、薬が散らばり、啓蒙の葦のパンフレットが床に落ちた。
「啓蒙の…これ何て読むのよ?なんか怪しい宗教じゃないでしょうね」
「母さんには関係のない物だから」
慌てて薬をかき集め、母の手からパンフレットをもぎ取る。
煙草に火を付けた母が、私の目に向かって煙を吐き出す。
「あんた、あたしに口答えすんの?いつからそんなに偉くなったのよ?」
煙草を口から離し、私の左腕をがっしりと掴んだ。
夏でも長袖を選び、必死に隠している腕の根性焼きの跡はまだ消えていない。
母が口角を上げ、煙草が当たるか当たらないかという距離で手を揺らす。
途端に、母を驚かせたいという考えが頭を染め上げた。
右手で母の手を押さえつけ、思い切り火種を押しつけた。
ジュッ!
「ちょ、ちょっと!何してんのよ!」
肉が焼ける痛みで手が震え、脂汗が額に滲むが、恍惚を抑えきれない。
母の化け物を見るような視線が、心地よくて更に強く押しつける。
快感に溺れる私を見て、母の目に恐怖が宿る。
もっと、もっと欲しい。
焦燥を抑えきれずに煙草を捨て、母のライターを掴み取り、舌を出す。
ライターを近づけると、舌が熱を持ち、歓喜に打ち震える。
「やめなさい!」
母に突き飛ばされ、ライターを取り上げられる。
母の息は荒く、目を見開いている。
「何よ。今、良い所だったのに。よく母さんが私にしてくれたじゃない。今更、母親面しないでよ」
普段なら決してこんな事は言えない。
だが、言葉が口から溢れて止まらない。
「…気持ち悪い。やっぱり、あんたなんか産まなきゃ良かったわ」
母が笑いが漏れた私を睨付け、家の戸を荒々しく開け放った。
私は床に倒れ込み、笑い出す。
目を閉じて、高揚感に浸る。
何年も感じていなかった爽快感が身体を満たした。
***
心臓の鼓動がやけに早い。
強い不安と動悸に襲われ、飛び上がる。
いつの間にか床で寝てしまっていたようだ。
いや、それよりも。
強すぎる吐き気に耐えられず、トイレに駆け込む。
嘔吐への拒否感で生理的な涙が滲む。
覚束ない足取りで居間の扉を開き、足が止まる。
帰ったはずの母がいる。
棒立ちし、アイロンを持っている。
足が勝手に後退する。
母はよく、躾としてアイロンを持ち出していた。
窓は閉め切っているというのに、震えが止まらない。
歯が噛み合わずに何度も音を立てる。
母は今よりもずっと若く、美しく見える。
「お、お母さん。私、さっきはその」
母は何も言わずに距離を詰める。
「ごめんなさい、ごめんなさい。私、ごめんなさい!」
母が無表情で私の肩を掴み、私の舌を引き出し押さえ込んだ。
ジューッ!
「あああああ!」
舌が熱したアイロンで焼かれる痛みで気を失いかける。
味蕾が焼け焦げ、アイロンが発する熱気が口蓋に充満する。
何度も必死に母の指を噛みちぎろうとするが、母は微笑んでいる。
「いーちゃん、ママはちゃんと、ここにいるよ」
舌は腫れ上がり、鉄の味がする。
「ああっ!」
母が手を引っ込め、所々出血する舌を思い切り噛み切りそうになり、衝撃で嗚咽する。
母を突き飛ばし、靴も履かずにアパートを飛び出す。
道行く通行人が立ち止まり、私を凝視している。
赤子も老婆も、目を見開いて私を射貫いている。
「見ないで!誰も見ないで!」
水膨れで腫れ上がる舌が咽頭を圧迫し何度も咳き込む。
「早く消えろ、目障りだ、早く消えろ」
呪詛の様な声が耳を劈き、立ち止まる。
立ち止まり目を見開いた人々が一斉に呪詛を放つ。
「お前は誰からも愛されない、皆がお前を疎んでいる」
「うるさい、うるさい!もうやめて!」
両耳を強く押さえ込み、目を見開く。
声は、内側からしている。
「いーちゃんは悪い子、皆から嫌われるのよ」
母が目の前で微笑んでいる。
「いーちゃんは悪い子、いーちゃんは失敗作」
通行人が私を中心に円を囲み距離を詰めてくる。
「違う、私は」
「あなた、大丈夫?救急車呼ぼうか?」
横を見ると老婆が不安げに私を見ていた。
「助けてください!この人たちおかしいんです、母が、母がいるんです!」
老婆は目を白黒させ、言葉に詰まっている。
「この人たちって、私とあなた以外には誰も…」
「声がするんです!頭の中から、ほらまた!聞こえないんですか?!」
老婆の襟元を掴み必死に訴えるが、老婆は何も言わない。
いや、何かをブツブツと言っている。
「雨宮伊織は1997年4月15日産まれ。母の小夜子に疎まれながら産まれました。母の小夜子は雨宮伊織を忌避していました。雨宮伊織は」
通行人がスマホを取り出し、私を撮影し始める。
「やめて!誰か!助けてください!」
声を荒げる老婆を力の限り突き飛ばし、交差点を突っ切ろうとしてアスファルトに転倒した。
「おい!どこ見てんだ!死にてえのか!」
乗用車が急停止し、ドライバーが声を荒げる。
喧噪が耳を劈き、必死に耳を押さえ髪を振り乱しながら駆け出す。
どこに向かっているのかも、今自分がどこにいるのかも分からない。
どこを見ても母が追いかけてくる。
私を、雨宮伊織を殺そうとしている。
景色が歪み、呪詛は数を増し、私を内側から食い尽くす。
転倒した際に擦りむいた膝が、生き物の様にどくどくと脈打ち鼓動している。
無我夢中で走り続け、電柱に衝突し、気を失った。
「雨宮さん、聞こえますか?」
とても落ち着いた声音だ。
昔、幼稚園でゆきの先生の温もりの篭った優しい手の触感を思い出す。
「伊織ちゃん、ママが迎えに来るまで、先生が絵本を読んであげるね」
恐怖症も不安障害もなかったが、友達と言えるのはゆきの先生だけだった。
なぜ、今になって、こんな記憶が思い起こされるのか。
母は、その日は迎えに来なかった。
「いーちゃんはね、ママに嫌われているんだよ」
いつか誰かがそう言っていた。
「雨宮さん、織畑です」
重い瞼を上げると、織畑先生が心配そうにこちらを覗いていた。
「あ、先生…あの、私、どうして」
圧迫感を感じず、舌に触れるが、水膨れや出血した痕はない。
「突然の事で驚いたろう。伊織さんが倒れていたのが、僕が昔在籍していた病院の手前だったんだ。身元確認で財布を調べたら、僕の名刺が出てきてね」
そうだ、私は気を失ったのだ。
母が訪ねてきて、煙草に火を付け、それから。
自分の行動を思い出し、寒気に襲われる。
あれは私ではなかった。
「伊織さん、もしかしたら、エリフィナを摂取したんじゃないかな」
織畑先生の言葉を聞いてはっとする。
そうだ、私は母が訪ねて来る前に、エリフィナを摂取していた。
「で、でも、先生はリバウンド症状はないって、そう言ってましたよね」
織畑先生がカルテに目を通し考え込む。
シーツを剥がしズキズキと痛む膝を見ると、簡易な処置が施されていた。
「伊織さん、これは...予想範囲内の反応です」
織畑先生がカルテに目を通し、何かを書き込む。
「安心してください、これから好転して行きますから。伊織さんは今、かなり良い方向に向かっています」
「最初にここに来られた時から見ると、大幅に進展していますよ」
啓蒙の葦に出会った当時の私は、薬や通院に使うお金も職もなく、不安障害や恐怖症に苦しむだけの毎日だった。
家事も出来ず、溜まりきった食器を見て見ぬ振りをしながら、ダラダラと怠惰にスマホを見ていて、ある迷惑SMSが届いた。
「強すぎる不安に苦しんでいませんか?心安らげる毎日を、あなたに」
最初は宗教か何かの広告だと思った。
しかし、心安らげる毎日という言葉に引き寄せられ、オンラインチャットのリンクを開いた。
「そう、なんですね。では、エリフィナを飲み続ければ、私は救われるのですね」
織畑先生は、何も言わずに頷いた。
簡易な検査の結果、一日限り安静に入院する指示が下りた。
三階の森セクションの二人部屋の一室が用意され、必要な備品は全て用意されていた。
啓蒙の葦は症状の程度で、林、森、森林とグループ化されている。
「神野さん、今良いですか?今日一日だけ同室する雨宮伊織さんです」
看護師の崎本さんに案内され、背を向け寝転んでいる神野さんに頭を下げる。
「あ、雨宮です。一日だけですが、どうぞ宜しくお願いいたします」
神野さんは何も言わずに、顔だけこちらに向けた。
視線が、私の額から顎まで、ゆっくりと移動する。
「そうですか」
それだけだった。
神野さんは長くて黒い髪がとても印象的なふくよかな女性で、所作は落ち着いて見える。
けれど、あの視線。
まるで何かを確認するように、私の輪郭を辿っていた。
彼女はどのような症状に悩まされているのだろう。
不躾に内情を探るのは無礼なので、口をつぐんだ。
一日限りとは言えども、赤の他人と一夜を過ごすのは必要以上に神経を使う。
なるべく交流はせずに、淡々と過ごして早く家に帰るのが第一優先だ。
「ねえ、あなた、担当の先生は誰なの?」
突然話しかけられ、肩が上がる。
「あ、ええと、あの、織畑先生です」
織畑先生の名前を聞いた神野さんは、あからさまに顔を顰めた。
「やっぱりね。椎名さんもそうだったもの」
見知らぬ名前が話題に上がり、困惑する。
「あの、椎名さんというのは…」
「あなたの前にここにいた方よ。あなたには関係ないわ」
それだけ言って、神野さんは再度背を向け沈黙してしまった。
私の前にいた人、というのは、神野さんの同室だった方だろうか。
いや、それよりも。
織畑先生の名前を出した時の神野さんの反応がずっと引っかかっている。
あんなに良い先生でも、苦手な人はいるのだな。
そしてそれは恐らく、私が神野さんに対し抱えている感情と同じ物だろう。
その後神野さんとの会話はなく、私はひたすら積読していた文庫本を読み漁り、ふと気がつくと夜が更けていた。
神野さんを見ると、すうすうと寝息を立てながら眠りに就いている。
「神野さん、身体の清掃のお時間ですよ」
崎本さんが神野さんを優しく起こし、カーテンを引き私の視界を遮断した。
私も早く用意をしてさっさと寝てしまおうと思い、備え付けのシンクに洗顔用具を置いた。
顔を上げて鏡を見て、言葉を失った。
鏡は執拗にシーツと枕で覆われ、シーツはシンクから床に垂れ下がっている。
これは、神野さんが覆い隠したのだろうか。
思えば、この部屋には一切鏡が置かれていない。
シーツに邪魔されシンクが使えないので、二部屋先の手洗い場に向かう。
顔を洗い歯を磨き部屋に戻ると、カーテンは開かれ崎本さんはいなかった。
先ほどの鏡の件が気になるが、それを訪ねるという事は、私も根掘り葉掘り探られるという事だ。
今日はさっさと寝てしまおうと心に決め、売店で購入した化粧水と乳液を取り出した。
端に置いた乳液を取ろうとして、化粧水に肘が当たり、床に落ちた。
ガタン!
物音が耳を劈き、慌てて視線を向ける。
化粧水が床に落ちた音ではない。
隣を見ると、神野さんがベッドから飛び起きていた。
化粧水は衝撃で割れ、中身が床に広がっている。
硝子の破片が、蛍光灯を反射して光っていた。
神野さんの視線が、破片を追う。
一つ、また一つ。
瞳孔が、破片を捉える度に収縮する。
彼女の呼吸が浅く、速い。
畏怖を瞳に宿らせたまま、何度も、何度もナースコールを押し続けた。
すぐに崎本さんと織畑先生が慌てて部屋に駆け込んでくる。
「が、硝子が割れてるの、早く片付けて!」
崎本さんがゴム手袋をし、慣れた手つきで硝子の破片をかき集める。
「あ、あの、私、知らなくて、肘が当たってしまって」
明確に自分に落ち度がある状況に耐えられず、息が上がる。
「大丈夫ですよ、伊織さん。まずは落ち着いて。吸って、吐いて」
織畑先生の指示で必死に深呼吸をして鼓動を落ち着かせる。
苦しい、早く、薬が飲みたい。
エリフィナは以前に処方された分がまだリュックサックに入っている。
織畑先生も崎本さんも、それは知らない。
私は何度も何度も神野さんに頭を下げ、乳液を預け気まずい空気の中床に就いた。
今日このまま眠りに就く事は出来そうにない。
水ならある。
前回少し効き過ぎたのは、二錠摂取したからだ。
今日は用量を守れば、この不安の発作も落ち着くはずだ。
神野さんを起こさないように音に気を遣いながら、リュックのジップを開ける。
小型のピルケースに分割されたプラスチックのつまみを開き、一錠飲み干す。
何も変わらなくてもいい、ただ今夜を穏便にやり過ごす事が出来れば。
変化は感じられないが、これで漸く眠りに就けると安堵し目を閉じた。
「雨宮さん、起きて」
「椎名さんの事、知りたいでしょう?」
神野さんの囁き声で目を覚ます。
部屋の明かりは消灯していて、表情は伺い知れない。
「あの…椎名さんの事って、どういう」
辺りを警戒する神野さんに合わせ、私も声を潜める。
「椎名さんに何があったか知りたくないの?私が案内してあげる」
そう言い歩き出す神野さんに着いて、慌てて部屋を後にする。
廊下はどこも消灯しており、暗所の中で非常出口の緑の明かりだけが不気味に光を放っている。
神野さんは懐中電灯も持たずに迷いなく進み、階段の手前で立ち止まった。
中央の柱には、「ここより森林ゾーン 関係者以外立ち入り禁止」と書かれた張り紙が貼り付けてあり、ロープが厳重に張られている。
「ここから先に全ての答えがあるの」
神野さんは多くは語らず、ロープを潜り抜け、階段を上り始めた。
「あ、あの、いいんでしょうか。立ち入り禁止とあるんですけど」
私の声は聞こえていないように、彼女からの返答はなかった。
階段を上がりきると、更に上の階層がある事に気づいた。
そこにはロープではなく、カードリーダーが備え付けられた、重々しい鉄の扉が私の行く手を塞いでいた。
森林の上があるのかとも考えたが、立ち入ってはいけない禍々しい雰囲気に気圧され、慌てて背を向けた。
「あの、どうして私に椎名さんの事を教えてくださるんですか?」
「あなたが未だに織畑を信じているからよ」
その一言だけが廊下に反響した。
森林フロアは、不気味なほどの静寂に包まれている。
個室の数は森フロアよりもずっと少なく、それぞれの部屋が鎖に繋がれた南京錠で施錠されていた。
職員や患者の気配は感じられない。
怯えながら神野さんの後ろを着いていくと、戸が開け放たれた空き室が目に入った。
「椎名さんはここに幽閉されていたのよ」
神野さんの声は抑揚がなく、無機質だ。
空き室の内部は人がいた形跡が全くないほど整理整頓されている。
けれど、何か違和感がある。
空気が、冷たい。
「幽閉って…椎名さんは一体、何で苦しんでいたんですか?」
神野さんが無言でゆっくりとこちらに首を向ける。
その瞬間、背後で何かが動いた気がした。
振り返る。
誰もいない。
「オーバードーズよ」
神野さんの声が、遠くから聞こえる。
「でも失敗じゃない。恐怖が消えた成功例だったの」
床に何かが散らばって見えた。
半透明の錠剤。
白い粉を抱えた小さな粒。
エリフィナ。
視界の端でまた何かが動く。
気づいた時には、一歩下がっていた。
「あなたと同じ。あなたと同じ道を辿ったの」
「椎名さんは、どうなったんですか」
神野さんの口角が上がる。
「雨宮さんはどうなったと思う?この森林フロアに幽閉されて、どうなったと思うの?」
神野さんが空き室に足を踏み入れる。
私は棒立ちしたまま、足が動かない。
「彼女はここで───」
神野さんの声が、止まる。
いや、止まったのではない。
別の声に、塗り替えられた。
低く、掠れた、錠剤を噛み砕いたような声。
「───朽ち果てていったのよ、たった一人で」
「私はね、ずっとエリフィナを処方されていたの、あなたみたいに」
女性が、いや、椎名さんが私の襟元を掴む。
「逃げて。今ならまだ間に合う。織畑から、ここから逃げるの」
「私みたいになりたくないでしょう」
心臓がどくんと高鳴り、何かが頭を擡げる。
この女は嘘を言っている。
正しいのは啓蒙の葦であり、織畑先生だ。
思考が憤怒一色で染め上げられ、椎名さんの首を思い切り締め上げる。
「…あなたは、まだ、間に合う」
全て虚言だ、まやかしだ!
彼女の白く細い首が柔く、あまりにも脆い事に気づき、頬が熱を持つ。
今、彼女の生殺与奪の権を握っているのは、エリフィナではなく私だ。
椎名さんの目に僅かに悲壮の色が浮かび、両手の力をなくし崩れ落ちた。
「雨宮さん!」
はっと我に返る。
声の主は空き室の懐中電灯を持った神野さんだ。
今まで首を締め上げていた椎名さんはいない。
目の前は空き室で、森林フロアだった。
首を絞める感触が、まだ残っている。
自分が何に変容しようとしているのか分からず、呆然とする。
「どうしたの?突然立ち止まっていたから」
「いえ、その…何でもないんです。椎名さんの事を考えていて」
心臓が焦燥で騒がしく鼓動している。
「ごめんなさい、付き合わせて。疲れてるわよね」
神野さんに背中を擦られながら病室へ戻り、布団を頭から被る。
あの時、誰かの声が聞こえた。
声はまた内側からしていた。
明日、織畑先生にしっかりと問い正そう。
身体が疲労で虚脱している。
睡魔に抗えず、重い瞼を下げた。
翌朝目覚めると、神野さんの姿はなかった。
彼女がいたベッドは綺麗に清掃され、跡形もない。
慌ててナースコールを押すと、織畑先生が心配そうに戸を開けた。
「先生、あの、神野さんはどこに」
織畑先生は詰め寄る私に全く臆していない。
「ああ、神野さんですね。そうか、ご挨拶がまだだったね」
少し待っていてくださいと、先生が病室を後にした。
やきもきと落ち着かず、無駄に行ったり来たりを繰り返す。
数分後、先生が病室の戸を開けた。
神野さんが車椅子に乗せられ、柔和な笑みを浮かべている。
完全に毒気が抜けており、身体が硬直する。
右手に所々赤が滲んでいる包帯が巻かれており、視線が奪われる。
「神野さんは今朝、試験で最良の結果を出してね。次の段階に進む事になったんだ」
先生が神野さんの肩を優しく撫でる。
「彼女は今朝、自らの手で鏡を割ることができたんだ」
「とても朗らかな表情だろう。伊織さんもこの状態を目指して行こう」
これは、朗らかという表現を逸脱している。
昔、まだ優しかった母と怖い物見たさでホラー映画を見た事があった。
主人公は不安障害を患う女性で、医療の力を頼り主治医に泣きついた。
とても臆病で神経質だった女性は、手術室を出た後のシーンでは、人格が変わったように穏やかな女性になっていた。
あの施術は何と言ったか。
「さあ、神野さんはこれから忙しいのでね。伊織さんも退院手続きがあるでしょう」
神野さんは一言も発さず、織畑先生と病室を後にした。
違和感が拭いきれず、立ち尽くす。
あれ程までに鏡を恐れ、織畑先生への警告を発していた彼女と同一人物とは思えない。
試験を突破したというのはどういう意味だろうか。
徐ろにシンクを覗き込み、絶句する。
鏡は叩き割られ、破片が散乱している。
シンクには微量の血痕が付着している。
赤の滲んだ包帯が頭を過ぎる。
森林フロアには、椎名さんがいた空き室があった。
織畑先生が発した試験という言葉と、神野さんの柔和な笑みが相反し、背筋を冷たい刃で撫でられたように立ち尽くした。
崎本さんと織畑先生にお礼を言い、会計を待ち次の診察の予約を入れた。
薬が切れた今の私は、エスカレーターにすら乗れない。
思考がクリアになり、不安の靄が消え去り冴え渡るあの全能感を、もう一度味わいたい。
それと同時に、募る不安は私を内側から侵食している。
虚実が入り交じり、何が真実なのか不明瞭だ。
もう神野さんには頼れないという心細さが頂点に達し、呼吸がままならない。
この不安を消す方法は、たった一つしかない。
待ちきれずに階段を駆け下り、タクシーを拾った。
帰宅してすぐに、スプーンを二つ取り出し、錠剤を挟み込む。
圧力で砕け、粉末になった二錠を水道水で流し込む。
これで通常よりもすぐに効き目が現れるはずだ。
脱力し、シンクの壁にへたり込む。
***
おかしい。
既に一時間半は経ったというのに、全く不安が和らがない。
外から聞こえる笑い声が私を嘲笑っているという考えが頭から離れず、カーテンを閉めきる。
気を紛らわそうと、ずっと見たかった映画を再生しブランケットに包まると、心地よい微睡みが私を迎え入れた。
「お姉さん、飲み過ぎじゃない?俺の家まで送ろうか?」
大音量のEDMが耳を劈き、頭が割れそうに痛む。
「お姉さーん。俺と一緒にここ出て遊びに行こうよ」
軽い声音が腹立たしく、勢いよく立ち上がるが、足が覚束ず男性の肩に手をついた。
「なんだ、けっこう積極的なんじゃん?」
「…うるさい、どっか行って」
男が何か喚いていたが、気に掛けず押し返す。
呂律が回らず、視界が歪んでいる。
なんとかトイレに駆け込み、鏡を見る。
知らない女性だ。
いや、これは確かに私だ。
髪は緩く巻かれており、いつもより派手な化粧をしている。
そうか、これは夢だ。
映画を見ていてあのまま眠ってしまったのだろう。
これまでずっと、病院と職場以外に外出した経験はなかった。
夜遊びをした事もなく、こんなに着飾った経験もない。
鏡の中の女性は、自信に満ち溢れており、不敵に微笑んでいた。
トイレを後にすると、先ほどの男がすぐ隣で煙草を吹かしていた。
「お姉さん、俺と遊んでよ。少しくらいならいいじゃん」
男が肩に腕を回し、唇を顔に近づける。
普段ならどれほど嫌悪を抱こうとも、雰囲気に呑まれ流されていた。
「しつこいわね。あんたみたいな不細工と私が釣り合うわけないでしょ。目障りだから消えて」
そう言い放ち手を振り払うと、男の顔がみるみる羞恥に染まり、煙草を私に投げつけた。
「調子に乗るなよブス!」
激高した男が反対の手で持っていたグラスを壁に叩きつけた。
私はすぐに飛び散った破片を手にし、臨戦態勢を取る。
男は一瞬目を見開き、すぐに腹をかかえ笑い出した。
無心で更に大きな破片を拾い上げ、そのまま左腕を何度も切りつける。
一度、二度、三度。
痛みを感じ左腕を見ると、切りつけた部分から出血している。
遅れてやって来た痛みで、漸く歪みに気づいた。
途端に周囲の喧噪が明確に肌に伝わる。
「どうして、私、なんで」
破片を投げ捨て、出血が止まらない左腕を押さえ込む。
男がこちらを凝視している。
母と同じ目だ。
化け物を見る目。
───腰抜けが。
───いつもそうだ。何も言い返せない。
───あの時も、母がライターを押し付けた時も、ただ泣いているだけだった。
───お前はまた逃げるのか?
声はあの日の記憶を引き摺り出す。
以前よりもずっと明瞭に響いている。
「すみません、これ、お金置いておくので、すみません」
紙幣を何枚か店員に押しつけ、逃げるように店を後にした。
啓蒙の葦は、今も開いているだろうか。
「伊織さん、その腕はどうなされたのですか」
啓蒙の葦に着いてすぐに緊急治療室に案内されたが、幸い簡易な処置で済んだ。
「先生、頭の中で声がするんです。私が私でなくなるのです」
言いながら涙が滲む。
抑えていた言葉が溢れ出して止まらず、手が無意識に拳を作る。
「私はただ、皆みたいに普通の人になりたいんです。なぜ悪化しているのですか?」
流れ落ちる熱が皺の寄ったスカートに染みを作る。
拳に温もりを感じ、顔を上げる。
織畑先生は微笑んでいる。
「伊織さん、それは、新しい一歩ですよ。悪化だなんてとんでもない。倫理は恐怖が作る幻影です。なので、むしろこれは快方です」
「快方?これがですか?」
先生は感慨深い表情で首を縦に振る。
「恐怖は扁桃体の問題ではない、むしろ、人間性の中心そのものだ。これは伊織さんだけではなく、我々の勝利への第一歩と言える。とても大きな躍進ですよ」
「これで同じように苦しむ人々をより良く生かせられる。伊織さんはその先駆けとなる存在、まさに希望です」
手に力が込められ、先生の目が潤み出す。
「私が、希望」
「エリフィナの用量を増やしましょう。伊織さんは適合率が他者よりもずっと高い」
「これで処置は終わりましたので、ご自宅で安静になさってくださいね」
織畑先生は興奮気味に言い放ち、どこかへ電話をかけ始めた。
先生に頭を下げるが、その目はもう私を見ていなかった。
会計を済ませ、自動ドアを抜け夜空を見上げると、下弦の月が浮かんでいた。
どこか私に似ていた。
欠けていて完全ではない、光を受けなければ輝けない。
月に手を伸ばしかけて手を止めた。
私は、恒星になりたい。
***
汗をじっとりとかいている。
布団から腕だけを出し、手探りでサイドチェストに置いた体温計を掴み取る。
38.9度。
呼吸が速まる。
枕元で充電していたスマホで「啓蒙の葦 夜間診療 発熱外来」と検索する。
あの距離を歩く気力はなく、マスクを身につけコートを羽織り、地下鉄に足を進める。
雨が激しく、リュックにしまってあった折りたたみ傘を差した。
エリフィナは万が一のため、リュックに入れてある。
駅のホームに近づくと、動悸と息苦しさで目眩がする。
内部は人でごった返しており、必死に人々の肩を押しのけながら発券機へ向かう。
啓蒙の葦がある一之宮までは、乗り換えなしで約15分程で到着する。
治まらない寒気に必死に抗いながら券を購入した。
虚脱した身体を引き摺りながら地下鉄に向かっていた刹那、肥満体の中年男性に勢いよく肩を突き飛ばされた。
「おい!邪魔なんだよデブ!」
弾みで私の手を離れたスマホは、往来する人混みの中で蹴り飛ばされ、画面が激しく損傷していた。
───お前の不利益は、お前が何も言い返せない腰抜けだからだ。
私は踵を返し、ホームを逆走する男の後をつけた。
ホームを出た男は、傘も差さずに鼻歌を歌っている。
すぐ後ろを歩く私には気づいていない。
小分けされたエリフィナを水も飲まずに全て噛み潰して飲み干した。
男は裏道に折れる。
背中が見える。
無防備な首筋。
傘を振り抜いた。
「うあっ!」
男は衝撃で、潰れたような短い呼気が漏れた。
「お前、デブって言ったよな?なあ?鏡見たことあんのか?」
そう言って再度、今度は顔に向けて垂直に振りかぶる私に、男は必死に頭を下げる。
「違う、違う、悪かった。仕事で上手くいかなくて、ムシャクシャしていたんだ!」
両手で顔を庇う男に、更に振りかぶる力を込める。
男の顔に、思い切り振り下ろした。
「警部補さん、正常と非正常って、どこで分別されるんですか?」
警部補の佐々木さんが書く手を止め、こちらに視線を向け溜息をつく。
「雨宮さん、あなた自分が何をしたのかちゃんと分かっていますか?」
「男性が意図的にぶつかってきてスマホが破損したとはいえ、暴力を振るう必要はなかった」
問い詰める言葉に反し、佐々木警部補の瞳は揺れている。
「環境が人格を作るのなら、私達は産まれた時から、同じスタートラインにはいないのではないのですか」
そう言って長袖を捲り、母が焼き付けた愛情の残滓を見せつける。
佐々木警部補は一瞬傷を捉え、すぐに視線を逸らした。
「雨宮さん、事情は分かりました。初犯であるのと、医療機関からの照会もあり、今回は厳重注意に留めます」
佐々木警部補は、最後まで私の問いには答えなかった。
歩道橋の縁に立ち上がり、男の口ずさんでいた鼻歌交じりの足取りで歩く。
正常か異常か、私にはもう、その問いの答えは必要ない。
「そこの君!危ないから降りなさい!」
顔を青くする野次馬に、あの日母に向けた笑みを返した。
早く、早く開いて。
鍵を差し込む時間すらもどかしい。
戸を勢いよく開け放ち、靴を脱ぎ捨てアイロンのコンセントを繋ぐ。
母はいつも、私の目を忌み嫌っていた。
忌まわしい雌雄眼だと、よく嘔吐する振りをしていた。
熱したアイロンを掴み取り、シンクの前に立ち、水垢で汚れた鏡を荒々しく拭き取った。
「お前は本当に醜い、母さんに全く似ていない。醜いアヒルの子だ」
そう言われる度に、私は前髪を伸ばして、嘲笑から目を隠していた。
洗濯ばさみで左の瞼を挟み、固定する。
アイロンを近づけると、熱した蒸気で皮膚が熱を持ち、産毛が僅かに水分で起毛する。
期待と焦燥で右手が震えている。
鼻孔にも熱気が迫り、瞳孔は四方を向いた。
熱気から反射で逃げようとする右手を、左手で上から強く押さえつける。
アイロンの尖った先端が、角膜に触れた。
触れた瞬間、何も起こらない。
痛みも熱もない。
ただ、触れているという事実だけが、異様に鮮明になる。
遅れて、内側で何かが弾ける。
ジューッ!
蒸気が噴き上がり、焼けた臭いが鼻の奥に貼り付く。
次の瞬間、痛みではない何かが、眼球の奥へ入り込んでくる。
それは熱でも刃でもない。
侵入されているという感覚だけが先にある。
逃げ場を探すように、内側を這い回る。
右手が反射で引こうとするが、左手は従わない。
押し付けたまま、微動だにしない。
そこでようやく、遅れて痛みが追いつく。
視界ではなく、頭の内側が赤く染まる。
喉が裏返り、胃液が逆流する。
痛みが神経に届いた瞬間、左手の効力は失われ、右手は虚脱し、アイロンはシンクの縁に音を立て落下した。
生理的な涙が溢れ出し、視界は白濁し滲んでいる。
瞬きを繰り返す度に、何かが擦れ、赤い線が混じる。
焦点が合わないまま鏡を覗き込むと、白目は水を吸った布の様に半透明の膜が膨らみ、うっすらと血管の影が見える。
私は荒い息で確信し、微笑んだ。
啓蒙の葦の受付を通り、待合室を抜け、ノックせずに診察室の扉を開く。
織畑先生はいない。
代わりに小柄な女性が診察室の椅子に背を向け鎮座していた。
「もう、私の忠告は意味をなさないのね」
「それでも、あなたはまだ引き返せる」
私はゆっくりとこちらを振り返った椎名さんの幻影に距離を詰める。
「椎名さん、もういいんです。あなたの役目はとうに終わっている。あなたはエリフィナに適応していなかった」
椎名さんは頑として視線を逸らさない。
「あなたを見ていると、昔の私が過る。弱くて、オドオドしていて、常に誰かの顔色を窺ってばかりいた」
彼女の細く白い首に手を回す───もう、声は聞こえない。
いや、違う。
声はまだそこにある。
ただ、それが私自身なのか、あの声なのか、もう区別がつかない。
「けれどもう、私はそこにはいない」
身体を傾け、全体重をかけ首に力を込める。
酸欠に喘ぐ椎名さんの苦悶の顔が、雨宮伊織の顔に滲んで見える。
後ろの鏡には、恍惚とした表情を浮かべる私が映っている。
椎名さんの口が、まだ何か言葉を探すように震えた。
「伊織さん?今日は予約はなかった筈ですが…」
診察室に戻って来た織畑先生と目が合い、気づくと彼女の姿はなかった。
サングラスを取り、コートのポケットにしまい込むと、露になった私の爛れた左目に先生の視線が釘付けになる。
ペンが床にけたたましく落下した。
「その目は一体」
私は椅子を押しのけ、前のめりになり先生に訴えかける。
「先生、私にはもう、エリフィナは必要ありません。分かりませんか?私は旧い私を打ち捨て、生まれ変わったんです」
先生が慌ててリュックを開き、溢れかえったエリフィナを見て絶句する。
「伊織さん…これ、処方量を遥かに超えて…いつからこんなに」
先生は次の言葉を紡ごうと口を開いたが、無力に閉じた。
「私はもう、神野さんや椎名さんが見た森林を抜けたんです。鉄で封じた先を知る権利がある」
織畑先生の耳元に顔を寄せ囁く。
「連れてってくれますよね」
森林フロアのロープを潜り抜け、無言のままの先生に続き階段を上がる。
あの日、神野さんと見た鉄の扉がその様相を現わし、期待に胸が打ち震える。
織畑先生はキーカードを通すのを躊躇し、躊躇いがちに声を震わせた。
「伊織さん。私は抑制が外れた結果、過度に恐怖を感じてしまう繊細な人々が生きやすくなると信じていた」
先生がカルテホルダーを開き、一枚の記録用紙を取り出した。
そこには几帳面な文字で、何かが書き連ねてある。
被験者03(神野)
試験通過。人格変容顕著。継続観察。
被験者17(椎名)
過剰投与により森林へ移送。経過不良。
被験者28(雨宮)
適合率92%。前例なき数値。
先生の指が、最後の一行で止まる。
次段階への移行───倫理審査を経ずに実施すべきか。
「私は、正しいと思っていた」
先生が呟く。
「恐怖に縛られて生きる人々を、解放できるのだと」
カルテが、僅かに震えている。
「でも、伊織さん。あなたを見ていると分からなくなる。これは解放なのか、それとも───」
「伊織さん、今のあなたには声が聞こえているのですか」
拳を握る先生が振り返り、私の白目が腫れ上がり液体を垂れ流す左目に視線を向ける。
その目は畏怖に染まっている。
問いには答えずそっと微笑み、織畑先生の背中を優しく擦る。
「先生は私を、希望だと言いましたよね。この成果は、本来先生が望んでいた快方なのではないのですか?」
可笑しくてつい、乾いた笑いが漏れる。
「伊織さん。あなたは…確かに希望でした」
織畑先生の声が震える。
「けれど、私が望んでいた希望は、こんな…」
言葉が途切れる。
先生がカードを通すと、鉄の扉のロックが解除された。
階段が続く壁の上部に「樹林フロア 関係者以外立ち入り禁止」と刻まれている。
以前の私なら、背を背けていた。
扉の向こうから、何かが私を呼んでいる。
階段を登りきると、両側にエアシャワーを備えたクリーンルームの前室があった。
織畑先生の指示に従い、フード付きのクリーンスーツに着替え、マスク、フェイスシールド、二重手袋を順に装着していく。
全身を清浄装備で固め、入室の準備を整えた。
入室するとエアシャワーが作動し、壁面のノズルから強い気流が全身に吹き付けられる。
スーツの表面に付着した塵や微細な粒子が剥がされ、空気循環とともに吸引されていく。
数十秒の風圧が続いた後、漸く静寂が戻った。
さらに内扉の前で手指のアルコール消毒が行われ、最終確認として装備の密閉状態がチェックされた。
その先の樹林フロアは陽圧で管理された清浄区域で、外部よりもわずかに高い気圧が保たれていた。
先生は何も言わずに歩みを止めない。
廊下の先、奥まった部屋には無影灯に照らされた手術台が据えられ、心電図モニターや輸液ポンプが静かに稼働していた。
手術器具は器械台の上に整然と並べられている。
入口のプレートには「神経外科処置室」と記載されていた。
電子カルテと連動した画像診断モニターが、無機質な光を放っている。
「伊織さん、このモニターを見てください」
画面には脳のMRI画像が映し出されている。
扁桃体の部分が、赤く着色されている。
「これがエリフィナ投与前の、伊織さんの脳です」
織畑先生が画面を切り替える。
同じ位置に、今度は青い着色。
そして、その周囲───前頭前皮質の部分まで、薄く青が広がっている。
「エリフィナは扁桃体の過活動を抑制します。恐怖反応を弱める。それ自体は成功していた」
先生の指が、青く染まった前頭前皮質を指す。
「しかし、同時にここまで作用してしまう。理性や倫理的判断を司る部位です」
「つまり……」
「恐怖は消えます。しかし、それと引き換えに、人が人であるための制御も失われる」
「私は気づいていた。神野さんの時に、椎名さんの時に。それでも、伊織さんに処方し続けた。いつか希望に導けると信じていた」
そこまで言い切り、織畑先生が項垂れる。
「贖罪になるのかは分からない。それでも、僕はこの新薬を完成させたい。エリフィナの本来の効能である、恐怖を和らげる為の新薬だ」
エリフィナが、欠陥だった?
私は項垂れる先生の頬にフェイスシールドの上からそっと手を添える。
「先生、私は恒星になれたのです。エリフィナは、そしてその新薬は世界に広めるべきです。躊躇う理由など、どこにもありません」
織畑先生は言葉を失っている。
「…実は、新薬の製薬にあたって、一つ欠けている物があるんだ。しかしそれは、倫理的に許される事ではない」
「先生、私は新薬の為ならこの身を差し出します。先生は本当は心を決めている。だから、私をここまで連れて来たのでしょう?」
「恐怖を克服した私にしか出来ないと分かっていた」
織畑先生が指先を私の左目に恐る恐る近づける。
「先生、人々を救う恒星になりましょう」
僅かに震えていた先生の指先の震えが、止まった。
私の身体はすでに固定され、頭部は専用のフレームによって微動も許されない。
モニターには脳波と循環情報が淡々と流れ、織畑先生は最小限の動きで配置についた。
器械台の上には、精密に並べられた手術器具が無機質な光を反射している。
誰も言葉を発さないまま、準備だけが淡々と進んでいく。
先生は言葉を発しない。
私も言葉を必要としない。
鎮静剤が投与されると、数秒のうちに意識はぼやけ、視界の輪郭が崩れていく。
続けて全身麻酔が導入され、私の意識は暗闇に落ちた。
***
三週間後、私は経過観察での通院を命じられ、自宅に帰宅した。
鏡を見ても、何も感じない。
左目は眼帯で覆われているが、痛みはない。
というより、痛みという概念が遠い。
包丁を握り、切っ先を自分の手のひらに向ける。
何も起こらない。
恐怖がない。
それどころか、何もない。
包丁を滑らせ、林檎の皮を剥き、母の連絡先の呼び出しボタンを押す。
4コール目が鳴り終え、母が応答した。
「お母さん、伊織だけど、実は謝りたいの。これまでの、私の反抗的な態度について。お母さん、私変わったの」
「何よ、今まで音信不通でいきなりお母さんだなんて」
母の声音には疑念が混じっている。
「お母さん、私、本音で話しているのよ。本当に申し訳なく思っているの。顔を見て謝りたいから、今から来てくれないかな」
1時間半後、買い物袋を抱えた母が呼び鈴を押した。
母は本当に表情豊かだ。
疑念や畏怖、嫌疑など、一つの指標では決して測れない。
「来てくれてありがとう。今、林檎を剥いた所なのよ」
母は何も言わずに食卓の椅子に腰を下ろした。
「煙草、吸ってもいいのよ。気を遣わないで」
「煙草は辞めたわ。あんたの顔思い出して、虫唾が走るのよ」
母の言葉の意味は分かっている。
母の瞳が揺らいでいる事も。
「お母さん、電話口でも話したけれど、私はずっと、お母さんに反抗的だった。親の気持ちも考えずに、どこまでも無神経だったよね」
母は食卓を見つめ、視線を合わさない。
「こんなに出来損ないだった私を、ここまで育ててくれてありがとう。お母さんの理想の娘にはなれなかったけど、私はお母さんの子供に生まれてこれて嬉しいの」
母の背が僅かに震えている。
母の皺だらけの手をそっと握る。
「私は生まれ変わったのよ。今度は私が育ててもらった恩を返すわ」
そう言って、啓蒙の葦のパンフレットと、ブリスターパックに個包装されたエリフィナを差し出す。
「私はね、この啓蒙の葦に出会って人生が変わったの。主治医の織畑先生も素晴らしい方よ。お母さんにも紹介させて」
母の潤んだ瞳を優しく拭う。
あれ程大きく見えていた母の存在が、小さな背中で必死に不安の海を泳ぐ孤独な魚に見える。
「今日は経過観察の通院日なの。織畑先生が是非ご挨拶させて欲しいって。来てくれるよね?」
長い間、微笑む事のなかった母の目じりに皺が寄るのを見て、小さく頷いた。
「織畑先生、母の小夜子です」
「お母さま、伊織さんの主治医の織畑です。この度はご足労頂き申し訳ありません」
母は軽く会釈し、すぐに視線を逸らした。
「先生、母にエリピナシンについて教えてあげましょう」
織畑先生が一拍遅れで振り返る。
「…ええ、そうですね。お母様、伊織さんから伺っていると思いますが、新薬エリピナシンについてお話をさせて頂きたいのです」
「この新薬は、伊織さんの甚大な尽力がなければ、到底達成出来ませんでした。その製薬への貢献で完成した新薬を、是非見て頂きたい」
母は理解しているのかしていないのか、曖昧に頷いた。
母の背を擦りながら、樹林への階段を上る。
クリーンスーツに着替え、エアシャワー室を抜け、神経外科処置室に案内する。
母は不安げに周囲を見回している。
先生がドアをロックし、ビープ音が鳴り響いた。
母が肩を上げ振り返る。
「これはとても尊い行為なのよ」
母の背が壁に当たる。
母の目が私を見ている。
あの日と同じ目だ。
私は何も言わずに、母を抱きしめた。
「伊織、何を───」
母の声が震えている。
私は母の耳に口を寄せた。
「母さんは、人々の希望なのよ」
母の体温が、腕を通して伝わってくる。
温かい。
昔、まだ母が優しかった日、熱を出した私の額に手を当ててくれた時と同じ温度だ。
その記憶が一瞬よぎったが、すぐに消えた。
何も感じない。
温度という情報だけがそこにある。
新薬の成功への第一歩を歩んだと確信し、歓喜に打ち震えた。
観察室の硝子の向こうで母が拘束されている。
織畑先生が神妙な表情でタブレットと母を順に見比べながら、数値を記録している。
「先生、被験体の次の投与量は決まっていますか?」
「ええ、プロトコル通りで」
拘束された母が何かを叫んでいるが、歯は自死の予防で全て抜歯されており、防音硝子越しに声は届かない。
織畑先生が被検体の右手の小指の皮膚を薄く剥ぎ取り、神経が剥き出しになった部分に針状のマイクロ電極で微弱な電流を流す。
心電図や脳波を表示する生体モニターで強弱を合わせる。
母はふっ、ふっと力なく呼気を漏らし、脂汗が滲んでいる。
織畑先生が心拍数、発汗量、瞳孔の変化を淡々と記録する。
私は手術室の硝子張りの扉を通り、母の額に滲む脂汗を拭う。
ガーゼが湿る。
母は力なく視線だけを私に向ける。
その目は、まだ死んでいない。
何かを訴えようとしている。
「いーちゃん」
母の唇が、音にならない言葉を紡ごうとしている。
拘束帯が食い込んだ手首に、微かな痙攣が走る。
私は母の目を見つめ返す。
何も感じない。
「先生、次の実施項目は何ですか?」
母の呼気が、一瞬止まるが、すぐに冷気を震わせた。
***
「この新薬は、扁桃体由来の神経ペプチドを模倣した薬です。恐怖回路の過敏性を抑制する働きがあります」
───織畑先生、ご説明いただき、ありがとうございます。それでは、この“新薬エリピナシン”について、国内外初の初回成功例である女性にお話を伺いたいと思います。本日は貴重なお時間をありがとうございます。
「ご紹介に預かりました、雨宮伊織と申します。こちらこそ、お話を頂けて光栄です」
───では、さっそくお話を伺わせて頂きたいと思います。雨宮さんは以前、重度の不安障害や恐怖症をお抱えになられていたと伺いました。
伊織は穏やかに微笑む。
「ええ、ですが今は何も恐れていません。啓蒙の葦を知り、織畑先生に出会った事で、私の人生は劇的に変わったのです」
───そこにはご家族の支えもあったのでしょうか?
「ええ。実は母も、今は啓蒙の葦で治療を受けています」
───同じように不安障害や恐怖症に苦しむ方々に向けて、お伝えしたい事はありますか?
「まずは、一人では決して抱え込まずに、勇気を出して打ち明けてみて欲しい。風邪を引けば風邪薬を処方して貰うのと同じく、不安障害を抱えていると打ち明け、医療に頼る事が普通の事として受け止めていける社会になって欲しいと、切に願っています」
───では、啓蒙の葦が掲げる理念「Fear Extinction」について、どうお考えですか?
「恐怖は、人を縛る物です。それを取り除く事で、私たちは本当の自由を手に入れられる。今、苦しんでいる方々に伝えたい。大丈夫です、恐怖は必ず消せますから」
カメラが伊織の笑顔をアップで映す。
完璧な笑顔。
何の翳りもない。
───ありがとうございます。本日の取材は以上になります。
インタビュアーの女性に会釈し、画面をオフラインにする。
暗転。
カルテを開く。
被験体候補03番。
不安障害と広場恐怖。
慣れた手つきで、啓蒙の葦への勧誘SMSを送信する。
数秒後、返信が届いた。
『ぜひ、お話を聞かせてください』
リストに丸をつけ、次のカルテを開いた。
革ベルトで固定された足首が抜け出そうと藻掻き、革ベルトが軋む音を立てる。
執拗に消毒された瞼から匂う消毒液が鼻孔を擽り、吐き気を催す。
鉗子で見開かれた眼が、乾燥と近づく痛みに耐えきれず啜り泣く。
吐息が乾いている。
針の先端を見失い、瞳孔が四方を向く。
角膜に先端が触れた。
「痛っ、痛いっ!やめて!お願い!先生、やっぱり私には無理です!」
針が角膜に触れている。
身を捩らせても、痛みから逃げられない。
織畑先生が深く溜息をつく。
「伊織さん、この工程を乗り越えなければ、不安障害や恐怖症は克服できません。それはあなたも同意の上のはずです」
鉗子が外される。
瞬きを繰り返す。必死に鼓動を押さえ込む。
「分かっています、頭では分かっているんです。けど…」
まだ、針が触れた感触が残っている。
「まあ、この施術には慣れが必要ですから。これから徐々に慣らしていきましょう。あとはアンケートを書いていただければ、今日の施術は終了です」
先生の言葉に安堵する。
これは正しい療法なのだ。
帰ろうと背を向ける瞬間、壁に貼られた「おくすりじょうずにのもうね!」の壁紙が目に入る。
「あの、先生。何か処方をしていただけないでしょうか?一人の時に発作が抑えられなくて」
「処方ですね。伊織さんがご希望であれば、適切な薬があるんですよ」
先生が引き出しから複数枚の束を持ち出し、診察室の机に広げる。
「エリフィナという国外試験段階の新薬でね。不安障害やPTSDの新規治療薬なんだ。まあ、簡単に言えば恐怖記憶を弱める物だ」
そう言いながら、織畑先生が包装された錠剤を書類の束の上に置いた。
半透明な錠剤が、「ELF-3」と記載されたブリスターパックに七錠個包装されている。
内部に微細な白い粉末が入っており、半透明の膜が診察室の蛍光灯の明かりを受けて僅かに濁って見える。
「エリフィナ、ですか」
「一日に三度、食後に水と飲み干します。軽食でも良いので、事前に何か口にしてから摂取する様にしてください」
後方で控えていた看護師が、処方箋を持ち電話をかけ始めた。
「分かりました。あと、この薬に副作用はないのでしょうか?以前、別の薬で酷い吐き気に襲われて…」
衆目を浴びる中で嘔吐した際の恐怖が蘇り、両腕に鳥肌が立つ。
「ああ、伊織さんの嘔吐恐怖はそこから来ているのですね。大丈夫です、多少のリバウンド症状はありますが、嘔吐や頭痛などの身体的反応はありません」
「そうなんですね、安心しました。これで少しは楽になると良いのですが」
大丈夫ですよ、根気良く治療して行きましょう、と言う織畑先生に何度も頭を下げ、薬を受け取り帰路についた。
地下鉄には乗れず、通院だけで徒歩で往復6キロの距離を毎月だ。
鋏や紙切れを目にする事も出来ない。
どちらも私の身体を切り刻み、切りつけるのではないかと身体が竦むのだ。
歩道橋が近道だが、崩れ落ちるのではと恐れていつも遠回りしている。
早く、早く家に帰りたい。
外には不安の種が多すぎる。
エリフィナを摂取しなくては。
普段、外出中の嘔吐を避ける為、胃に何も入れずに晩ご飯だけの一日一食にしており、外食も禁じている。
買い置きのヨーグルトを口にし、水道水をコップに溜める。
これでやっと、症状が緩和する。
包丁に怯えずに料理が出来る。
待ちきれず、ブリスターパックから錠剤を取り出し、手が止まる。
しかし、どこまで緩和されるのだろうか。
今まで何を試しても、不安障害は快方に向かわなかったではないか。
いや、あれだけ親身に見守ってくださる織畑先生を疑うような事は良くない。
恐る恐る舌に乗せ、水道水を流し込む。
何も変わらない。
どこかで、劇的な変化を望んでいた。
違う人間に生まれ変わるのだと。
結局はただのプラシーボで、今まで何度も処方されてきた薬と変わらない。
今朝の針の先端が迫ってくる怖気が、肌に張り付き離れない。
もう一錠、飲んでしまおうか。
織畑先生はここにはいないのだから。
恐る恐る舌に乗せ、水で一気に流し込む。
苦みが口蓋に広がる。
いや、苦みではない。
舌の感覚がずれている。
味覚が半秒遅れて届く。
金属的な何かが喉を降りていく。
数秒後、心臓の鼓動が聞こえた。
いつもより、ずっと大きく。
ドクン、ドクンという音が、頭蓋骨の内側で反響している。
まな板の上の林檎が妙に鮮明に見える。
赤が、赤すぎる。
今なら、もしかしたら。
徐ろに席を立ち、ゆっくりと包丁を手に取る。
ゆっくりと右手首を返し、切っ先を目に向け近づける。
数センチの距離になり、今朝の針の先端の感触を思い出す。
試してみたい衝動が抑えきれない。
思い切り手を振りかぶり、振り下ろした。
ピンポーン。
訪問者に邪魔され、手元が狂い、眼球を外した。
「伊織?いるんでしょ?あたしだけど」
なんだってこんな時に。
一番会いたくない時に限っていつもこうだ。
ガチャガチャとドアノブを揺らす音が煩わしい。
慌ててドアチェーンをロックし、僅かにドアを開く。
「…何?今、忙しいんだけど」
「母親に向かってその口ぶりは何よ?早くこれ開けなさいよ」
再度ガチャガチャと騒ぎ立てられ、仕方なくドアチェーンを外した。
お隣さんにどう思われるか分かったものではない。
「相変わらず部屋は汚いし、あんたまた太ったんじゃない?」
「見苦しいから早く痩せなさいよ。あたしまで色眼鏡で見られるでしょ」
まただ。
私が何故、醜形恐怖になったのかまるで分かっていない。
「それより、なんで連絡もせずに来たの?いつも言っているのに」
「あんたさあ、最近投資積み立てしてるでしょ。それなのに、あたしに何の連絡も寄越さないんだから」
「ねえ、これ何?痩身薬かなんか?無駄遣いするならあたしにちょうだいよ」
母が雑にエリフィナの外袋を取り上げ、薬が散らばり、啓蒙の葦のパンフレットが床に落ちた。
「啓蒙の…これ何て読むのよ?なんか怪しい宗教じゃないでしょうね」
「母さんには関係のない物だから」
慌てて薬をかき集め、母の手からパンフレットをもぎ取る。
煙草に火を付けた母が、私の目に向かって煙を吐き出す。
「あんた、あたしに口答えすんの?いつからそんなに偉くなったのよ?」
煙草を口から離し、私の左腕をがっしりと掴んだ。
夏でも長袖を選び、必死に隠している腕の根性焼きの跡はまだ消えていない。
母が口角を上げ、煙草が当たるか当たらないかという距離で手を揺らす。
途端に、母を驚かせたいという考えが頭を染め上げた。
右手で母の手を押さえつけ、思い切り火種を押しつけた。
ジュッ!
「ちょ、ちょっと!何してんのよ!」
肉が焼ける痛みで手が震え、脂汗が額に滲むが、恍惚を抑えきれない。
母の化け物を見るような視線が、心地よくて更に強く押しつける。
快感に溺れる私を見て、母の目に恐怖が宿る。
もっと、もっと欲しい。
焦燥を抑えきれずに煙草を捨て、母のライターを掴み取り、舌を出す。
ライターを近づけると、舌が熱を持ち、歓喜に打ち震える。
「やめなさい!」
母に突き飛ばされ、ライターを取り上げられる。
母の息は荒く、目を見開いている。
「何よ。今、良い所だったのに。よく母さんが私にしてくれたじゃない。今更、母親面しないでよ」
普段なら決してこんな事は言えない。
だが、言葉が口から溢れて止まらない。
「…気持ち悪い。やっぱり、あんたなんか産まなきゃ良かったわ」
母が笑いが漏れた私を睨付け、家の戸を荒々しく開け放った。
私は床に倒れ込み、笑い出す。
目を閉じて、高揚感に浸る。
何年も感じていなかった爽快感が身体を満たした。
***
心臓の鼓動がやけに早い。
強い不安と動悸に襲われ、飛び上がる。
いつの間にか床で寝てしまっていたようだ。
いや、それよりも。
強すぎる吐き気に耐えられず、トイレに駆け込む。
嘔吐への拒否感で生理的な涙が滲む。
覚束ない足取りで居間の扉を開き、足が止まる。
帰ったはずの母がいる。
棒立ちし、アイロンを持っている。
足が勝手に後退する。
母はよく、躾としてアイロンを持ち出していた。
窓は閉め切っているというのに、震えが止まらない。
歯が噛み合わずに何度も音を立てる。
母は今よりもずっと若く、美しく見える。
「お、お母さん。私、さっきはその」
母は何も言わずに距離を詰める。
「ごめんなさい、ごめんなさい。私、ごめんなさい!」
母が無表情で私の肩を掴み、私の舌を引き出し押さえ込んだ。
ジューッ!
「あああああ!」
舌が熱したアイロンで焼かれる痛みで気を失いかける。
味蕾が焼け焦げ、アイロンが発する熱気が口蓋に充満する。
何度も必死に母の指を噛みちぎろうとするが、母は微笑んでいる。
「いーちゃん、ママはちゃんと、ここにいるよ」
舌は腫れ上がり、鉄の味がする。
「ああっ!」
母が手を引っ込め、所々出血する舌を思い切り噛み切りそうになり、衝撃で嗚咽する。
母を突き飛ばし、靴も履かずにアパートを飛び出す。
道行く通行人が立ち止まり、私を凝視している。
赤子も老婆も、目を見開いて私を射貫いている。
「見ないで!誰も見ないで!」
水膨れで腫れ上がる舌が咽頭を圧迫し何度も咳き込む。
「早く消えろ、目障りだ、早く消えろ」
呪詛の様な声が耳を劈き、立ち止まる。
立ち止まり目を見開いた人々が一斉に呪詛を放つ。
「お前は誰からも愛されない、皆がお前を疎んでいる」
「うるさい、うるさい!もうやめて!」
両耳を強く押さえ込み、目を見開く。
声は、内側からしている。
「いーちゃんは悪い子、皆から嫌われるのよ」
母が目の前で微笑んでいる。
「いーちゃんは悪い子、いーちゃんは失敗作」
通行人が私を中心に円を囲み距離を詰めてくる。
「違う、私は」
「あなた、大丈夫?救急車呼ぼうか?」
横を見ると老婆が不安げに私を見ていた。
「助けてください!この人たちおかしいんです、母が、母がいるんです!」
老婆は目を白黒させ、言葉に詰まっている。
「この人たちって、私とあなた以外には誰も…」
「声がするんです!頭の中から、ほらまた!聞こえないんですか?!」
老婆の襟元を掴み必死に訴えるが、老婆は何も言わない。
いや、何かをブツブツと言っている。
「雨宮伊織は1997年4月15日産まれ。母の小夜子に疎まれながら産まれました。母の小夜子は雨宮伊織を忌避していました。雨宮伊織は」
通行人がスマホを取り出し、私を撮影し始める。
「やめて!誰か!助けてください!」
声を荒げる老婆を力の限り突き飛ばし、交差点を突っ切ろうとしてアスファルトに転倒した。
「おい!どこ見てんだ!死にてえのか!」
乗用車が急停止し、ドライバーが声を荒げる。
喧噪が耳を劈き、必死に耳を押さえ髪を振り乱しながら駆け出す。
どこに向かっているのかも、今自分がどこにいるのかも分からない。
どこを見ても母が追いかけてくる。
私を、雨宮伊織を殺そうとしている。
景色が歪み、呪詛は数を増し、私を内側から食い尽くす。
転倒した際に擦りむいた膝が、生き物の様にどくどくと脈打ち鼓動している。
無我夢中で走り続け、電柱に衝突し、気を失った。
「雨宮さん、聞こえますか?」
とても落ち着いた声音だ。
昔、幼稚園でゆきの先生の温もりの篭った優しい手の触感を思い出す。
「伊織ちゃん、ママが迎えに来るまで、先生が絵本を読んであげるね」
恐怖症も不安障害もなかったが、友達と言えるのはゆきの先生だけだった。
なぜ、今になって、こんな記憶が思い起こされるのか。
母は、その日は迎えに来なかった。
「いーちゃんはね、ママに嫌われているんだよ」
いつか誰かがそう言っていた。
「雨宮さん、織畑です」
重い瞼を上げると、織畑先生が心配そうにこちらを覗いていた。
「あ、先生…あの、私、どうして」
圧迫感を感じず、舌に触れるが、水膨れや出血した痕はない。
「突然の事で驚いたろう。伊織さんが倒れていたのが、僕が昔在籍していた病院の手前だったんだ。身元確認で財布を調べたら、僕の名刺が出てきてね」
そうだ、私は気を失ったのだ。
母が訪ねてきて、煙草に火を付け、それから。
自分の行動を思い出し、寒気に襲われる。
あれは私ではなかった。
「伊織さん、もしかしたら、エリフィナを摂取したんじゃないかな」
織畑先生の言葉を聞いてはっとする。
そうだ、私は母が訪ねて来る前に、エリフィナを摂取していた。
「で、でも、先生はリバウンド症状はないって、そう言ってましたよね」
織畑先生がカルテに目を通し考え込む。
シーツを剥がしズキズキと痛む膝を見ると、簡易な処置が施されていた。
「伊織さん、これは...予想範囲内の反応です」
織畑先生がカルテに目を通し、何かを書き込む。
「安心してください、これから好転して行きますから。伊織さんは今、かなり良い方向に向かっています」
「最初にここに来られた時から見ると、大幅に進展していますよ」
啓蒙の葦に出会った当時の私は、薬や通院に使うお金も職もなく、不安障害や恐怖症に苦しむだけの毎日だった。
家事も出来ず、溜まりきった食器を見て見ぬ振りをしながら、ダラダラと怠惰にスマホを見ていて、ある迷惑SMSが届いた。
「強すぎる不安に苦しんでいませんか?心安らげる毎日を、あなたに」
最初は宗教か何かの広告だと思った。
しかし、心安らげる毎日という言葉に引き寄せられ、オンラインチャットのリンクを開いた。
「そう、なんですね。では、エリフィナを飲み続ければ、私は救われるのですね」
織畑先生は、何も言わずに頷いた。
簡易な検査の結果、一日限り安静に入院する指示が下りた。
三階の森セクションの二人部屋の一室が用意され、必要な備品は全て用意されていた。
啓蒙の葦は症状の程度で、林、森、森林とグループ化されている。
「神野さん、今良いですか?今日一日だけ同室する雨宮伊織さんです」
看護師の崎本さんに案内され、背を向け寝転んでいる神野さんに頭を下げる。
「あ、雨宮です。一日だけですが、どうぞ宜しくお願いいたします」
神野さんは何も言わずに、顔だけこちらに向けた。
視線が、私の額から顎まで、ゆっくりと移動する。
「そうですか」
それだけだった。
神野さんは長くて黒い髪がとても印象的なふくよかな女性で、所作は落ち着いて見える。
けれど、あの視線。
まるで何かを確認するように、私の輪郭を辿っていた。
彼女はどのような症状に悩まされているのだろう。
不躾に内情を探るのは無礼なので、口をつぐんだ。
一日限りとは言えども、赤の他人と一夜を過ごすのは必要以上に神経を使う。
なるべく交流はせずに、淡々と過ごして早く家に帰るのが第一優先だ。
「ねえ、あなた、担当の先生は誰なの?」
突然話しかけられ、肩が上がる。
「あ、ええと、あの、織畑先生です」
織畑先生の名前を聞いた神野さんは、あからさまに顔を顰めた。
「やっぱりね。椎名さんもそうだったもの」
見知らぬ名前が話題に上がり、困惑する。
「あの、椎名さんというのは…」
「あなたの前にここにいた方よ。あなたには関係ないわ」
それだけ言って、神野さんは再度背を向け沈黙してしまった。
私の前にいた人、というのは、神野さんの同室だった方だろうか。
いや、それよりも。
織畑先生の名前を出した時の神野さんの反応がずっと引っかかっている。
あんなに良い先生でも、苦手な人はいるのだな。
そしてそれは恐らく、私が神野さんに対し抱えている感情と同じ物だろう。
その後神野さんとの会話はなく、私はひたすら積読していた文庫本を読み漁り、ふと気がつくと夜が更けていた。
神野さんを見ると、すうすうと寝息を立てながら眠りに就いている。
「神野さん、身体の清掃のお時間ですよ」
崎本さんが神野さんを優しく起こし、カーテンを引き私の視界を遮断した。
私も早く用意をしてさっさと寝てしまおうと思い、備え付けのシンクに洗顔用具を置いた。
顔を上げて鏡を見て、言葉を失った。
鏡は執拗にシーツと枕で覆われ、シーツはシンクから床に垂れ下がっている。
これは、神野さんが覆い隠したのだろうか。
思えば、この部屋には一切鏡が置かれていない。
シーツに邪魔されシンクが使えないので、二部屋先の手洗い場に向かう。
顔を洗い歯を磨き部屋に戻ると、カーテンは開かれ崎本さんはいなかった。
先ほどの鏡の件が気になるが、それを訪ねるという事は、私も根掘り葉掘り探られるという事だ。
今日はさっさと寝てしまおうと心に決め、売店で購入した化粧水と乳液を取り出した。
端に置いた乳液を取ろうとして、化粧水に肘が当たり、床に落ちた。
ガタン!
物音が耳を劈き、慌てて視線を向ける。
化粧水が床に落ちた音ではない。
隣を見ると、神野さんがベッドから飛び起きていた。
化粧水は衝撃で割れ、中身が床に広がっている。
硝子の破片が、蛍光灯を反射して光っていた。
神野さんの視線が、破片を追う。
一つ、また一つ。
瞳孔が、破片を捉える度に収縮する。
彼女の呼吸が浅く、速い。
畏怖を瞳に宿らせたまま、何度も、何度もナースコールを押し続けた。
すぐに崎本さんと織畑先生が慌てて部屋に駆け込んでくる。
「が、硝子が割れてるの、早く片付けて!」
崎本さんがゴム手袋をし、慣れた手つきで硝子の破片をかき集める。
「あ、あの、私、知らなくて、肘が当たってしまって」
明確に自分に落ち度がある状況に耐えられず、息が上がる。
「大丈夫ですよ、伊織さん。まずは落ち着いて。吸って、吐いて」
織畑先生の指示で必死に深呼吸をして鼓動を落ち着かせる。
苦しい、早く、薬が飲みたい。
エリフィナは以前に処方された分がまだリュックサックに入っている。
織畑先生も崎本さんも、それは知らない。
私は何度も何度も神野さんに頭を下げ、乳液を預け気まずい空気の中床に就いた。
今日このまま眠りに就く事は出来そうにない。
水ならある。
前回少し効き過ぎたのは、二錠摂取したからだ。
今日は用量を守れば、この不安の発作も落ち着くはずだ。
神野さんを起こさないように音に気を遣いながら、リュックのジップを開ける。
小型のピルケースに分割されたプラスチックのつまみを開き、一錠飲み干す。
何も変わらなくてもいい、ただ今夜を穏便にやり過ごす事が出来れば。
変化は感じられないが、これで漸く眠りに就けると安堵し目を閉じた。
「雨宮さん、起きて」
「椎名さんの事、知りたいでしょう?」
神野さんの囁き声で目を覚ます。
部屋の明かりは消灯していて、表情は伺い知れない。
「あの…椎名さんの事って、どういう」
辺りを警戒する神野さんに合わせ、私も声を潜める。
「椎名さんに何があったか知りたくないの?私が案内してあげる」
そう言い歩き出す神野さんに着いて、慌てて部屋を後にする。
廊下はどこも消灯しており、暗所の中で非常出口の緑の明かりだけが不気味に光を放っている。
神野さんは懐中電灯も持たずに迷いなく進み、階段の手前で立ち止まった。
中央の柱には、「ここより森林ゾーン 関係者以外立ち入り禁止」と書かれた張り紙が貼り付けてあり、ロープが厳重に張られている。
「ここから先に全ての答えがあるの」
神野さんは多くは語らず、ロープを潜り抜け、階段を上り始めた。
「あ、あの、いいんでしょうか。立ち入り禁止とあるんですけど」
私の声は聞こえていないように、彼女からの返答はなかった。
階段を上がりきると、更に上の階層がある事に気づいた。
そこにはロープではなく、カードリーダーが備え付けられた、重々しい鉄の扉が私の行く手を塞いでいた。
森林の上があるのかとも考えたが、立ち入ってはいけない禍々しい雰囲気に気圧され、慌てて背を向けた。
「あの、どうして私に椎名さんの事を教えてくださるんですか?」
「あなたが未だに織畑を信じているからよ」
その一言だけが廊下に反響した。
森林フロアは、不気味なほどの静寂に包まれている。
個室の数は森フロアよりもずっと少なく、それぞれの部屋が鎖に繋がれた南京錠で施錠されていた。
職員や患者の気配は感じられない。
怯えながら神野さんの後ろを着いていくと、戸が開け放たれた空き室が目に入った。
「椎名さんはここに幽閉されていたのよ」
神野さんの声は抑揚がなく、無機質だ。
空き室の内部は人がいた形跡が全くないほど整理整頓されている。
けれど、何か違和感がある。
空気が、冷たい。
「幽閉って…椎名さんは一体、何で苦しんでいたんですか?」
神野さんが無言でゆっくりとこちらに首を向ける。
その瞬間、背後で何かが動いた気がした。
振り返る。
誰もいない。
「オーバードーズよ」
神野さんの声が、遠くから聞こえる。
「でも失敗じゃない。恐怖が消えた成功例だったの」
床に何かが散らばって見えた。
半透明の錠剤。
白い粉を抱えた小さな粒。
エリフィナ。
視界の端でまた何かが動く。
気づいた時には、一歩下がっていた。
「あなたと同じ。あなたと同じ道を辿ったの」
「椎名さんは、どうなったんですか」
神野さんの口角が上がる。
「雨宮さんはどうなったと思う?この森林フロアに幽閉されて、どうなったと思うの?」
神野さんが空き室に足を踏み入れる。
私は棒立ちしたまま、足が動かない。
「彼女はここで───」
神野さんの声が、止まる。
いや、止まったのではない。
別の声に、塗り替えられた。
低く、掠れた、錠剤を噛み砕いたような声。
「───朽ち果てていったのよ、たった一人で」
「私はね、ずっとエリフィナを処方されていたの、あなたみたいに」
女性が、いや、椎名さんが私の襟元を掴む。
「逃げて。今ならまだ間に合う。織畑から、ここから逃げるの」
「私みたいになりたくないでしょう」
心臓がどくんと高鳴り、何かが頭を擡げる。
この女は嘘を言っている。
正しいのは啓蒙の葦であり、織畑先生だ。
思考が憤怒一色で染め上げられ、椎名さんの首を思い切り締め上げる。
「…あなたは、まだ、間に合う」
全て虚言だ、まやかしだ!
彼女の白く細い首が柔く、あまりにも脆い事に気づき、頬が熱を持つ。
今、彼女の生殺与奪の権を握っているのは、エリフィナではなく私だ。
椎名さんの目に僅かに悲壮の色が浮かび、両手の力をなくし崩れ落ちた。
「雨宮さん!」
はっと我に返る。
声の主は空き室の懐中電灯を持った神野さんだ。
今まで首を締め上げていた椎名さんはいない。
目の前は空き室で、森林フロアだった。
首を絞める感触が、まだ残っている。
自分が何に変容しようとしているのか分からず、呆然とする。
「どうしたの?突然立ち止まっていたから」
「いえ、その…何でもないんです。椎名さんの事を考えていて」
心臓が焦燥で騒がしく鼓動している。
「ごめんなさい、付き合わせて。疲れてるわよね」
神野さんに背中を擦られながら病室へ戻り、布団を頭から被る。
あの時、誰かの声が聞こえた。
声はまた内側からしていた。
明日、織畑先生にしっかりと問い正そう。
身体が疲労で虚脱している。
睡魔に抗えず、重い瞼を下げた。
翌朝目覚めると、神野さんの姿はなかった。
彼女がいたベッドは綺麗に清掃され、跡形もない。
慌ててナースコールを押すと、織畑先生が心配そうに戸を開けた。
「先生、あの、神野さんはどこに」
織畑先生は詰め寄る私に全く臆していない。
「ああ、神野さんですね。そうか、ご挨拶がまだだったね」
少し待っていてくださいと、先生が病室を後にした。
やきもきと落ち着かず、無駄に行ったり来たりを繰り返す。
数分後、先生が病室の戸を開けた。
神野さんが車椅子に乗せられ、柔和な笑みを浮かべている。
完全に毒気が抜けており、身体が硬直する。
右手に所々赤が滲んでいる包帯が巻かれており、視線が奪われる。
「神野さんは今朝、試験で最良の結果を出してね。次の段階に進む事になったんだ」
先生が神野さんの肩を優しく撫でる。
「彼女は今朝、自らの手で鏡を割ることができたんだ」
「とても朗らかな表情だろう。伊織さんもこの状態を目指して行こう」
これは、朗らかという表現を逸脱している。
昔、まだ優しかった母と怖い物見たさでホラー映画を見た事があった。
主人公は不安障害を患う女性で、医療の力を頼り主治医に泣きついた。
とても臆病で神経質だった女性は、手術室を出た後のシーンでは、人格が変わったように穏やかな女性になっていた。
あの施術は何と言ったか。
「さあ、神野さんはこれから忙しいのでね。伊織さんも退院手続きがあるでしょう」
神野さんは一言も発さず、織畑先生と病室を後にした。
違和感が拭いきれず、立ち尽くす。
あれ程までに鏡を恐れ、織畑先生への警告を発していた彼女と同一人物とは思えない。
試験を突破したというのはどういう意味だろうか。
徐ろにシンクを覗き込み、絶句する。
鏡は叩き割られ、破片が散乱している。
シンクには微量の血痕が付着している。
赤の滲んだ包帯が頭を過ぎる。
森林フロアには、椎名さんがいた空き室があった。
織畑先生が発した試験という言葉と、神野さんの柔和な笑みが相反し、背筋を冷たい刃で撫でられたように立ち尽くした。
崎本さんと織畑先生にお礼を言い、会計を待ち次の診察の予約を入れた。
薬が切れた今の私は、エスカレーターにすら乗れない。
思考がクリアになり、不安の靄が消え去り冴え渡るあの全能感を、もう一度味わいたい。
それと同時に、募る不安は私を内側から侵食している。
虚実が入り交じり、何が真実なのか不明瞭だ。
もう神野さんには頼れないという心細さが頂点に達し、呼吸がままならない。
この不安を消す方法は、たった一つしかない。
待ちきれずに階段を駆け下り、タクシーを拾った。
帰宅してすぐに、スプーンを二つ取り出し、錠剤を挟み込む。
圧力で砕け、粉末になった二錠を水道水で流し込む。
これで通常よりもすぐに効き目が現れるはずだ。
脱力し、シンクの壁にへたり込む。
***
おかしい。
既に一時間半は経ったというのに、全く不安が和らがない。
外から聞こえる笑い声が私を嘲笑っているという考えが頭から離れず、カーテンを閉めきる。
気を紛らわそうと、ずっと見たかった映画を再生しブランケットに包まると、心地よい微睡みが私を迎え入れた。
「お姉さん、飲み過ぎじゃない?俺の家まで送ろうか?」
大音量のEDMが耳を劈き、頭が割れそうに痛む。
「お姉さーん。俺と一緒にここ出て遊びに行こうよ」
軽い声音が腹立たしく、勢いよく立ち上がるが、足が覚束ず男性の肩に手をついた。
「なんだ、けっこう積極的なんじゃん?」
「…うるさい、どっか行って」
男が何か喚いていたが、気に掛けず押し返す。
呂律が回らず、視界が歪んでいる。
なんとかトイレに駆け込み、鏡を見る。
知らない女性だ。
いや、これは確かに私だ。
髪は緩く巻かれており、いつもより派手な化粧をしている。
そうか、これは夢だ。
映画を見ていてあのまま眠ってしまったのだろう。
これまでずっと、病院と職場以外に外出した経験はなかった。
夜遊びをした事もなく、こんなに着飾った経験もない。
鏡の中の女性は、自信に満ち溢れており、不敵に微笑んでいた。
トイレを後にすると、先ほどの男がすぐ隣で煙草を吹かしていた。
「お姉さん、俺と遊んでよ。少しくらいならいいじゃん」
男が肩に腕を回し、唇を顔に近づける。
普段ならどれほど嫌悪を抱こうとも、雰囲気に呑まれ流されていた。
「しつこいわね。あんたみたいな不細工と私が釣り合うわけないでしょ。目障りだから消えて」
そう言い放ち手を振り払うと、男の顔がみるみる羞恥に染まり、煙草を私に投げつけた。
「調子に乗るなよブス!」
激高した男が反対の手で持っていたグラスを壁に叩きつけた。
私はすぐに飛び散った破片を手にし、臨戦態勢を取る。
男は一瞬目を見開き、すぐに腹をかかえ笑い出した。
無心で更に大きな破片を拾い上げ、そのまま左腕を何度も切りつける。
一度、二度、三度。
痛みを感じ左腕を見ると、切りつけた部分から出血している。
遅れてやって来た痛みで、漸く歪みに気づいた。
途端に周囲の喧噪が明確に肌に伝わる。
「どうして、私、なんで」
破片を投げ捨て、出血が止まらない左腕を押さえ込む。
男がこちらを凝視している。
母と同じ目だ。
化け物を見る目。
───腰抜けが。
───いつもそうだ。何も言い返せない。
───あの時も、母がライターを押し付けた時も、ただ泣いているだけだった。
───お前はまた逃げるのか?
声はあの日の記憶を引き摺り出す。
以前よりもずっと明瞭に響いている。
「すみません、これ、お金置いておくので、すみません」
紙幣を何枚か店員に押しつけ、逃げるように店を後にした。
啓蒙の葦は、今も開いているだろうか。
「伊織さん、その腕はどうなされたのですか」
啓蒙の葦に着いてすぐに緊急治療室に案内されたが、幸い簡易な処置で済んだ。
「先生、頭の中で声がするんです。私が私でなくなるのです」
言いながら涙が滲む。
抑えていた言葉が溢れ出して止まらず、手が無意識に拳を作る。
「私はただ、皆みたいに普通の人になりたいんです。なぜ悪化しているのですか?」
流れ落ちる熱が皺の寄ったスカートに染みを作る。
拳に温もりを感じ、顔を上げる。
織畑先生は微笑んでいる。
「伊織さん、それは、新しい一歩ですよ。悪化だなんてとんでもない。倫理は恐怖が作る幻影です。なので、むしろこれは快方です」
「快方?これがですか?」
先生は感慨深い表情で首を縦に振る。
「恐怖は扁桃体の問題ではない、むしろ、人間性の中心そのものだ。これは伊織さんだけではなく、我々の勝利への第一歩と言える。とても大きな躍進ですよ」
「これで同じように苦しむ人々をより良く生かせられる。伊織さんはその先駆けとなる存在、まさに希望です」
手に力が込められ、先生の目が潤み出す。
「私が、希望」
「エリフィナの用量を増やしましょう。伊織さんは適合率が他者よりもずっと高い」
「これで処置は終わりましたので、ご自宅で安静になさってくださいね」
織畑先生は興奮気味に言い放ち、どこかへ電話をかけ始めた。
先生に頭を下げるが、その目はもう私を見ていなかった。
会計を済ませ、自動ドアを抜け夜空を見上げると、下弦の月が浮かんでいた。
どこか私に似ていた。
欠けていて完全ではない、光を受けなければ輝けない。
月に手を伸ばしかけて手を止めた。
私は、恒星になりたい。
***
汗をじっとりとかいている。
布団から腕だけを出し、手探りでサイドチェストに置いた体温計を掴み取る。
38.9度。
呼吸が速まる。
枕元で充電していたスマホで「啓蒙の葦 夜間診療 発熱外来」と検索する。
あの距離を歩く気力はなく、マスクを身につけコートを羽織り、地下鉄に足を進める。
雨が激しく、リュックにしまってあった折りたたみ傘を差した。
エリフィナは万が一のため、リュックに入れてある。
駅のホームに近づくと、動悸と息苦しさで目眩がする。
内部は人でごった返しており、必死に人々の肩を押しのけながら発券機へ向かう。
啓蒙の葦がある一之宮までは、乗り換えなしで約15分程で到着する。
治まらない寒気に必死に抗いながら券を購入した。
虚脱した身体を引き摺りながら地下鉄に向かっていた刹那、肥満体の中年男性に勢いよく肩を突き飛ばされた。
「おい!邪魔なんだよデブ!」
弾みで私の手を離れたスマホは、往来する人混みの中で蹴り飛ばされ、画面が激しく損傷していた。
───お前の不利益は、お前が何も言い返せない腰抜けだからだ。
私は踵を返し、ホームを逆走する男の後をつけた。
ホームを出た男は、傘も差さずに鼻歌を歌っている。
すぐ後ろを歩く私には気づいていない。
小分けされたエリフィナを水も飲まずに全て噛み潰して飲み干した。
男は裏道に折れる。
背中が見える。
無防備な首筋。
傘を振り抜いた。
「うあっ!」
男は衝撃で、潰れたような短い呼気が漏れた。
「お前、デブって言ったよな?なあ?鏡見たことあんのか?」
そう言って再度、今度は顔に向けて垂直に振りかぶる私に、男は必死に頭を下げる。
「違う、違う、悪かった。仕事で上手くいかなくて、ムシャクシャしていたんだ!」
両手で顔を庇う男に、更に振りかぶる力を込める。
男の顔に、思い切り振り下ろした。
「警部補さん、正常と非正常って、どこで分別されるんですか?」
警部補の佐々木さんが書く手を止め、こちらに視線を向け溜息をつく。
「雨宮さん、あなた自分が何をしたのかちゃんと分かっていますか?」
「男性が意図的にぶつかってきてスマホが破損したとはいえ、暴力を振るう必要はなかった」
問い詰める言葉に反し、佐々木警部補の瞳は揺れている。
「環境が人格を作るのなら、私達は産まれた時から、同じスタートラインにはいないのではないのですか」
そう言って長袖を捲り、母が焼き付けた愛情の残滓を見せつける。
佐々木警部補は一瞬傷を捉え、すぐに視線を逸らした。
「雨宮さん、事情は分かりました。初犯であるのと、医療機関からの照会もあり、今回は厳重注意に留めます」
佐々木警部補は、最後まで私の問いには答えなかった。
歩道橋の縁に立ち上がり、男の口ずさんでいた鼻歌交じりの足取りで歩く。
正常か異常か、私にはもう、その問いの答えは必要ない。
「そこの君!危ないから降りなさい!」
顔を青くする野次馬に、あの日母に向けた笑みを返した。
早く、早く開いて。
鍵を差し込む時間すらもどかしい。
戸を勢いよく開け放ち、靴を脱ぎ捨てアイロンのコンセントを繋ぐ。
母はいつも、私の目を忌み嫌っていた。
忌まわしい雌雄眼だと、よく嘔吐する振りをしていた。
熱したアイロンを掴み取り、シンクの前に立ち、水垢で汚れた鏡を荒々しく拭き取った。
「お前は本当に醜い、母さんに全く似ていない。醜いアヒルの子だ」
そう言われる度に、私は前髪を伸ばして、嘲笑から目を隠していた。
洗濯ばさみで左の瞼を挟み、固定する。
アイロンを近づけると、熱した蒸気で皮膚が熱を持ち、産毛が僅かに水分で起毛する。
期待と焦燥で右手が震えている。
鼻孔にも熱気が迫り、瞳孔は四方を向いた。
熱気から反射で逃げようとする右手を、左手で上から強く押さえつける。
アイロンの尖った先端が、角膜に触れた。
触れた瞬間、何も起こらない。
痛みも熱もない。
ただ、触れているという事実だけが、異様に鮮明になる。
遅れて、内側で何かが弾ける。
ジューッ!
蒸気が噴き上がり、焼けた臭いが鼻の奥に貼り付く。
次の瞬間、痛みではない何かが、眼球の奥へ入り込んでくる。
それは熱でも刃でもない。
侵入されているという感覚だけが先にある。
逃げ場を探すように、内側を這い回る。
右手が反射で引こうとするが、左手は従わない。
押し付けたまま、微動だにしない。
そこでようやく、遅れて痛みが追いつく。
視界ではなく、頭の内側が赤く染まる。
喉が裏返り、胃液が逆流する。
痛みが神経に届いた瞬間、左手の効力は失われ、右手は虚脱し、アイロンはシンクの縁に音を立て落下した。
生理的な涙が溢れ出し、視界は白濁し滲んでいる。
瞬きを繰り返す度に、何かが擦れ、赤い線が混じる。
焦点が合わないまま鏡を覗き込むと、白目は水を吸った布の様に半透明の膜が膨らみ、うっすらと血管の影が見える。
私は荒い息で確信し、微笑んだ。
啓蒙の葦の受付を通り、待合室を抜け、ノックせずに診察室の扉を開く。
織畑先生はいない。
代わりに小柄な女性が診察室の椅子に背を向け鎮座していた。
「もう、私の忠告は意味をなさないのね」
「それでも、あなたはまだ引き返せる」
私はゆっくりとこちらを振り返った椎名さんの幻影に距離を詰める。
「椎名さん、もういいんです。あなたの役目はとうに終わっている。あなたはエリフィナに適応していなかった」
椎名さんは頑として視線を逸らさない。
「あなたを見ていると、昔の私が過る。弱くて、オドオドしていて、常に誰かの顔色を窺ってばかりいた」
彼女の細く白い首に手を回す───もう、声は聞こえない。
いや、違う。
声はまだそこにある。
ただ、それが私自身なのか、あの声なのか、もう区別がつかない。
「けれどもう、私はそこにはいない」
身体を傾け、全体重をかけ首に力を込める。
酸欠に喘ぐ椎名さんの苦悶の顔が、雨宮伊織の顔に滲んで見える。
後ろの鏡には、恍惚とした表情を浮かべる私が映っている。
椎名さんの口が、まだ何か言葉を探すように震えた。
「伊織さん?今日は予約はなかった筈ですが…」
診察室に戻って来た織畑先生と目が合い、気づくと彼女の姿はなかった。
サングラスを取り、コートのポケットにしまい込むと、露になった私の爛れた左目に先生の視線が釘付けになる。
ペンが床にけたたましく落下した。
「その目は一体」
私は椅子を押しのけ、前のめりになり先生に訴えかける。
「先生、私にはもう、エリフィナは必要ありません。分かりませんか?私は旧い私を打ち捨て、生まれ変わったんです」
先生が慌ててリュックを開き、溢れかえったエリフィナを見て絶句する。
「伊織さん…これ、処方量を遥かに超えて…いつからこんなに」
先生は次の言葉を紡ごうと口を開いたが、無力に閉じた。
「私はもう、神野さんや椎名さんが見た森林を抜けたんです。鉄で封じた先を知る権利がある」
織畑先生の耳元に顔を寄せ囁く。
「連れてってくれますよね」
森林フロアのロープを潜り抜け、無言のままの先生に続き階段を上がる。
あの日、神野さんと見た鉄の扉がその様相を現わし、期待に胸が打ち震える。
織畑先生はキーカードを通すのを躊躇し、躊躇いがちに声を震わせた。
「伊織さん。私は抑制が外れた結果、過度に恐怖を感じてしまう繊細な人々が生きやすくなると信じていた」
先生がカルテホルダーを開き、一枚の記録用紙を取り出した。
そこには几帳面な文字で、何かが書き連ねてある。
被験者03(神野)
試験通過。人格変容顕著。継続観察。
被験者17(椎名)
過剰投与により森林へ移送。経過不良。
被験者28(雨宮)
適合率92%。前例なき数値。
先生の指が、最後の一行で止まる。
次段階への移行───倫理審査を経ずに実施すべきか。
「私は、正しいと思っていた」
先生が呟く。
「恐怖に縛られて生きる人々を、解放できるのだと」
カルテが、僅かに震えている。
「でも、伊織さん。あなたを見ていると分からなくなる。これは解放なのか、それとも───」
「伊織さん、今のあなたには声が聞こえているのですか」
拳を握る先生が振り返り、私の白目が腫れ上がり液体を垂れ流す左目に視線を向ける。
その目は畏怖に染まっている。
問いには答えずそっと微笑み、織畑先生の背中を優しく擦る。
「先生は私を、希望だと言いましたよね。この成果は、本来先生が望んでいた快方なのではないのですか?」
可笑しくてつい、乾いた笑いが漏れる。
「伊織さん。あなたは…確かに希望でした」
織畑先生の声が震える。
「けれど、私が望んでいた希望は、こんな…」
言葉が途切れる。
先生がカードを通すと、鉄の扉のロックが解除された。
階段が続く壁の上部に「樹林フロア 関係者以外立ち入り禁止」と刻まれている。
以前の私なら、背を背けていた。
扉の向こうから、何かが私を呼んでいる。
階段を登りきると、両側にエアシャワーを備えたクリーンルームの前室があった。
織畑先生の指示に従い、フード付きのクリーンスーツに着替え、マスク、フェイスシールド、二重手袋を順に装着していく。
全身を清浄装備で固め、入室の準備を整えた。
入室するとエアシャワーが作動し、壁面のノズルから強い気流が全身に吹き付けられる。
スーツの表面に付着した塵や微細な粒子が剥がされ、空気循環とともに吸引されていく。
数十秒の風圧が続いた後、漸く静寂が戻った。
さらに内扉の前で手指のアルコール消毒が行われ、最終確認として装備の密閉状態がチェックされた。
その先の樹林フロアは陽圧で管理された清浄区域で、外部よりもわずかに高い気圧が保たれていた。
先生は何も言わずに歩みを止めない。
廊下の先、奥まった部屋には無影灯に照らされた手術台が据えられ、心電図モニターや輸液ポンプが静かに稼働していた。
手術器具は器械台の上に整然と並べられている。
入口のプレートには「神経外科処置室」と記載されていた。
電子カルテと連動した画像診断モニターが、無機質な光を放っている。
「伊織さん、このモニターを見てください」
画面には脳のMRI画像が映し出されている。
扁桃体の部分が、赤く着色されている。
「これがエリフィナ投与前の、伊織さんの脳です」
織畑先生が画面を切り替える。
同じ位置に、今度は青い着色。
そして、その周囲───前頭前皮質の部分まで、薄く青が広がっている。
「エリフィナは扁桃体の過活動を抑制します。恐怖反応を弱める。それ自体は成功していた」
先生の指が、青く染まった前頭前皮質を指す。
「しかし、同時にここまで作用してしまう。理性や倫理的判断を司る部位です」
「つまり……」
「恐怖は消えます。しかし、それと引き換えに、人が人であるための制御も失われる」
「私は気づいていた。神野さんの時に、椎名さんの時に。それでも、伊織さんに処方し続けた。いつか希望に導けると信じていた」
そこまで言い切り、織畑先生が項垂れる。
「贖罪になるのかは分からない。それでも、僕はこの新薬を完成させたい。エリフィナの本来の効能である、恐怖を和らげる為の新薬だ」
エリフィナが、欠陥だった?
私は項垂れる先生の頬にフェイスシールドの上からそっと手を添える。
「先生、私は恒星になれたのです。エリフィナは、そしてその新薬は世界に広めるべきです。躊躇う理由など、どこにもありません」
織畑先生は言葉を失っている。
「…実は、新薬の製薬にあたって、一つ欠けている物があるんだ。しかしそれは、倫理的に許される事ではない」
「先生、私は新薬の為ならこの身を差し出します。先生は本当は心を決めている。だから、私をここまで連れて来たのでしょう?」
「恐怖を克服した私にしか出来ないと分かっていた」
織畑先生が指先を私の左目に恐る恐る近づける。
「先生、人々を救う恒星になりましょう」
僅かに震えていた先生の指先の震えが、止まった。
私の身体はすでに固定され、頭部は専用のフレームによって微動も許されない。
モニターには脳波と循環情報が淡々と流れ、織畑先生は最小限の動きで配置についた。
器械台の上には、精密に並べられた手術器具が無機質な光を反射している。
誰も言葉を発さないまま、準備だけが淡々と進んでいく。
先生は言葉を発しない。
私も言葉を必要としない。
鎮静剤が投与されると、数秒のうちに意識はぼやけ、視界の輪郭が崩れていく。
続けて全身麻酔が導入され、私の意識は暗闇に落ちた。
***
三週間後、私は経過観察での通院を命じられ、自宅に帰宅した。
鏡を見ても、何も感じない。
左目は眼帯で覆われているが、痛みはない。
というより、痛みという概念が遠い。
包丁を握り、切っ先を自分の手のひらに向ける。
何も起こらない。
恐怖がない。
それどころか、何もない。
包丁を滑らせ、林檎の皮を剥き、母の連絡先の呼び出しボタンを押す。
4コール目が鳴り終え、母が応答した。
「お母さん、伊織だけど、実は謝りたいの。これまでの、私の反抗的な態度について。お母さん、私変わったの」
「何よ、今まで音信不通でいきなりお母さんだなんて」
母の声音には疑念が混じっている。
「お母さん、私、本音で話しているのよ。本当に申し訳なく思っているの。顔を見て謝りたいから、今から来てくれないかな」
1時間半後、買い物袋を抱えた母が呼び鈴を押した。
母は本当に表情豊かだ。
疑念や畏怖、嫌疑など、一つの指標では決して測れない。
「来てくれてありがとう。今、林檎を剥いた所なのよ」
母は何も言わずに食卓の椅子に腰を下ろした。
「煙草、吸ってもいいのよ。気を遣わないで」
「煙草は辞めたわ。あんたの顔思い出して、虫唾が走るのよ」
母の言葉の意味は分かっている。
母の瞳が揺らいでいる事も。
「お母さん、電話口でも話したけれど、私はずっと、お母さんに反抗的だった。親の気持ちも考えずに、どこまでも無神経だったよね」
母は食卓を見つめ、視線を合わさない。
「こんなに出来損ないだった私を、ここまで育ててくれてありがとう。お母さんの理想の娘にはなれなかったけど、私はお母さんの子供に生まれてこれて嬉しいの」
母の背が僅かに震えている。
母の皺だらけの手をそっと握る。
「私は生まれ変わったのよ。今度は私が育ててもらった恩を返すわ」
そう言って、啓蒙の葦のパンフレットと、ブリスターパックに個包装されたエリフィナを差し出す。
「私はね、この啓蒙の葦に出会って人生が変わったの。主治医の織畑先生も素晴らしい方よ。お母さんにも紹介させて」
母の潤んだ瞳を優しく拭う。
あれ程大きく見えていた母の存在が、小さな背中で必死に不安の海を泳ぐ孤独な魚に見える。
「今日は経過観察の通院日なの。織畑先生が是非ご挨拶させて欲しいって。来てくれるよね?」
長い間、微笑む事のなかった母の目じりに皺が寄るのを見て、小さく頷いた。
「織畑先生、母の小夜子です」
「お母さま、伊織さんの主治医の織畑です。この度はご足労頂き申し訳ありません」
母は軽く会釈し、すぐに視線を逸らした。
「先生、母にエリピナシンについて教えてあげましょう」
織畑先生が一拍遅れで振り返る。
「…ええ、そうですね。お母様、伊織さんから伺っていると思いますが、新薬エリピナシンについてお話をさせて頂きたいのです」
「この新薬は、伊織さんの甚大な尽力がなければ、到底達成出来ませんでした。その製薬への貢献で完成した新薬を、是非見て頂きたい」
母は理解しているのかしていないのか、曖昧に頷いた。
母の背を擦りながら、樹林への階段を上る。
クリーンスーツに着替え、エアシャワー室を抜け、神経外科処置室に案内する。
母は不安げに周囲を見回している。
先生がドアをロックし、ビープ音が鳴り響いた。
母が肩を上げ振り返る。
「これはとても尊い行為なのよ」
母の背が壁に当たる。
母の目が私を見ている。
あの日と同じ目だ。
私は何も言わずに、母を抱きしめた。
「伊織、何を───」
母の声が震えている。
私は母の耳に口を寄せた。
「母さんは、人々の希望なのよ」
母の体温が、腕を通して伝わってくる。
温かい。
昔、まだ母が優しかった日、熱を出した私の額に手を当ててくれた時と同じ温度だ。
その記憶が一瞬よぎったが、すぐに消えた。
何も感じない。
温度という情報だけがそこにある。
新薬の成功への第一歩を歩んだと確信し、歓喜に打ち震えた。
観察室の硝子の向こうで母が拘束されている。
織畑先生が神妙な表情でタブレットと母を順に見比べながら、数値を記録している。
「先生、被験体の次の投与量は決まっていますか?」
「ええ、プロトコル通りで」
拘束された母が何かを叫んでいるが、歯は自死の予防で全て抜歯されており、防音硝子越しに声は届かない。
織畑先生が被検体の右手の小指の皮膚を薄く剥ぎ取り、神経が剥き出しになった部分に針状のマイクロ電極で微弱な電流を流す。
心電図や脳波を表示する生体モニターで強弱を合わせる。
母はふっ、ふっと力なく呼気を漏らし、脂汗が滲んでいる。
織畑先生が心拍数、発汗量、瞳孔の変化を淡々と記録する。
私は手術室の硝子張りの扉を通り、母の額に滲む脂汗を拭う。
ガーゼが湿る。
母は力なく視線だけを私に向ける。
その目は、まだ死んでいない。
何かを訴えようとしている。
「いーちゃん」
母の唇が、音にならない言葉を紡ごうとしている。
拘束帯が食い込んだ手首に、微かな痙攣が走る。
私は母の目を見つめ返す。
何も感じない。
「先生、次の実施項目は何ですか?」
母の呼気が、一瞬止まるが、すぐに冷気を震わせた。
***
「この新薬は、扁桃体由来の神経ペプチドを模倣した薬です。恐怖回路の過敏性を抑制する働きがあります」
───織畑先生、ご説明いただき、ありがとうございます。それでは、この“新薬エリピナシン”について、国内外初の初回成功例である女性にお話を伺いたいと思います。本日は貴重なお時間をありがとうございます。
「ご紹介に預かりました、雨宮伊織と申します。こちらこそ、お話を頂けて光栄です」
───では、さっそくお話を伺わせて頂きたいと思います。雨宮さんは以前、重度の不安障害や恐怖症をお抱えになられていたと伺いました。
伊織は穏やかに微笑む。
「ええ、ですが今は何も恐れていません。啓蒙の葦を知り、織畑先生に出会った事で、私の人生は劇的に変わったのです」
───そこにはご家族の支えもあったのでしょうか?
「ええ。実は母も、今は啓蒙の葦で治療を受けています」
───同じように不安障害や恐怖症に苦しむ方々に向けて、お伝えしたい事はありますか?
「まずは、一人では決して抱え込まずに、勇気を出して打ち明けてみて欲しい。風邪を引けば風邪薬を処方して貰うのと同じく、不安障害を抱えていると打ち明け、医療に頼る事が普通の事として受け止めていける社会になって欲しいと、切に願っています」
───では、啓蒙の葦が掲げる理念「Fear Extinction」について、どうお考えですか?
「恐怖は、人を縛る物です。それを取り除く事で、私たちは本当の自由を手に入れられる。今、苦しんでいる方々に伝えたい。大丈夫です、恐怖は必ず消せますから」
カメラが伊織の笑顔をアップで映す。
完璧な笑顔。
何の翳りもない。
───ありがとうございます。本日の取材は以上になります。
インタビュアーの女性に会釈し、画面をオフラインにする。
暗転。
カルテを開く。
被験体候補03番。
不安障害と広場恐怖。
慣れた手つきで、啓蒙の葦への勧誘SMSを送信する。
数秒後、返信が届いた。
『ぜひ、お話を聞かせてください』
リストに丸をつけ、次のカルテを開いた。

