土曜日の深夜二時。
外は、あの初めてこの場所を訪れた夜と同じような、冷たくて細い雨が降っていた。
明日の朝には、私の部屋に真新しいドラム式洗濯機が届く。
これが泣いても笑っても「最後の夜」。私は、最後の洗濯物を詰め込んだ青いIKEAのバッグを抱え、水滴で曇った重たいガラス扉の取っ手に手をかけた。
あの日と同じ雨。甘い柔軟剤の匂い。
でも、私の心だけが、あの日とは決定的に違っていた。この分厚い扉の向こうに、彼がいてほしい。そして同時に、いなくなっていてほしいとも願う、どうしようもなく矛盾した自分がいた。
扉を押し開けると、オレンジ色のプラスチックベンチに、彼はいた。
けれど、いつもと違うことが一つだけあった。彼の太ももの上で常に開かれていたあの文庫本が、今日はパタンと閉じられ、ベンチの横に無造作に置かれていたのだ。
「……読み終わったんですか?」
私が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを振り向いた。
「ああ。さっき、最後のページを捲った。長かったけど、まあ、悪くない結末だったよ」
彼の声は、いつもより少しだけ澄んで聞こえた。
ふと視線を落とすと、ベンチの横にあるゴミ箱の中に、見覚えのある色褪せた厚紙が捨てられているのが見えた。あの一年前の日付が印字された『ライブチケット』。
彼は、過去に挟んでいた栞を捨てたのだ。自分の足で次へ進むために。
私は無言で空いているドラムに衣類を放り込み、硬貨を投入した。
ピーッ、という音とともに、パネルに『40』の赤い数字が点灯する。これが、私たちに残された最後の時間だった。
ゴウン、ゴウン。
重低音が響き始める。私は彼から少し離れたベンチに腰を下ろした。雨音と、乾燥機の回る音だけが、密室を満たしていく。
「……明日が、来なければいいのに」
自分でも驚くほど、唐突にその言葉は口をついて出た。
昼間の世界に戻れば、また「完璧な自分」を演じなければならない。上司の顔色を窺い、シワ一つないブラウスを着て、笑顔で理不尽を飲み込む日々が待っている。
ここから一歩踏み出してしまえば、もうあの頃の私には戻れないような気がして、怖かった。
張り詰めていた糸が、プツンと切れた。
私の目から、ボロ、ボロと、堪えきれない涙が溢れ出した。声を出さないように必死に唇を噛み締めても、一度決壊した感情はもう止められなかった。
不意に、私の冷たい右頬に、熱い塊が押し当てられた。
ビクッとして顔を上げると、彼が自販機で買った温かい『缶のホットココア』を、私の頬にそっと押し当てていた。あの日、初めて泣きそうだった私にくれたのと同じ、甘くて熱いココア。
「お前さ、綺麗に畳まれてなきゃいけないって思いすぎなんだよ」
「え……?」
涙でぼやけた視界の中で、彼がいつものように、少しだけ面倒くさそうに頭を掻いた。
「シワくちゃでも、乾いてりゃとりあえず着られるだろ。完璧じゃなくても、明日を生きる服にはなる。だから、そんなに自分にアイロンかけようとするな」
その言葉は、乾燥機の重低音よりも深く、私の心の一番柔らかいところにストンと落ちてきた。
シワくちゃでもいい。完璧じゃなくてもいい。
彼がくれたその乱暴で不器用な言葉の魔法は、今まで私を縛り付けていた呪いを、いとも簡単に解いてしまった。不思議なことに、あれほど溢れていた涙が、ふっと嘘のように止まった。
ピーッ、ピーッ。
容赦のない無機質な電子音が、最後の四十分の終わりを告げた。
私は立ち上がり、ふわりと温かくなった衣類を、一つ残らずバッグに詰め込んだ。
「じゃあな、爆弾魔のターゲットさん。元気で」
ベンチから立ち上がった彼が、短く右手を挙げて背を向けた。
「……はい。あなたも」
呼び止める言葉は、もう必要なかった。連絡先も聞かない。名前も知らない。
それが、私たちが最後まで守り抜いた、美しくて確かなルールだから。
振り返ることもなく、彼は雨の夜の底へ、静かに溶けるように消えていった。
重たいガラス扉の向こう、一人残された私の手の中には、彼がくれたシワくちゃの魔法と、ホットココアの確かな温もりだけが、いつまでも残っていた。
外は、あの初めてこの場所を訪れた夜と同じような、冷たくて細い雨が降っていた。
明日の朝には、私の部屋に真新しいドラム式洗濯機が届く。
これが泣いても笑っても「最後の夜」。私は、最後の洗濯物を詰め込んだ青いIKEAのバッグを抱え、水滴で曇った重たいガラス扉の取っ手に手をかけた。
あの日と同じ雨。甘い柔軟剤の匂い。
でも、私の心だけが、あの日とは決定的に違っていた。この分厚い扉の向こうに、彼がいてほしい。そして同時に、いなくなっていてほしいとも願う、どうしようもなく矛盾した自分がいた。
扉を押し開けると、オレンジ色のプラスチックベンチに、彼はいた。
けれど、いつもと違うことが一つだけあった。彼の太ももの上で常に開かれていたあの文庫本が、今日はパタンと閉じられ、ベンチの横に無造作に置かれていたのだ。
「……読み終わったんですか?」
私が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを振り向いた。
「ああ。さっき、最後のページを捲った。長かったけど、まあ、悪くない結末だったよ」
彼の声は、いつもより少しだけ澄んで聞こえた。
ふと視線を落とすと、ベンチの横にあるゴミ箱の中に、見覚えのある色褪せた厚紙が捨てられているのが見えた。あの一年前の日付が印字された『ライブチケット』。
彼は、過去に挟んでいた栞を捨てたのだ。自分の足で次へ進むために。
私は無言で空いているドラムに衣類を放り込み、硬貨を投入した。
ピーッ、という音とともに、パネルに『40』の赤い数字が点灯する。これが、私たちに残された最後の時間だった。
ゴウン、ゴウン。
重低音が響き始める。私は彼から少し離れたベンチに腰を下ろした。雨音と、乾燥機の回る音だけが、密室を満たしていく。
「……明日が、来なければいいのに」
自分でも驚くほど、唐突にその言葉は口をついて出た。
昼間の世界に戻れば、また「完璧な自分」を演じなければならない。上司の顔色を窺い、シワ一つないブラウスを着て、笑顔で理不尽を飲み込む日々が待っている。
ここから一歩踏み出してしまえば、もうあの頃の私には戻れないような気がして、怖かった。
張り詰めていた糸が、プツンと切れた。
私の目から、ボロ、ボロと、堪えきれない涙が溢れ出した。声を出さないように必死に唇を噛み締めても、一度決壊した感情はもう止められなかった。
不意に、私の冷たい右頬に、熱い塊が押し当てられた。
ビクッとして顔を上げると、彼が自販機で買った温かい『缶のホットココア』を、私の頬にそっと押し当てていた。あの日、初めて泣きそうだった私にくれたのと同じ、甘くて熱いココア。
「お前さ、綺麗に畳まれてなきゃいけないって思いすぎなんだよ」
「え……?」
涙でぼやけた視界の中で、彼がいつものように、少しだけ面倒くさそうに頭を掻いた。
「シワくちゃでも、乾いてりゃとりあえず着られるだろ。完璧じゃなくても、明日を生きる服にはなる。だから、そんなに自分にアイロンかけようとするな」
その言葉は、乾燥機の重低音よりも深く、私の心の一番柔らかいところにストンと落ちてきた。
シワくちゃでもいい。完璧じゃなくてもいい。
彼がくれたその乱暴で不器用な言葉の魔法は、今まで私を縛り付けていた呪いを、いとも簡単に解いてしまった。不思議なことに、あれほど溢れていた涙が、ふっと嘘のように止まった。
ピーッ、ピーッ。
容赦のない無機質な電子音が、最後の四十分の終わりを告げた。
私は立ち上がり、ふわりと温かくなった衣類を、一つ残らずバッグに詰め込んだ。
「じゃあな、爆弾魔のターゲットさん。元気で」
ベンチから立ち上がった彼が、短く右手を挙げて背を向けた。
「……はい。あなたも」
呼び止める言葉は、もう必要なかった。連絡先も聞かない。名前も知らない。
それが、私たちが最後まで守り抜いた、美しくて確かなルールだから。
振り返ることもなく、彼は雨の夜の底へ、静かに溶けるように消えていった。
重たいガラス扉の向こう、一人残された私の手の中には、彼がくれたシワくちゃの魔法と、ホットココアの確かな温もりだけが、いつまでも残っていた。

