真夜中のコインランドリーみたいな恋だった

 木曜日の夕方。
 仕事から帰宅した私のマンションの郵便受けに、一枚の無機質なプリントが投函されていた。
『全戸一斉・排水管高圧洗浄のお知らせ』
 来週の月曜日に行われるその作業のためには、防水パンの上に鎮座している壊れた洗濯機をどかさなければならない。管理会社に電話をかけると、「水漏れの危険があるので、壊れているなら早急に買い替えるか撤去してください」と冷たく事務的に告げられた。

 いつかは直さなきゃいけない。わかっていたことだ。
 それでも、いざ強制的に期限を切られると、足元からグラグラと床が崩れていくような感覚がした。
 私はその足で駅前の家電量販店へ向かい、店員に勧められるがまま、一番早く届くドラム式洗濯機を購入した。

 搬入日は、三日後の日曜日。
 つまり、私が深夜にあの青いIKEAのバッグを引きずって夜の街を歩くのは、あと数回で終わってしまう。

 その夜、コインランドリーの重たいガラス扉を押し開ける私の手は、ひどく冷たかった。
 ムワッとした熱気と甘い匂い。オレンジ色のベンチには、今日も彼が座っていた。
「こんばんは」と声をかけ、隣に座ろうとして――私は息を呑んだ。

 彼の太ももの上に乗せられた文庫本。
 一ヶ月前からずっと、数ページしか進んでいなかったはずの『色褪せたチケットの栞』が、いきなり本の後半――残り数ページという分厚い束の隙間に挟まっていたのだ。

「……ずいぶん、本進みましたね」

 動揺を隠すように私が言うと、彼は本から顔を上げずに「ん?」と気だるげに喉を鳴らした。

「ああ。急に活字の神様が降りてきてさ。一気に読んじゃった」
「……」
「どうした?なんか今日、顔色悪いぞ。また爆弾魔の上司に怒られたか?」

 彼がいつものようにからかうような視線を向けてくる。
 私は膝の上で両手をきつく握りしめ、大きく息を吸い込んだ。

「……私、今度の日曜日に、新しい洗濯機が届くんです」

 声が震えないように必死だった。
『え、もう来ないの?』『そっか、寂しくなるな』――そんな、少しでも私を引き止めてくれるような言葉を、心のどこかで期待していた。

 しかし、彼は一瞬だけ驚いたように目を見開いた後、ふっと、これまでで一番柔らかく、澄んだ笑顔を見せた。

「そっか。よかったな。あのダサい青いバッグとも、お別れだ」
「……ええ」
「何キロ用?乾燥機能はちゃんとついてるやつにしたのか?」
「はい……八キロの、乾燥機能付きです。最新の」
「おお、大出世じゃん。これでもう、いびきかいて寝落ちして、風邪ひく心配もないな」

 明るく、現実的な話題。彼は心から私の「昼間の生活」が元に戻ることを祝福しているようだった。
 寂しがってくれない。
 その事実が胸の奥をギリギリと締め付けたけれど、同時に、それが彼の『本当の優しさ』なのだということに気づいてしまった。

 彼は私を、この夜のコインランドリーに閉じ込める気なんて、最初からなかったのだ。
 私が自分の足で、明るい朝の光の中へ歩き出せるようになるまで。ただ隣で、雨宿りに付き合ってくれていただけ。
 彼自身もまた、あの一年前で止まったままのチケットに区切りをつけ、前へ進もうとしているように。

「……そうですね」

 私は無理に口角を上げて笑い、立ち上がってドラムに衣類を放り込んだ。
 振り返ると、彼は再び文庫本に目を落としていた。でも、私は見てしまった。彼が左手で握りしめている空の缶コーヒー、その指の関節が、微かに白くなるほど力が入っていることを。

 硬貨を投入口に滑り込ませる。
 ピーッ、という電子音とともに、パネルに『40』の赤い数字が点灯した。
 ゴウン、ゴウンと、重低音を響かせて機械が回り始める。

 いつもと同じ、四十分のタイマー。
 でも今日の私には、それがただの乾燥時間ではなく、私たちの関係の終わりを告げる『時限爆弾のカウントダウン』に見えた。

 日曜日まで、あと三日。
 私が彼と共有できる夜の魔法は、もうすぐ綺麗に洗い上げられて、終わる。
 私はパネルの赤い数字を見つめたまま、滲みそうになる視界を必死に瞬きで誤魔化した。