真夜中のコインランドリーみたいな恋だった

 駅前のドラッグストアで、いつもは手に取らない少しだけ高価な柔軟剤を買った。
 パッケージには『華やかに咲き誇る、エレガント・フローラルの香り』と、仰々しいキャッチコピーが踊っている。

 仕事はあの発注ミスからようやく持ち直し、週末には壊れたままの洗濯機の修理業者を呼ぶ時間もあった。スマートフォンで検索すれば、ものの数秒で電話番号は出てくる。けれど、私はわざとその画面を閉じ、空のままの洗濯槽を見なかったことにして、青いIKEAのバッグに衣服を詰め込んだ。

 ――服を綺麗にするためではなく、彼に会うためにここへ来ている。

 その痛いほどの自覚を誤魔化すように、私は新しい柔軟剤のボトルを握りしめ、わざわざ面倒な手順を踏んで夜の街へ出た。

 水滴のついた重たいガラス扉を押し開ける。
 彼はいつものように、オレンジ色のプラスチックベンチに座り、少しだけ進んだ文庫本を開いていた。
 空いているドラムに衣類を放り込み、買ってきたばかりの柔軟剤を注ぐ。スタートボタンを押してしばらくすると、熱気とともに、いつもとは違う華やかで上品な香りが密室の空気を塗り替えていった。

「……なんか、今日匂い違くない?」

 不意に、ページをめくる手を止めた彼が口を開いた。

「わかります?ちょっといい柔軟剤に変えたんです。気分転換に」

 私は内心の鼓動が跳ねるのを悟られないよう、できるだけ平坦な声を作って答えた。

「ふーん。まあ、悪くないけど。俺は前の、どこのスーパーでも売ってる安っぽい石鹸の匂いの方が、あんたの寝顔には合ってたと思うけど」
「寝顔に匂いなんて関係ないでしょ!っていうか、安っぽいって失礼ですね」
「はいはい。出世おめでとうございます」

 彼は喉の奥でくくっと笑いながら、再び文庫本に視線を落とした。
 憎まれ口を叩かれながらも、私の胸の奥には、隠しきれない小さな甘い熱が広がっていた。彼が、私の些細な変化に気づいてくれた。ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しい。

 ふと、ランドリーの大きなガラス窓に目をやった私は、微かに息を呑んだ。
 インクを流し込んだように真っ暗だったはずの景色が、うっすらと青白く変わり始めている。アスファルトの輪郭が、少しずつ夜の底から浮かび上がってきていた。

 季節は確実に進んでいて、夜明けの時間は早くなっている。
 今まで、私たちは「完全な夜」という分厚い壁に守られていた。けれど、朝が来れば魔法は解け、二人はそれぞれの現実へ帰らなければならない。

 朝の光の下を歩く彼は、どんな顔をしているんだろう。
 どんな仕事をして、どんな人たちと笑い合うんだろう。
 あの一年前で止まったままのチケットの持ち主は、昼間の世界で、どんな声で話すんだろう。

『この後、朝ごはんでも食べに行きませんか?』

 そんな、昼間の世界ならありふれた誘い文句が、喉の奥まで込み上げてきた。ほんの少しの勇気を出して、言葉にするだけでいい。それだけで、私たちはただの「深夜の共犯者」から、その先へ進めるかもしれない。

 ピーッ、ピーッ。

 容赦のない無機質な電子音が、私の思考を強制的に断ち切った。四十分間の、終わり。

「……明るくなってきたな」

 彼はパタンと文庫本を閉じ、ゆっくりと伸びをしながらベンチから立ち上がった。

「そろそろ、夜行性の連中は巣に帰る時間だ」
「……そう、ですね」

 バッグに衣服を詰め込む私の手は、微かに震えていた。
 喉まで出かかった「朝ごはん」という単語を、どろりとした感情ごと無理やり飲み込む。

 詮索しない。踏み込まない。
 そうやって自分たちで築き上げた心地よい関係は、一歩でも外の世界――朝の光の中――に踏み出せば、ガラスみたいに呆気なく壊れてしまう気がしたからだ。
 もし断られたら。もし、彼にとってこの場所が「名前も知らないからこそ意味がある場所」だったとしたら。私は、この唯一の安全地帯すらも失ってしまう。

 私には、彼を引き止める権利がない。本当の名前すら知らないのだから。

 白み始めた空から逃げるように、私は重たいバッグを肩にかけ、彼に背を向けた。
 自分を守るために作ったはずのルールが、今は呼吸すら苦しくなるほどの呪縛となって、私の恋心をきつく締め付けていた。