真夜中のコインランドリーみたいな恋だった

 水曜日の深夜。
 水滴でびっしりと曇ったコインランドリーの重たいガラス扉を押し開けると、いつものようにムワッとした熱気と、甘い柔軟剤の匂いが私を包み込んだ。

 今日の私は、いつものような「死にそうな顔」はしていなかったはずだ。
 昼間の会議で、珍しく私の提案した小さな企画がそのまま通った。ほんの些細なことだけれど、すり減りきっていた心に「三十パーセント」くらいの充電が戻ってきたような、そんな心地よい疲労感があった。

 自動販売機で買った温かいミルクティーのペットボトルを二本、コートのポケットに突っ込んで歩いてきた。
 オレンジ色のプラスチックベンチには、今日も彼がいた。ヨレヨレの黒いTシャツに、季節感の狂ったサンダル。そして、太ももの上にはいつもの進まない文庫本。

 ここに来るのが、息苦しい現実からの『逃避』から、いつしか欠かせない『日課』になりつつある。
 私の部屋の洗濯機は相変わらず壊れたままで、直すための電話番号を調べる気力も、もうとうに失せていた。直してしまえば、ここに来る理由がなくなってしまうからだ。

「こんばんは」

 私が声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。

「ん」
「これ、今日の利子です」

 私はポケットから温かいペットボトルを取り出し、彼に向かって差し出した。
 彼が「どうも」と少しだけ身を乗り出してそれを受け取ろうとした、その瞬間だった。

 スルリ、と。
 彼の膝の上でバランスを崩した文庫本が、傾いた。
 バサッと音を立てて床に落ちた本の中から、一枚の紙切れがヒラリと滑り落ち、私の足元に舞い降りた。

「あっ……」

 私が反射的にしゃがみ込み、その紙切れを拾い上げる。
 それは、何度も指でなぞられたのか、角がひどく擦り切れて色褪せた、長方形の厚紙だった。
 指先に触れたその紙の正体に、私の目は自然と釘付けになった。

『インディーズバンド・ライブチケット』

 活字の下には、小さなライブハウスの名前と、ちょうど一年前の日付が印字されている。そして、出演者の欄には『AKI』という文字が、薄れかけたインクで確かに刻まれていた。

 一年前。
 擦り切れたチケット。
 彼が、この深夜のコインランドリーからずっと抜け出せずにいる理由。
 点と点が繋がったような感覚が、私の背筋を冷たく撫でた。これが、彼の時間が止まってしまった本当の理由なのだと、直感で悟った。

 顔を上げると、彼と視線がぶつかった。
 彼の顔は、これまで見たことがないほど強張っていた。「見られた」「聞かれる」――そんな無防備で、傷ついた獣のような警戒心が、彼の凪いだ瞳を鋭く尖らせている。
 空気が、ピンと張り詰めた。
 乾燥機のゴウン、ゴウンという重低音だけが、やけに大きく響く。

 私は、ゆっくりと立ち上がった。
 そして、彼の手のひらに、その色褪せた紙切れをそっと乗せた。

「はい、栞。落としましたよ」

 一年前の日付にも、そこに印字された名前にも、一切触れずに。ただの「紙切れ」として。

「……あ、ああ。サンキュ」

 彼は微かに声のトーンを揺らしながら、チケットを素早く文庫本の中に挟み込み、パタンと閉じた。
 その強張った肩のラインを見つめながら、私はわざとらしく首を傾げてみせた。

「でも、それじゃあ栞の役目を果たせてませんね」
「なんで?」
「だって、一ヶ月前から挟まってるページ、数ミリも進んでないじゃないですか。挟む場所、間違えてるんじゃないですか?」

 私の言葉に、彼は一瞬だけきょとんとした顔をした後、フッと短く息を吐き出した。
 張り詰めていた空気が、風船の空気が抜けるように緩んでいくのが分かった。

「うるさいな。今日は二行進んだんだよ」

 彼がいつもの面倒くさそうな、飄々とした態度で口を尖らせる。

「二行?それはすごい進歩ですね。じゃあ、あと十年くらいで読み終わるかもしれませんね」
「放っとけ」

 彼はそう言って、私が買ってきたミルクティーのキャップを捻った。
 私も自分の分のキャップを開け、彼から少し離れたベンチの端に腰を下ろす。甘く温かい液体が、喉の奥をじんわりと滑り落ちていった。

 一年前で止まったままのチケット。
 彼が本当は何者で、何を諦めて、どうしてこの深夜に漂っているのか。詳しい理由は何もわからない。
 でも、彼が私がベンチで口を開けて眠っていた時、「いびきがうるさかったから」と誤魔化して百円玉を入れてくれたように。
 私も、彼が落とした過去の残骸を、ただの「栞」として返すことができる。

 詮索しない。踏み込まない。
 ゴウンゴウンと規則正しく回る乾燥機の音を聞きながら、私はペットボトルを両手で包み込んだ。
 相手の傷に触れないこと。それが、私が彼にできる唯一の、そして不器用な恩返しだった。