真夜中のコインランドリーみたいな恋だった

 魔の金曜日、というより、正確には土曜の午前二時。
 一週間の理不尽な激務をすべて終えた私の身体は、体力も精神力も完全に「残量一パーセント」の赤いランプが点滅していた。

 泥のように眠りたい。一秒でも早くベッドに倒れ込んで、意識のスイッチを切りたい。
 それなのに、私は今日も水分を含んで暴力的な重さになったIKEAの青いバッグを引きずり、夜の底を歩いている。明日のために、どうしても洗っておかなければならないブラウスがあるからだ。
 どうして生きるって、こんなにも手回しが必要なのだろう。
 今日は途中で遠回りをして、あの自動販売機の温かい缶コーヒーを買う気力すら残されていなかった。

 重たいガラス扉を押し開ける。
 ムワッとした熱気と、甘い柔軟剤の匂い。
 定位置のオレンジ色のベンチには、今日も相変わらず彼が座っていた。

「……こんばんは」

 掠れた、消え入るような声で挨拶をする。
 彼は手元の文庫本から視線を上げず、ただ短く「ん」とだけ返した。気の利いた冗談を言う余裕もなく、私は空いている洗濯機に衣類を放り込み、洗剤を入れて『40分』のタイマーボタンを押し込んだ。

 ゴウン、ゴウン。
 重たいドラムが回り始め、腹の底に響くような低い重低音が密室を満たす。
 私はフラフラと歩み寄り、彼から少し離れたベンチの端に腰を下ろした。プラスチックの硬い座面が、今は高級なソファのように感じられる。
 温かい空気。規則正しい機械のホワイトノイズ。
 強張っていた全身の筋肉が溶け出し、私は抗う間もなく、深く暗い意識の底へと引きずり込まれていった。

 *

 ハッ、と短い息を吸い込んで、私は勢いよく顔を上げた。
 首の裏に嫌な汗をかいている。
 やってしまった。
 慌てて鞄の中からスマートフォンを引っ張り出し、画面の時計を見る。時刻は午前三時半。
 洗濯を回し始めてから、すでに一時間以上が経過していた。

 血の気が引く思いで顔を上げ、そして、不自然な光景に息を呑んだ。
 乾燥終了を知らせる『ピーッ』という無機質なアラーム音は、まだ鳴っていない。
 それどころか、私の目の前にある巨大なドラムは、相変わらずゴウン、ゴウンと心地よい重低音を響かせながら回り続けている。
 パネルに点灯している赤い数字は『10』。

「え……?」

 間の抜けた声が出た。
 乾燥機が勝手に時間を延長するわけがない。考えられる可能性は、ただ一つしかなかった。

「あの……これ、もしかして」
「ああ」

 隣から降ってきた短い返事。彼は文庫本に目を落としたまま、面倒くさそうにページをめくった。

「あんたの服、なんかすごく乾きにくそうだったから。念のため追加しといた」
「……私、寝てましたよね」
「いびきがうるさくて読書に集中できなかったからな。静寂を買うための、追加の百円玉だ」

 ざらついた、無愛想な声。
 私はカッと顔が熱くなるのを感じて、思わず両手で口元を覆った。

「い、いびきなんて……!」
「冗談だよ。ただ、口は開いてた」

 彼が微かに口角を上げて笑う。
 バツが悪くて俯くと、心臓の奥のほうで、じんわりと温かいものが広がっていくのが分かった。
 彼は「疲れてるみたいだったから寝かせておいた」とは決して言わない。「服が乾きにくそうだったから」「いびきがうるさかったから」という乱暴な嘘で、私に一切の気を使わせないようにしている。

 両替機で千円札を弾かれて泣きそうになっていた夜、彼は「読書の邪魔だから」と言って百円玉を入れてくれた。
 そして今夜、彼は私の無防備な眠りを妨げないために、ただ無言で百円玉を追加し、時間を引き延ばしてくれたのだ。

 私は、ぐるぐると回り続ける乾燥機のなかのタオルを見つめた。
『大丈夫?』と声をかけるのは簡単だ。でも彼は、何も聞かずにただ百円玉を入れ、私のために眠りの時間を延長してくれた。

 乾燥機が回る音だけが響くこの密室で、私は強烈な安心感に包まれながら、もう一度ゆっくりと目を閉じた。