真夜中のコインランドリーみたいな恋だった

 金曜の夜。
 ポストに突っ込まれていた光沢のあるチラシには、赤と黄色の暴力的なフォントで『ドラム式洗濯機・決算大特価セール』と印字されていた。
 私はそのツルツルとした紙の感触を指先で数秒だけなぞり、見なかったことにして二つに折りたたみ、そのままゴミ箱の底へ押し込んだ。

 外は、肺の奥がひりつくような冬の匂いがした。
 いつもなら最短ルートで真っ直ぐに向かうはずの道程を、今日はなぜか無意識に迂回していた。薄暗い住宅街の角で、自動販売機の白々しい蛍光灯がアスファルトに四角い光の海を作っている。
 小銭を入れ、赤いランプの灯るボタンを二度押した。
 ガコン、ガコン、と鈍い音を立てて落ちてきたのは、ずんぐりとした短いスチール缶。
 コートのポケットに二つの熱い塊をねじ込むと、太ももの外側に火傷しそうなほどの温度が伝わってくる。

 ――あの百円玉を、ずっと返しそびれていたから。

 ただそれだけの理由だ、と、白く濁る吐息と一緒に誰にともなく言い訳をしながら、私は夜の底を歩いた。

 水滴で曇った重たいガラス扉を押し開ける。
 ムワッとした熱気と、人工的なフローラル系の香りが私の頬を撫でた。
 ゴウン、ゴウンと重低音を響かせる巨大なドラムの前。色褪せたオレンジ色のプラスチックベンチに、今日も彼はいた。季節感の狂ったサンダルと、読みかけの文庫本。まるでこの空間の備品の一部のように、彼はそこから動いていない。

 私は真っ直ぐに彼の隣へ歩み寄ると、ベンチの空いたスペースに銀色の百円玉と、熱を持ったスチール缶をドンと置いた。

「……なにこれ。お供え物?」

 ページからゆっくりと視線を上げた彼は、私の顔とスチール缶を交互に見比べて、怪訝そうに眉をひそめた。

「この前の百円玉と、その利子です」
「利子が『おしるこ』って、どこの闇金だよ。そもそもこんな深夜に飲むもんじゃないだろ。胃がもたれる」
「文句を言うなら没収します」
「飲むよ。ありがたく頂戴しますよ」

 彼は面倒くさそうにため息をつきながらも、すぐにプルタブに指をかけた。
 カシュッ、という小気味良い音とともに、洗剤の埃っぽい匂いに混じって、小豆の暴力的なまでの甘い香りが漂い始める。
 熱そうに少しだけ顔をしかめながら、彼はおしるこを一口すすった。気を使わずに文句を言い、気を使わずに受け取る。いつの間にか出来上がっていたこの不器用なやり取りの反復が、私の強張った肩のラインを少しずつ解いていく。

 私も自分の分のプルタブを開け、甘ったるい液体を喉の奥へ流し込んだ。
 ふと、彼の太ももの上に伏せられた文庫本に視線が落ちた。古い紙の匂い。そして、小口から飛び出している薄い紙の栞。
 私は、それに気がついてしまった。

 栞の位置が、初めてこの場所で出会った三週間前から、数ページ分しか進んでいないことに。

「……その本、随分長く読んでますね」

 おしるこの熱で麻痺した舌が、思わずそんな言葉を滑らせていた。
 彼は缶から口を離し、自分の手元の文庫本を無表情に見下ろした。

「ん? ああ。活字を噛み締めてるんだよ。一日一行ペースでな」

 淀みのない、綺麗な返答だった。
 けれど、嘘だ、と思った。
 彼は、ここへ本を読みに来ているわけじゃない。私と同じだ。自分の部屋の冷たい静寂から逃れ、どうしようもない夜の時間をやり過ごすためだけに、このシェルターのオレンジ色のベンチに座り続けているのだ。
 活字を追うふりをして、進まない物語の途中で、彼はずっと立ち止まっている。

『――本当は、何から逃げているの?』

 喉の奥までせり上がってきたその言葉を、私は、どろりとしたおしるこの甘さごと、ゆっくりと胃の底へ呑み込んだ。

 聞いてはいけない。踏み込んではいけない。
 私たちがただの『靴下を失くした誰か』でいるためには、その境界線を越えることだけは絶対に許されなかった。

 ピーッ、ピーッ。

 不意に、乾燥機の無機質な電子音が四十分間の終わりを告げた。
 彼は立ち上がり、ベンチの横にあるゴミ箱へ空になったスチール缶を放り投げた。カラン、と軽い音が響く。

「甘ったるくて最悪だった」
「……来週は、ブラックコーヒーにします」

 ふふっ、と笑いながら自然と口をついて出た『来週』という単語に、自分でも少しだけ驚いた。

「……洗濯機、まだ直ってないのな」
「業者が、忙しいみたいで」

 私は、まだ一文字も電話番号を押していない修理業者のことを思い浮かべながら、平然と嘘をついた。
 彼は何も言わず、ただ短く「ふーん」とだけ喉を鳴らした。

 彼が進まない文庫本を開き続けているように。
 私が、当分洗濯機を直す気がないことを、彼はお見通しなのだろう。

 詮索しない。踏み込まない。
 重たいガラス扉の向こう、雨上がりの冷え切った夜気の中へ別々に歩き出しながら、私はコートのポケットで空になった缶をそっと握りしめた。
 私たちは、そんな優しい嘘を許し合う、深夜の共犯者だった。