「業者の手配が、どうしても今週はいっぱいで」
誰に聞かれたわけでもない言い訳を舌の上で転がしながら、私は再び水を含んで重くなった青いバッグを引きずり、夜の底を歩いていた。
あれから三日後の、深夜二時。
水滴で曇った重たいガラス扉の取っ手に手をかける。冷え切った指先が金属の冷たさを弾いた直後、ムワッとした熱気と甘い柔軟剤の匂いが、待っていたとばかりに私を包み込んだ。
ゴウン、ゴウン。
一定のリズムで重低音を響かせる巨大なドラム。その前のオレンジ色のプラスチックベンチには、三日前とまったく同じ姿勢で、ヨレヨレの黒いTシャツを着た彼が座っていた。
「……こんばんは」
「ん」
文庫本から視線を上げることもなく、彼は短く喉を鳴らしただけだった。
私は少しだけ肩をすくめ、一番端の空いている洗濯機に衣類を放り込む。硬貨を投入し、重たい蓋を閉める。水が流れ込む激しい音が響き始めた。
ベンチの端に腰を下ろしたものの、私の心臓は不快な速度で脈打っていた。
もし、「この前の仕事のミス、どうなった?」と聞かれたら。
あるいは、「あんな夜中に電話してくるなんて、どんな会社なの?」と探られたら。
心配されるのは、頭ではありがたいと分かっている。けれど、この埃っぽい熱気に満ちた安全地帯にまで、あのヒリヒリとした現実の続きを持ち込みたくはなかった。膝の上で、両手の指先をきつく組み合わせる。
分厚いガラスの向こう側は、インクを流し込んだような黒。沈黙だけが、乾燥機のホワイトノイズに溶けていく。
「あんたさ」
不意に、ざらついた声が鼓膜を揺らした。
ビクッと肩が跳ねる。身構えた私の視界の端で、彼は相変わらず古い紙のページに目を落としたまま、ゆっくりと口を開いた。
「洗濯機の中に、ブラックホールがあるって知ってる?」
「……は?」
予想外の単語に、喉の奥で息が詰まった。
「靴下だよ。洗う前は絶対二つあったのに、干す時になると片方消えてるだろ。あれ、異次元に吸い込まれてるんだよ」
「……」
張り詰めていた筋肉が、ひどく間の抜けた音を立てて弛緩していくのが分かった。
私は小さく息を吐き出し、ベンチの背もたれに体重を預けた。
「……ただの入れ忘れか、洗濯槽の裏側に落ちてるだけですよ」
「夢がないな、爆弾魔のターゲットさんは」
彼は面倒くさそうにページをめくった。ペラッ、という乾いた音が、どうしようもなくおかしい。
聞かないのだ、この人は。
私の会社での失態も、上司からの罵声も、すり減った自尊心も。
『大丈夫?』『あの件、どうなった?』
昼間の世界は、優しさという綺麗な包装紙に包まれた干渉であふれている。それに笑顔で応え続けることに、私はどれほど疲弊していたのだろう。
詮索しない。事情に踏み込まない。ただ「片方の靴下がなくなる」というどうでもいい事象だけが、私たちの間に横たわっている。その無関心な距離感が、今の私にはたまらなく心地よかった。
ピーッ、ピーッ。
電子音が鳴り、ドラムの回転が止まる。
私は立ち上がり、生乾きの衣類を一つずつ折りたたんでバッグへ移し始めた。ブラウス、タオル、ストッキング。そして――。
「……あっ」
手元に残った、黒いショート丈の靴下。
底のほうまでバッグを探っても、洗濯機の中を覗き込んでも、もう片方はどこにも見当たらなかった。
「ほらな」
背後から、勝ち誇ったような声が降ってきた。
振り返ると、彼が今日初めてこちらに顔を向け、口角を微かに上げていた。
その腹の立つほど得意げな表情を見た瞬間、私の口から、ふふっ、と不器用な笑い声がこぼれ落ちた。一度笑い出すと、もう止まらなかった。深夜のコインランドリーで、片方だけの靴下を握りしめて笑い転げる女。控えめに言って異常だ。でも、呼吸をするのが、こんなに楽なのはいつぶりだろう。
「……もし異次元で私の黒い靴下を見つけたら、拾っておいてください」
帰り際、重たいバッグを肩にかけながら、私は彼に背を向けたまま言った。
「奇遇だな。俺も右足のグレーの靴下が吸い込まれたままだ。見つけたら交換な」
背後から投げられた適当な返事に、私はただ小さく頷き、重たいガラス扉を押し開けた。
外の空気は、肺が凍りつくほどに冷たい。
ガラス扉の向こう側は、私の本当の名前を呼び、完璧なアイロンがけを強要する現実世界。でも、あの四角い部屋の中だけは、ただ「靴下を失くした誰か」でいられる。
深く立ち入らない。本当の名前も聞かない。
それが、真夜中の底で私たちだけが共有する、静かで確かなルールになった。
誰に聞かれたわけでもない言い訳を舌の上で転がしながら、私は再び水を含んで重くなった青いバッグを引きずり、夜の底を歩いていた。
あれから三日後の、深夜二時。
水滴で曇った重たいガラス扉の取っ手に手をかける。冷え切った指先が金属の冷たさを弾いた直後、ムワッとした熱気と甘い柔軟剤の匂いが、待っていたとばかりに私を包み込んだ。
ゴウン、ゴウン。
一定のリズムで重低音を響かせる巨大なドラム。その前のオレンジ色のプラスチックベンチには、三日前とまったく同じ姿勢で、ヨレヨレの黒いTシャツを着た彼が座っていた。
「……こんばんは」
「ん」
文庫本から視線を上げることもなく、彼は短く喉を鳴らしただけだった。
私は少しだけ肩をすくめ、一番端の空いている洗濯機に衣類を放り込む。硬貨を投入し、重たい蓋を閉める。水が流れ込む激しい音が響き始めた。
ベンチの端に腰を下ろしたものの、私の心臓は不快な速度で脈打っていた。
もし、「この前の仕事のミス、どうなった?」と聞かれたら。
あるいは、「あんな夜中に電話してくるなんて、どんな会社なの?」と探られたら。
心配されるのは、頭ではありがたいと分かっている。けれど、この埃っぽい熱気に満ちた安全地帯にまで、あのヒリヒリとした現実の続きを持ち込みたくはなかった。膝の上で、両手の指先をきつく組み合わせる。
分厚いガラスの向こう側は、インクを流し込んだような黒。沈黙だけが、乾燥機のホワイトノイズに溶けていく。
「あんたさ」
不意に、ざらついた声が鼓膜を揺らした。
ビクッと肩が跳ねる。身構えた私の視界の端で、彼は相変わらず古い紙のページに目を落としたまま、ゆっくりと口を開いた。
「洗濯機の中に、ブラックホールがあるって知ってる?」
「……は?」
予想外の単語に、喉の奥で息が詰まった。
「靴下だよ。洗う前は絶対二つあったのに、干す時になると片方消えてるだろ。あれ、異次元に吸い込まれてるんだよ」
「……」
張り詰めていた筋肉が、ひどく間の抜けた音を立てて弛緩していくのが分かった。
私は小さく息を吐き出し、ベンチの背もたれに体重を預けた。
「……ただの入れ忘れか、洗濯槽の裏側に落ちてるだけですよ」
「夢がないな、爆弾魔のターゲットさんは」
彼は面倒くさそうにページをめくった。ペラッ、という乾いた音が、どうしようもなくおかしい。
聞かないのだ、この人は。
私の会社での失態も、上司からの罵声も、すり減った自尊心も。
『大丈夫?』『あの件、どうなった?』
昼間の世界は、優しさという綺麗な包装紙に包まれた干渉であふれている。それに笑顔で応え続けることに、私はどれほど疲弊していたのだろう。
詮索しない。事情に踏み込まない。ただ「片方の靴下がなくなる」というどうでもいい事象だけが、私たちの間に横たわっている。その無関心な距離感が、今の私にはたまらなく心地よかった。
ピーッ、ピーッ。
電子音が鳴り、ドラムの回転が止まる。
私は立ち上がり、生乾きの衣類を一つずつ折りたたんでバッグへ移し始めた。ブラウス、タオル、ストッキング。そして――。
「……あっ」
手元に残った、黒いショート丈の靴下。
底のほうまでバッグを探っても、洗濯機の中を覗き込んでも、もう片方はどこにも見当たらなかった。
「ほらな」
背後から、勝ち誇ったような声が降ってきた。
振り返ると、彼が今日初めてこちらに顔を向け、口角を微かに上げていた。
その腹の立つほど得意げな表情を見た瞬間、私の口から、ふふっ、と不器用な笑い声がこぼれ落ちた。一度笑い出すと、もう止まらなかった。深夜のコインランドリーで、片方だけの靴下を握りしめて笑い転げる女。控えめに言って異常だ。でも、呼吸をするのが、こんなに楽なのはいつぶりだろう。
「……もし異次元で私の黒い靴下を見つけたら、拾っておいてください」
帰り際、重たいバッグを肩にかけながら、私は彼に背を向けたまま言った。
「奇遇だな。俺も右足のグレーの靴下が吸い込まれたままだ。見つけたら交換な」
背後から投げられた適当な返事に、私はただ小さく頷き、重たいガラス扉を押し開けた。
外の空気は、肺が凍りつくほどに冷たい。
ガラス扉の向こう側は、私の本当の名前を呼び、完璧なアイロンがけを強要する現実世界。でも、あの四角い部屋の中だけは、ただ「靴下を失くした誰か」でいられる。
深く立ち入らない。本当の名前も聞かない。
それが、真夜中の底で私たちだけが共有する、静かで確かなルールになった。

