真夜中のコインランドリーみたいな恋だった

 バシャ、バシャ、という重たい水音。
 巨大なドラムの中で、水を吸い込んだ衣服が叩きつけられては転がる。その規則正しく暴力的なリズムは、なぜかひどく心地よかった。白々しい蛍光灯の光も、鼻腔を塞ぐような人工的な洗剤の匂いも、今はただの分厚い毛布のように私を外界から守ってくれている。

 ――ブーッ、ブーッ。

 唐突に、足元のPタイルに置いた鞄の奥底から、下品な振動音が這い出してきた。
 安物の合成皮革を震わせるその音に、私の心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。
 時刻は深夜二時半。ディスプレイに表示された名前など見なくてもわかる。今日、私が尻拭いをした上司からの着信だ。
 出たくない。出れば確実に、理不尽な言葉の泥を頭からぶつけられる。だが、無視すれば明日の朝、さらに陰惨な報復が待っている。
 一瞬にして血の気が引き、指先が氷のように冷たくなる。震える手で鞄の金属ジッパーに触れたまま、私は息を止めてフリーズしていた。

 パタン。

 不意に、紙の束が閉じられる乾いた音が響いた。
 ベンチから立ち上がった彼が、黒いコンバースの底を擦るようにして自動販売機へと歩いていく。ガコン、と重たいものが落ちる音。

「はい。時限爆弾の処理班からの差し入れ」

 私の目の前に、黄色いアルミニウムの缶が不躾に差し出された。
 呆然と見上げる私の手に、彼が半ば無理やりそれを押し付ける。熱い。じんじんと痺れるような温度が、凍りついていた手のひらに暴力的なほど伝わってきた。

「……時限爆弾?」
「さっきからずっと鳴ってんじゃん。爆発寸前だろ、あんたの顔」

 彼は自分の分の缶コーヒーのプルタブを引き開けながら、面倒くさそうに首を掻いた。

「……仕事の、連絡です」
「深夜の二時半に? そりゃ随分と熱心な爆弾魔だな」
「出ないと、明日……」
「無視しなよ。どうせ今出たって、ろくなこと言われないんだからさ」

 彼は私の鞄の中で震え続けるスマートフォンを一瞥し、ふい、と視線を外した。
 無責任で、乱暴な言葉。
 けれど、不思議なことに彼がそう言った途端、ブツンと糸が切れたように着信音が鳴り止んだ。
 ふたたび、ドラムの回る水音だけが密室を満たす。

 私は両手で黄色い缶を包み込んだ。
 カシュッ、と不器用な手つきで開けると、強い甘さと酸味を帯びたレモンの香りが、埃っぽい空気の膜を破って立ち上った。
 一口飲む。喉の奥を、火傷しそうなほどの熱が滑り落ちていく。

「……今日、すごく怒られたんです。私が悪いんですけど」

 気づけば、口が勝手に動いていた。
 誰にも言えなかった、言うつもりもなかった言葉が、レモネードの熱に溶かされて溢れ出す。

「ふーん」
 彼はコーヒーを飲みながら、壁に貼られた色褪せたポスターをぼんやりと眺めている。
「人を殺したとか?」
「えっ? 違います。ただの発注ミスで……」
「なんだ。じゃあ死刑にはならないな。セーフセーフ」

 慰めでもなんでもない、ひどく適当な相槌。
 でも、それが良かった。
 この人は、私の会社の名前も、私が昼間の世界でどれほど無能な人間なのかも知らない。だからこそ、シワだらけで情けない今の私を、ただ「死刑にはならない」という最低ラインで許容してくれる。
 熱い缶を握りしめる指先に、少しずつ血が巡っていくのを感じた。

 ピーッ、ピーッ。

 無機質な電子音が、深夜の沈黙を遮った。
 パネルの赤い『40』の数字が消え、『0』が点滅している。四十分間の、終わり。魔法が解ける合図。
 私は立ち上がり、重たいガラスの蓋を開けて、濡れて冷たくなった衣服をIKEAの青いバッグに放り込んでいく。乾燥機まで回すための百円玉を借りる図々しさは、私にはなかった。

「あの、レモネード、ごちそうさまでした。百円も……」
 水分を吸って鉛のように重くなった持ち手を握りしめ、ベンチの彼に向かって頭を下げる。
 彼は開いた文庫本から視線を上げることなく、空いた片手を軽く振った。

「いいよ、出世払いで。じゃあな、爆弾魔のターゲットさん」

 重たいガラス扉を押し開ける。
 外の世界は、相変わらず冷たい雨の針がアスファルトを打ち据えていた。
 ずぶ濡れの衣服が詰まったバッグは、来る時よりもずっと重い。けれど、レモネードの缶を握っていた右手には、芯から痺れるような小さな熱がまだ微かに残っていた。

 ――明日もまた、洗濯機は直らないままでいいかもしれない。

 フロントガラスを濡らす雨粒のように冷たい夜の底で、そんな馬鹿なことを少しだけ思った。