休日明けの、よく晴れた月曜日の朝。
私の部屋には、真新しいドラム式洗濯機の軽快な電子メロディが響き渡っていた。
『ピーッ、ピーッ』という、あの深夜の密室で聞いた無機質な警告音とは違う、明るく健康的な朝の音。
蓋を開けると、温かい空気とともに、綺麗に洗い上がった衣類がふわりと顔を覗かせた。
その中から、今日着ていく予定の白いブラウスを取り出す。最新の乾燥機能をもってしても、やはり裾や袖口には少しだけ細かなシワが寄っていた。
以前の私なら、ここで顔をしかめ、「完璧にアイロンをかけなきゃ」と息を詰まらせていただろう。アイロン台を引っ張り出し、焦りと苛立ちの中で時間をすり減らしていたはずだ。
でも今の私は、そのシワを両手でパンパンと軽く叩いて伸ばし、そのまま躊躇うことなく袖を通した。
洗面台の鏡の前に立ち、少しだけクタッとした襟元を見て、ふふっ、と自然に笑みがこぼれる。
――『シワくちゃでも、乾いてりゃとりあえず着られるだろ。完璧じゃなくても、明日を生きる服にはなる』
彼が最後の夜にくれた乱暴で優しいあの言葉は、今でも私の胸の一番深いところで、お守りのように息づいている。
*
昼間のオフィスは、相変わらず戦場のように慌ただしかった。
電話のコール音が鳴り響き、キーボードを叩く乾いた音が空間を埋め尽くす。
けれど、あの頃のような「張り詰めて今にも折れそうな空気」は、今の私にはない。
「すみません、結衣さん……! 昨日の発注書、また数字の桁を一つ間違えてしまって……」
私のデスクの横で、後輩の女の子が血の気を引かせた顔で頭を下げていた。少し前の私なら、自分の仕事が増える苛立ちから、冷たい言葉を浴びせていたかもしれない。上司から理不尽に怒鳴られたストレスを、無意識に彼女へぶつけていたかもしれない。
私はパソコンの画面から視線を外し、すっかり縮こまっている後輩の肩をポンと軽く叩いた。
「大丈夫。今から業者さんに連絡すれば、まだ間に合うから。それに……」
「それに……?」
「ミスの一つや二つで、命まで取られるわけじゃないからね。一緒に謝ってあげるから、顔を上げて」
私がそう言って笑いかけると、後輩はポカンと目を丸くした後、ホッとしたように泣きそうな顔で何度も頷いた。
相変わらず仕事は大変だし、理不尽なことは日常茶飯事だ。洗濯機の裏で、靴下の片方が異次元に吸い込まれて消えてしまうことだってある。
でも、もう深夜の街を、自分を責めながら泣いて歩くことはなくなった。
それは私が強くなったからではない。あの夜、オレンジ色のベンチで、「完璧じゃない、シワだらけの自分」を許容する強さを教えてもらったからだ。
*
季節が巡り、また冷たい雨が降る夜。
私は仕事帰りに、ふと無意識に遠回りをして、あの見慣れた住宅街の角を曲がっていた。
薄暗いアスファルトの先に、白々しい蛍光灯の光が四角く浮かび上がっている。
水滴で曇ったガラス窓。ゴウン、ゴウンと回っている巨大なドラム。
私は道の向かい側で立ち止まり、コートのポケットに両手を入れたまま、そのガラス越しに店内を覗き込んだ。
あの定位置のオレンジ色のベンチには、誰も座っていなかった。
読みかけの文庫本も、季節外れのサンダルも、ぶっきらぼうな声も、そこにはない。ただ、無機質な機械音が響く、ありふれた深夜のコインランドリーがあるだけだった。
私は少しだけ目を細め、ゆっくりと息を吐き出した。
中に入って彼を待とうとは思わなかった。不思議と寂しさはなく、ただ静かな感謝と、ひだまりのような懐かしさが胸の奥に広がっていく。
傍らの自動販売機で、赤いランプの灯るボタンを押す。ガコンと落ちてきたのは、ホット・レモネード。
あの日、両替機の前で泣いていた私に、彼が押し付けてきた甘くて温かい飲み物。
プルタブを開け、冷え切った両手でスチール缶を包み込む。一口飲むと、あの夜の生温かい柔軟剤の匂いと、彼の不器用な優しさが蘇ってくるようだった。
もし今、昼間の明るい駅のホームで彼とすれ違っても、きっとお互いに気づかないだろう。
連絡先も知らない。名前も知らない。
私たちの恋は、あの四角い熱の籠もった部屋の中だけで始まり、そして、静かに終わった。
彼は私にとって、真夜中のコインランドリーみたいな人だった。
冷え切って、泥だらけになって、もう自分ではどうしようもなくなった心を、ぐるぐると温めて、綺麗に洗い上げてくれた。
でも、そこはずっと居座るための場所じゃない。
雨宿りが終われば、朝が来れば、自分の足で現実の世界へ帰らなくちゃいけない場所だ。彼もまた、一年前で止まっていた自分の時間へと、ちゃんと帰っていったのだから。
雨が上がり、雲の切れ間から、うっすらと白み始めた朝の光がアスファルトを照らし始めた。
夜が終わる。
私は空になったレモネードの缶を、自販機横のゴミ箱に投げ入れた。カラン、と心地よい音が響く。
そして、もう二度と振り返ることなく、明るくなり始めた駅の方向へ向かって歩き出した。
私の名前のない恋は、報われなかった。
でも、あの生温かい柔軟剤の匂いと、少し乱暴な言葉の魔法が記憶の中にある限り。
私は今日も、少しだけシワの寄った服を着て、この完璧じゃない朝を生きていける。
私の部屋には、真新しいドラム式洗濯機の軽快な電子メロディが響き渡っていた。
『ピーッ、ピーッ』という、あの深夜の密室で聞いた無機質な警告音とは違う、明るく健康的な朝の音。
蓋を開けると、温かい空気とともに、綺麗に洗い上がった衣類がふわりと顔を覗かせた。
その中から、今日着ていく予定の白いブラウスを取り出す。最新の乾燥機能をもってしても、やはり裾や袖口には少しだけ細かなシワが寄っていた。
以前の私なら、ここで顔をしかめ、「完璧にアイロンをかけなきゃ」と息を詰まらせていただろう。アイロン台を引っ張り出し、焦りと苛立ちの中で時間をすり減らしていたはずだ。
でも今の私は、そのシワを両手でパンパンと軽く叩いて伸ばし、そのまま躊躇うことなく袖を通した。
洗面台の鏡の前に立ち、少しだけクタッとした襟元を見て、ふふっ、と自然に笑みがこぼれる。
――『シワくちゃでも、乾いてりゃとりあえず着られるだろ。完璧じゃなくても、明日を生きる服にはなる』
彼が最後の夜にくれた乱暴で優しいあの言葉は、今でも私の胸の一番深いところで、お守りのように息づいている。
*
昼間のオフィスは、相変わらず戦場のように慌ただしかった。
電話のコール音が鳴り響き、キーボードを叩く乾いた音が空間を埋め尽くす。
けれど、あの頃のような「張り詰めて今にも折れそうな空気」は、今の私にはない。
「すみません、結衣さん……! 昨日の発注書、また数字の桁を一つ間違えてしまって……」
私のデスクの横で、後輩の女の子が血の気を引かせた顔で頭を下げていた。少し前の私なら、自分の仕事が増える苛立ちから、冷たい言葉を浴びせていたかもしれない。上司から理不尽に怒鳴られたストレスを、無意識に彼女へぶつけていたかもしれない。
私はパソコンの画面から視線を外し、すっかり縮こまっている後輩の肩をポンと軽く叩いた。
「大丈夫。今から業者さんに連絡すれば、まだ間に合うから。それに……」
「それに……?」
「ミスの一つや二つで、命まで取られるわけじゃないからね。一緒に謝ってあげるから、顔を上げて」
私がそう言って笑いかけると、後輩はポカンと目を丸くした後、ホッとしたように泣きそうな顔で何度も頷いた。
相変わらず仕事は大変だし、理不尽なことは日常茶飯事だ。洗濯機の裏で、靴下の片方が異次元に吸い込まれて消えてしまうことだってある。
でも、もう深夜の街を、自分を責めながら泣いて歩くことはなくなった。
それは私が強くなったからではない。あの夜、オレンジ色のベンチで、「完璧じゃない、シワだらけの自分」を許容する強さを教えてもらったからだ。
*
季節が巡り、また冷たい雨が降る夜。
私は仕事帰りに、ふと無意識に遠回りをして、あの見慣れた住宅街の角を曲がっていた。
薄暗いアスファルトの先に、白々しい蛍光灯の光が四角く浮かび上がっている。
水滴で曇ったガラス窓。ゴウン、ゴウンと回っている巨大なドラム。
私は道の向かい側で立ち止まり、コートのポケットに両手を入れたまま、そのガラス越しに店内を覗き込んだ。
あの定位置のオレンジ色のベンチには、誰も座っていなかった。
読みかけの文庫本も、季節外れのサンダルも、ぶっきらぼうな声も、そこにはない。ただ、無機質な機械音が響く、ありふれた深夜のコインランドリーがあるだけだった。
私は少しだけ目を細め、ゆっくりと息を吐き出した。
中に入って彼を待とうとは思わなかった。不思議と寂しさはなく、ただ静かな感謝と、ひだまりのような懐かしさが胸の奥に広がっていく。
傍らの自動販売機で、赤いランプの灯るボタンを押す。ガコンと落ちてきたのは、ホット・レモネード。
あの日、両替機の前で泣いていた私に、彼が押し付けてきた甘くて温かい飲み物。
プルタブを開け、冷え切った両手でスチール缶を包み込む。一口飲むと、あの夜の生温かい柔軟剤の匂いと、彼の不器用な優しさが蘇ってくるようだった。
もし今、昼間の明るい駅のホームで彼とすれ違っても、きっとお互いに気づかないだろう。
連絡先も知らない。名前も知らない。
私たちの恋は、あの四角い熱の籠もった部屋の中だけで始まり、そして、静かに終わった。
彼は私にとって、真夜中のコインランドリーみたいな人だった。
冷え切って、泥だらけになって、もう自分ではどうしようもなくなった心を、ぐるぐると温めて、綺麗に洗い上げてくれた。
でも、そこはずっと居座るための場所じゃない。
雨宿りが終われば、朝が来れば、自分の足で現実の世界へ帰らなくちゃいけない場所だ。彼もまた、一年前で止まっていた自分の時間へと、ちゃんと帰っていったのだから。
雨が上がり、雲の切れ間から、うっすらと白み始めた朝の光がアスファルトを照らし始めた。
夜が終わる。
私は空になったレモネードの缶を、自販機横のゴミ箱に投げ入れた。カラン、と心地よい音が響く。
そして、もう二度と振り返ることなく、明るくなり始めた駅の方向へ向かって歩き出した。
私の名前のない恋は、報われなかった。
でも、あの生温かい柔軟剤の匂いと、少し乱暴な言葉の魔法が記憶の中にある限り。
私は今日も、少しだけシワの寄った服を着て、この完璧じゃない朝を生きていける。

