真夜中のコインランドリーみたいな恋だった

 最新の静かで高性能なドラム式洗濯機の扉を開けると、熱を帯びた真っ白なタオルが綺麗にほぐれていた。
 顔を近づけると、人工的で甘ったるいフローラル系の柔軟剤の匂いが鼻腔を撫でる。シワ一つない完璧な仕上がりに、指先が微かに躊躇した。

 彼と最後に会ってから、もうすぐ一年になる。
 私の部屋には今、この新しい洗濯機が静かに鎮座していて、もう深夜にずぶ濡れのまま家を飛び出す必要はない。

 連絡先も、本当の名前さえ知らない。
 それでも――。

 彼は私にとって、真夜中のコインランドリーみたいな人だった。
 冷え切った指先を温めてくれて、不恰好な私を許してくれて、でも、朝が来れば自分の足で帰らなくちゃいけない場所。決して、永遠にはいられない場所。
 雨の日のアスファルトの匂いを嗅ぐたび、私はあの場所の温度を思い出す。

 *

 半年前の深夜。
 季節外れの冷たい雨が、街灯の光を鋭く乱反射させていた夜。
 私は、水分を吸って鉛のように重くなったIKEAの青い巨大なバッグを引きずるようにして、人気のない歩道を歩いていた。

 クライアントの応接室に敷かれていた、毛足の長い絨毯のざらついた感触が、ストッキング越しの両膝にまだ生々しく張り付いている。
 上司の致命的な発注ミス。なぜか私が責任者として同席させられ、ひたすら頭を床にこすりつけ続けた数時間。胃の裏側あたりが重く痙攣し、奥歯を噛み締めすぎて顎の付け根がひどく痺れていた。
 追い打ちをかけるように、三日前に自宅の洗濯機が息絶えた。明日の朝、再びあの会社に着ていくための「まともな服」が、もう一枚も残っていない。

 冷たい雨の粒が、傘を持たない私の肩や首筋を容赦なく叩きつける。
 濡れたブラウスが肌に張り付き、体温を端から奪っていく。「どうして」という言葉が、吐く息の白さに混じって夜の底へ溶けては消えた。

 徒歩十分の距離にある、古びたコインランドリー。
 水滴でびっしりと曇った重たいガラス扉に体重をかけて押し開けた瞬間、外の冷たい世界が完全に遮断された。
 ムワッとした熱気と、埃っぽさを孕んだ洗剤の匂いが全身を包み込む。白々しい蛍光灯の下、いくつも並んだ巨大な機械だけが、静かに息を潜めていた。

 濡れた衣服を空のドラムに放り込み、財布を開く。
 そこには、どういうわけか一万円札が一枚きりしか入っていなかった。
 嫌な汗が背中を伝う。壁際にある色褪せた両替機のスロットに、湿気を吸って少し丸まった一万円札を押し込んだ。

 ビーッ、という無機質な拒絶音とともに、お札が吐き出される。

 指先でシワを伸ばし、裏返し、もう一度押し込む。
 ビーッ。
 何度やっても、機械は私の手から放たれたものを容赦なく弾き返した。

『紙幣は真っ直ぐに入れてください』

 赤いテプラの文字が視界で滲む。
 真っ直ぐに。完璧に。少しでも綻びがあれば、誰にも受け入れてはもらえない。
 四回目の拒絶音が響いた瞬間、張り詰めていた何かが音を立てて千切れた。

 一万円札を両替機のプラスチック部分に叩きつけようとして、そのまま腕から力が抜け落ちる。
 膝から崩れ落ちそうになったとき、微かな紙の擦れる音がした。

「……」

 視界の端。オレンジ色のプラスチックベンチから、ゆっくりと立ち上がる人影があった。
 ヨレヨレになった真っ黒なバンドTシャツに、季節外れのサンダル。長めの前髪の奥の瞳はひどく凪いでいて、右手には読みかけの文庫本と、飲み口の開いたホットの缶ココアが握られている。

 彼は私の真横まで来ると、一切こちらを見ることなく、自分のジーンズのポケットから銀色の硬貨を取り出した。

 チャリン。

 硬質で冷たい音が、深夜の沈黙に落ちる。
 自動販売機のランプが点灯し、粉末洗剤の小さな箱がゴトッと音を立てて転がり落ちた。

「えっ……あ、すみません。コンビニで崩してきます」

 慌てて声を出した私の喉は、ひどく掠れていた。彼が落とした洗剤の箱を拾い上げようとする指先が、微かに震えている。

「この雨の中?」

 彼は缶ココアに口をつけながら、ガラスの向こうの暗闇を顎でしゃくった。

「戻ってくる頃にはずぶ濡れで、着てる服も洗うハメになるぞ」
「でも……」
「投資だよ」
「……投資?」
「ここで泣き出されたら、俺の読書タイムが台無しになる。百円で静寂が買えるなら安いもんだ」

 彼はそれだけ言うと、私から少し距離を取るようにしてベンチの端に戻り、再び文庫本に視線を落とした。
 ぶっきらぼうで、ひどく適当な言葉。
 けれど、その体温の低さが、完璧でなければならないと気を張り続けていた私の肩の力を、フッと解いた。

 込み上げていたみっともない熱い塊が、すーっと胸の奥へ引いていく。
 私は小さく息を吐き出し、彼が買ってくれた洗剤をドラムの中へ流し込んだ。

 重たい蓋を閉め、スタートボタンを押し込む。
 ゴウン、という腹の底に響くような低い音が鳴り、巨大なドラムがゆっくりと回転を始めた。温かい風が回り始め、中の衣類が水と混ざり合う音が響く。

 デジタル表示器に、赤いランプで『40』という数字が点灯した。

 分厚いガラスの向こうでは、相変わらず冷たい雨がアスファルトを打ち据えている。
 私は、彼が座るオレンジ色のベンチの反対側の端に、そっと腰を下ろした。古い紙の匂いと、甘いココアの匂いが、私の周りを漂っている。

 デジタル時計がゼロになるまでの、たった四十分間。
 名乗る必要も、愛想笑いをする必要もない、ただ乾燥機が回る音だけを聞いている空白の時間。

 それが、私と彼の始まりだった。