家なし少女はあやかし執行官の執愛に囚われる

 私は、震える手で屋敷の玄関に鍵をさそうとする。でもうまくさせなくって、私は大きく息を吸った。
 さっき、伊織さんが私の頭に口づけてきた。そのせいかな、全身の血が沸騰しそうなくらい恥ずかしい。
 伊織さん、ずっと距離感がおかしいって思っていたけど、それどころじゃないのかも。
 伊織さん、さっき変なことを言っていたっけ。

 ――悠久が刹那に感じる。

 って。
 悠久って、長いってことだよね。じゃあ刹那は短いって事かな。
 伊織さんはあやかしだ。
 真琴さんが千年以上生きているって言っていたんだから、伊織さんもそれだけ生きているって事よね。
 だから私なんかとは時間の感じ方、違うんだろうな。
 なんとか玄関の鍵を開けて中に入って、私は逃げるように居間へと向かう。
 屋敷の中は、足元だけを灯す行燈が点いていた。
 伊織さんと過ごすようになって、私は天井の蛍光灯をつける機会が減った。
 伊織さんがいつも行燈だけをつけて過ごすから、私もそれに倣うようになったからだ。
 淡い灯りの中で、私はお湯を沸かしてほうじ茶の用意をする。
 お湯が沸くのを待つ間、私の心臓はずっと、屋敷中に聞こえるんじゃないかってくらい大きな音を立てている。
 身体の体温も高いんじゃないかな。
 どうしよう。伊織さんはあやかしなのに。私、伊織さんに惹かれている?
 伊織さんに惹かれるの、当たり前よね、って思う。だって、伊織さんは私を闇オークションから救ってくれて、平穏な生活を与えてくれたんだから。
 子供の頃、同級生に抱いた淡い恋とも違うと思う。
 これはいけないって思うのに。
 そう思って私は自分の胸に手を当てた。
 ちょっとだけ、胸が苦しく感じてしまう。
 伊織さん。
 私、この想い、どうしたらいいんだろう。
 伊織さんが人じゃないって事実がすごく重い。
 ひとり思い悩んでいると、ふすまを開く音がした。
 振り返ると、いつもの浴衣に着替えた伊織さんが、居間の座椅子を通り過ぎてこちらに近づいてくる。
 そして、伊織さんは誘惑するような笑みを浮かべて言った。

「葉月さん、お菓子食べる?」

 伊織さんは甘いものが大好きだ。だからチョコレートや和菓子は欠かさず冷蔵庫やお菓子置き場に置かれている。
 さすがに時間が遅いからちょっと悩むけど、伊織さん、いつもおいしそうに食べるし見てると食べたくなっちゃって断れないのよね。
 だから私は、右手を顔の所まで上げて、親指と人差し指で隙間を作って言った。

「ちょっと」

「あぁ、わかった」

 そう答えて伊織さんは棚からお菓子が入った袋を取り出す。
 私はほうじ茶を淹れ、湯気があがる湯呑みをふたつお盆にのせて、居間のほうへと向かった。
 テレビがつけられていて、娯楽番組が流れている。
 私は湯呑みを机に置いて、いつものように座椅子に座る。
 伊織さんも机にチョコレートが入った袋を置いて、私の隣に座った。
 伊織さんから煙草の匂いがいつもより強く漂ってくる。居間に来るまで時間あったから部屋で吸ってたのかな。
 決していい匂いじゃないのに、この匂いを感じると妙にときめくようになっていた。
 私は湯呑みを手に取って、それにそっと口をつける。
 隣から聞こえる、ガサガサっていう袋を開ける音。
 それに続いて名前を呼ぶ声がした。

「葉月さん」

「はい」

 返事をして横を向くと、薄く開いた私の唇に四角いチョコレートが押し当てられた。

「はい、チョコ」

 そう伊織さんが言って、私にチョコレートを食べさせようとする。
 ちょっと驚きながらも私は唇を開いた。
 するとその隙間に滑り込むようにチョコレートが入ってくる。
 その時、わずかに伊織さんの指が私の唇に触れた。
 でもすぐその指は離れていき、チョコレートだけが私の口の中に残された。
 口を閉じると甘いチョコレートが舌の上で溶けていく。
 そんな大したことでもないのに、ただ、チョコレートを食べさせてもらっただけなのに。
 私は真っ赤になりながら口を押さえて、下を向いてしまった。
 伊織さんは甘い。
 チョコレートなんかよりもずっと。
 伊織さんは今、何を想って私の隣にいるんだろう。
 前は、これは慰謝料だって言って色なものを買い与えてくれたけど。
 今もその、義務みたいな感じで私の隣にいるのかな。
 私はチラリ、と伊織さんの方を見る。
 ガサガサとチョコレートの包みをあけて口に放り込み、ゴミを机の横のゴミ箱に捨てていく。
 そしてこちらを見ると、チョコレートを指で摘んでにっと笑い、それを私に近付けながら言った。

「食べる?」

 返事のかわりに、私は唇を開く。
 すると伊織さんの指とともに、私の口の中にチョコレートが入ってきた。
 すぐに指が抜かれて、チョコレートだけが私の口の中に残る。
 私はもごもごとチョコレートを食べながら正面をむく。
 どうしよう、伊織さんの指が私の口の中に触れた。
 ほんのわずかに。
 たったそれだけなのに、私、すごく動揺してる。顔がちょっと熱いし、きっと私、赤い顔してる。
 こんな顔、伊織さんに見られたらきっと、変に思われるよね。よかった、蛍光灯が点いていなくて。
 行燈のオレンジ色の明かりなら、私の顔の様子なんてきっとわからないだろうから。
 私はチョコレートを食べながら伊織さんの方をちらり、と見る。
 私と伊織さんの距離は、わずか十センチ程度。
 あやかしと人間。薄い膜のような境界線が、私たちの間にはあると思う。
 でも、一緒にいる時間が長くなるにつれてその境界線が溶けていく。
 チョコレートみたいに。