一気に近づいて足を払おうと思った。が、恵をここで転ばせたら、家具がひしめくこの部屋で頭でも打ちかねない。出鱈目な向きで包丁を構えているものだから、横から距離を詰めるのも難しそうだ。
「恵さん、落ち着いて」
さて、どうやって恵を止めようか。
しゅん、しゅん、と刃が空を切る音がする。畳を擦る、二人の足音。絶え間なくあがる恵の金切り声。
ふと、すべての音が遠ざかった。空手で相手と対峙する時に感じる、張り詰めた空気が満ちる。恐れや余計な感情が消え、感覚が研ぎ澄まされてゆく。視界には、自分の両手と恵の姿と、そしてなぜか足元に脱ぎ捨ててある袈裟だけが映った。
崇文は素早くそれを拾うと、恵に向かって投げつけた。頭から袈裟を被った恵が、一瞬動きを止める。
その隙に、一気に距離を詰めて恵の身体を押し倒した。恵の手から包丁が零れ落ちる。
「ぐっ、うぇ」
苦し気なうめき声とともに、恵が激しく咳き込んだ。「げぇっ、ごほごほっ……」
(体重をかけ過ぎたか)
相手が女性だと力加減が難しい。それでなくとも恵は病的に細く、ほんの少しの力でも骨を折ってしまいそうだった。
慌てて身体を浮かした途端、身体の下で恵ががむしゃらに暴れ出した。獣のような唸り声を上げながら崇文の身体から這い出し、再び牛刀に手を伸ばす。
(しまっ……)
牛刀の柄に手がかかる。恵が身体を返し、素早く刃を振り上げる――
「崇文から離れろ!」
司の声がしたと思った瞬間、恵が断末魔の叫びをあげた。
「ぎゃーっ」
崇文の左肩にも激痛が走る。刃が触れたかと思ったが、ややして熱く濡れた感触に気づいた。切り傷でなく、火傷だ。
「崇文!」
司の声で我に返り、今度こそ容赦なく恵を畳に押さえつけた。呻く恵の両手を背中で捩じり上げ、落ちていた格子で縛り上げる。
「崇文! 大丈夫?」
まろぶ勢いで司が袖にしがみついてくる。司の手から、空になったタンブラーが落ちて畳の上を転がった。中身の熱々のコーヒーを恵に向かって放ったのだ。
「怪我は⁉」
「……」
いつもの調子で「俺にもかかった」と文句を言おうと思った。が、司の目の縁が赤くなっているのに気づいてやめた。
「怪我は、ない?」
司の髪は乱れ、ひと房口に入っていた。顎の先には、口から飛んだ唾がついている。それでも綺麗な顔だと思った。初めて見た時から、なんて綺麗な子だろうと心を奪われたままだ。
司の手もコーヒーで濡れていた。赤くなった司の手を取り、袖でそっと押さえた。
「俺は大丈夫。司こそ手にかかっただろう? 火傷してないか?」
「平気」
「バイトは?」
「昼休みで抜けてきた」
ようやくアドレナリンが収まってきたのか、司はおそるおそる縛り上げられた恵を見た。それから畳に転がる牛刀を見て息を飲み「虫の知らせがあった」と呟く。
「朝からなんか嫌な予感がしたの……本当はすぐに様子を見に来たかったんだけど、なかなか店を抜けられなくて」
背中にしがみついたまま、たどたどしくここに来た経緯を語る。服に食い込む指先が小刻みに震えていた。
「玄関を開けたらものすごい音がして……」
語尾が震え、グスっと洟を啜る。「無事でよかった……」
「――助かった、ありがとう」
司の震える手に、自分の手を重ねる。宥めるように、ぽんぽんと甲を撫でた。
「相手が女性だからって、油断しないで!」
「怪我させそうで怖かったんだ」
「自分が死ぬところだったんだよ⁉ もう……、そういうところがっ!」
そういうところがなんだ。それに、どうしても言っておきたいことがあった。
「……助かったけど、虫の知らせなんてもんは存在しないから。あれはもともと、不安を感じていた人間が『何か悪いことが起きるかも』って意識し過ぎて、なんでもないことでも悪い意味にこじつけるんだ。自ら、不幸探しをしているようなもんなんだよ。黒猫が目の前を横切ると不吉、なんて言うだろう? けどイギリスじゃあ、幸運が舞い込む前兆なんて言われているんだぞ? お国によって意味が違うっておかしいだろ。それに、」
「そういうの、今はいいから」
ばちんと手を叩かれ、大人しく口を閉じた。しばらくすると、背後で司が笑っている気配がした。ようやく普段の調子を取り戻したようだ。
「な? ないだろ?」
「何が?」
「祟りなんてないんだ」
自分自身に言い聞かせるように繰り返す。
「祟りなんてない。怖いのは人間のほうだ」
「――うん」
司がどんな顔をしているのか、こちらからは確かめられなかった。
「恵さん、落ち着いて」
さて、どうやって恵を止めようか。
しゅん、しゅん、と刃が空を切る音がする。畳を擦る、二人の足音。絶え間なくあがる恵の金切り声。
ふと、すべての音が遠ざかった。空手で相手と対峙する時に感じる、張り詰めた空気が満ちる。恐れや余計な感情が消え、感覚が研ぎ澄まされてゆく。視界には、自分の両手と恵の姿と、そしてなぜか足元に脱ぎ捨ててある袈裟だけが映った。
崇文は素早くそれを拾うと、恵に向かって投げつけた。頭から袈裟を被った恵が、一瞬動きを止める。
その隙に、一気に距離を詰めて恵の身体を押し倒した。恵の手から包丁が零れ落ちる。
「ぐっ、うぇ」
苦し気なうめき声とともに、恵が激しく咳き込んだ。「げぇっ、ごほごほっ……」
(体重をかけ過ぎたか)
相手が女性だと力加減が難しい。それでなくとも恵は病的に細く、ほんの少しの力でも骨を折ってしまいそうだった。
慌てて身体を浮かした途端、身体の下で恵ががむしゃらに暴れ出した。獣のような唸り声を上げながら崇文の身体から這い出し、再び牛刀に手を伸ばす。
(しまっ……)
牛刀の柄に手がかかる。恵が身体を返し、素早く刃を振り上げる――
「崇文から離れろ!」
司の声がしたと思った瞬間、恵が断末魔の叫びをあげた。
「ぎゃーっ」
崇文の左肩にも激痛が走る。刃が触れたかと思ったが、ややして熱く濡れた感触に気づいた。切り傷でなく、火傷だ。
「崇文!」
司の声で我に返り、今度こそ容赦なく恵を畳に押さえつけた。呻く恵の両手を背中で捩じり上げ、落ちていた格子で縛り上げる。
「崇文! 大丈夫?」
まろぶ勢いで司が袖にしがみついてくる。司の手から、空になったタンブラーが落ちて畳の上を転がった。中身の熱々のコーヒーを恵に向かって放ったのだ。
「怪我は⁉」
「……」
いつもの調子で「俺にもかかった」と文句を言おうと思った。が、司の目の縁が赤くなっているのに気づいてやめた。
「怪我は、ない?」
司の髪は乱れ、ひと房口に入っていた。顎の先には、口から飛んだ唾がついている。それでも綺麗な顔だと思った。初めて見た時から、なんて綺麗な子だろうと心を奪われたままだ。
司の手もコーヒーで濡れていた。赤くなった司の手を取り、袖でそっと押さえた。
「俺は大丈夫。司こそ手にかかっただろう? 火傷してないか?」
「平気」
「バイトは?」
「昼休みで抜けてきた」
ようやくアドレナリンが収まってきたのか、司はおそるおそる縛り上げられた恵を見た。それから畳に転がる牛刀を見て息を飲み「虫の知らせがあった」と呟く。
「朝からなんか嫌な予感がしたの……本当はすぐに様子を見に来たかったんだけど、なかなか店を抜けられなくて」
背中にしがみついたまま、たどたどしくここに来た経緯を語る。服に食い込む指先が小刻みに震えていた。
「玄関を開けたらものすごい音がして……」
語尾が震え、グスっと洟を啜る。「無事でよかった……」
「――助かった、ありがとう」
司の震える手に、自分の手を重ねる。宥めるように、ぽんぽんと甲を撫でた。
「相手が女性だからって、油断しないで!」
「怪我させそうで怖かったんだ」
「自分が死ぬところだったんだよ⁉ もう……、そういうところがっ!」
そういうところがなんだ。それに、どうしても言っておきたいことがあった。
「……助かったけど、虫の知らせなんてもんは存在しないから。あれはもともと、不安を感じていた人間が『何か悪いことが起きるかも』って意識し過ぎて、なんでもないことでも悪い意味にこじつけるんだ。自ら、不幸探しをしているようなもんなんだよ。黒猫が目の前を横切ると不吉、なんて言うだろう? けどイギリスじゃあ、幸運が舞い込む前兆なんて言われているんだぞ? お国によって意味が違うっておかしいだろ。それに、」
「そういうの、今はいいから」
ばちんと手を叩かれ、大人しく口を閉じた。しばらくすると、背後で司が笑っている気配がした。ようやく普段の調子を取り戻したようだ。
「な? ないだろ?」
「何が?」
「祟りなんてないんだ」
自分自身に言い聞かせるように繰り返す。
「祟りなんてない。怖いのは人間のほうだ」
「――うん」
司がどんな顔をしているのか、こちらからは確かめられなかった。

