自室のドアが、コン、と小さく一度だけノックされた。
枕元の時計を見ると、いつの間にか二十二時を過ぎていた。通夜で訪れた先で酒を振る舞われ、帰宅してベッドに倒れ込んだら、そのまま眠り込んでいたようだ。崇文はベッドに横になったまま、ドアに向かって応えた。
「起きてるよ」
細くドアが開き、隙間から司が顔を覗かせる。目が合うと音を立てないようにするりと部屋に入ってきて、後ろ手にドアを閉めた。階下では、すでに両親が寝静まっている。
「お疲れさま。あれ、まだ着替えてないの? 帰ってきたばっかり?」
「いや……だいぶ前に帰ってたんだけど着替えるのが面倒で……。今日は朝から法要が四件あって、最後の所で結構飲まされた」
「うわー」
「あー……だるい」
「その顔で下戸ってのが笑えるよね。『辛口の日本酒が好きです』みたいな顔してんのに」
「どんな顔だよ。うちはみんな、アルコール分解が遅い体質なんだ」
まだ胃のあたりがムカムカする。すきっ腹に飲んだのもよくなかった。朝から休む間もなく、食事も移動中の車内でおにぎりを二つほど食べたきりだった。
横になったままでいると、司がベッドのそばに胡坐をかいた。
「疲れてる? 藤田家に行った報告、明日にする?」
と覗き込んできたので、疲労困憊なのも忘れて勢いよく身体を起こした。
「いや、今聞く」
どうだった、と隣に座ると、司は得意げな笑顔を向けてきた。
「ミッション完了! 藤田家のお母さんと志穂さんに会えたよ」
そう言って、ポケットから、くしゃくしゃになった一枚のチラシを取り出した。
チラシには『オープン十周年キャンペーン コーヒー1杯無料サービス カフェ・コバルト』と書かれている。中央にマグカップのイラスト、下部には店の地図と詳細情報が印刷されている。シンプルな構図だが、文字は手書きのように掠れたデザインになっていてなかなか凝っている。「カフェ・コバルト」とは、司がアルバイトをしている喫茶店だ。
「うちの店、ほんとはもう十四年たっているんだけど」
先日、藤田家を見たときの違和感がどうしても拭いきれず、司の目にはどう映るか、藤田家を偵察するよう依頼していた。手ぶらでうろついては怪しまれるだろうと思い、カフェのオープン記念のチラシ配りを装ってもらったのだ。
「藤田さんたちが本当に店に来ちゃったらやばい。店長には何も話してないし」
「……こないだろ」
恵の話だけを鵜吞みにして、突然藤田家に御霊抜きに行くのが少々不安だった。恵の様子からして、御霊抜きの件を義理の家族に話していない可能性もある。それに、この前藤田家を見に行ったときの、父親の落ち着きのない素振りもずっと気になっていた。
「で、どうだった?」
司から見て藤田家がどんな感じか、あわよくば、ほんの一言二言でもいいから藤田家の人間と実際に話をしてみてほしいと頼んでおいた。
「古いけど大きい家だね。周りの家より敷地が広かった」
「俺もそう思った。門は開いてた?」
「閉まってた」
どうやら藤田家は、一日中門を閉ざしている家のようだ。
「藤田家のお母さんが夕飯の買い出しに出る時間帯を狙って、家の前をうろついてみた」
「出てきたか?」
「もっと前に外出してたみたい。お母さんと志穂さんがちょうど帰ってきたところに遭遇した」
あれが噂の志穂さんだと思う、と司は思い出すように遠くを見た。
「どうだった?」
勢い込んで身を乗り出すと、司は手で制し、くっきりとした二重の瞳をすっと目を細めた。
「このチラシ、自分で作った。Canvaで」
「? うん」
チラシの出来を褒めてほしいのかと首を捻る。
「不審者だと思われないように、わざわざ店のエプロンつけて行った。寒いけどエプロン見えるようにしないといけないから、ジャケットの前も締められないし」
十一月の寒空の下、藤田家の人間が出てくる時間を見計らって外をうろついていたと思うと、さすがに労いが足りなかったと反省した。
わかった、と崇文は仰々しく頷いた。
「春公苑の焼肉を奢る。好きなだけ」
「柳屋のうなぎも」
「ここぞとばかりに高い店ばかり……わかったよ」
もう一軒、地元で評判の焼き鳥屋での食事の約束も取り付けると、ようやく司は続きを話し始めた。
「ばったり出くわした風を装って『三丁目にあるカフェです。オープン十周年の無料券をお配りしています』って手渡したんだ」
「よくやった」
こういった時、司の容姿はとても役に立つ。清潔感があって美しく、老若男女、誰からも嫌われない。やや整い過ぎている感はあるが、過度な女っぽさがないため同性に反感を買うこともない。
「どんな人だった?」
「お母さんの方は反応薄かったんだけど、志穂さんがね……」
「やっぱりきつい感じか」
「……ううん、そうじゃなくて」
司は、頭を振って考え込んだ。親指で唇を撫で、その時の様子を思い出すように眉をわずかにひそめた。
「迷惑がるっていうより、怖がってる感じがした。怯えてるっていうか……。私がチラシを手渡そうとしたら、お母さんの前に立ち塞がって、まるで身を挺してお母さんを守ってるみたいだった」
私、そんなに怖く見える? と司が首を傾げる。
「チラシの文字が見えるように表にして『カフェの十周年記念キャンペーンなんです。ぜひいらしてください』って言ったら、二人ともあからさまにほっとした顔してた」
チラシを受け取ると、二人は逃げるようにして玄関へと向かって行ったと言う。
「そのとき、志穂さんがお母さんに言っているのが聞こえたんだ。『あの女が現れてから、ちっとも気が休まらない』って」
「……」
あの女――。
いや、それよりも。
「見た目は気の強い人には見えなかったんだけど、義理のお姉さんを『あの女』呼ばわりするなんて、やっぱりちょっときつい感じだよね」
恵を気の毒に思ってか、司が悲し気に眉を下げる。
「……」
頭の中に、買い物袋を提げて母親を庇う志穂の姿を思い描く。平日の三時過ぎ。そろって買い物に行く母娘。
「……ずいぶんと仲がいいんだな」
頭に浮かんだ疑問をそのまま口にすると、司が目を瞬かせた。
「誰と、誰が?」
「志穂さんとお母さんだよ。成人した娘が母親と一緒に買い物に行くなんて、ずいぶんと仲のいい親子だと思わないか?」
「二人とも両手いっぱいに荷物持ってたから、買い溜めしたんじゃないかな。たぶん志穂さん、お母さんに駆り出されたんだよ」
……平日の昼間に? 志穂の仕事は? 勤め先がもう倒産していて、すでに休職状態で一日中家にいるとでも言うのだろうか。
――そして、先日藤田家を見たときの違和感の正体にようやく気づいた。
「なあ。買い溜めだったら、どうして車で行かないんだ?」
「あ……」
そうだよね、と司が親指で下唇を擦った。色素の薄い唇がぐにゃりと潰れる。口元をいじるのは司の考え込むときの癖だ。
「司。二人が玄関に向かって行くとき、敷地内見えたか?」
「うん。一瞬ちらっとだけ」
「志穂さんの車、あったか? 車がなくても、稲荷を撤去して造ったっていう駐車スペースはあったか?」
「……あれ……? なかった」
司が呆然と呟く。「玄関まで、敷石のアプローチが続いているだけだった」
「――やっぱりそうか」
車が出入りするには、あの門は狭すぎるのだ。間口が二mにも満たず、志穂の車が軽自動車だとしても出し入れするのが困難だ。一見して、車を所有している家には見えなかった。
今頃気づくなんて、自分の鈍さに歯痒くなる。
「『あの女が現れてから気が休まらない』って言ったんだな、志穂さんは」
「うん」
あの女という呼び方は置いておいて、「現れてから」。
新しい家族がやってきたのなら、「うちに来てから」とか、「引っ越してきてから」と言うものではないか?
――俺たちは、はじめから、大きな思い違いをしていたのかもしれない。
枕元の時計を見ると、いつの間にか二十二時を過ぎていた。通夜で訪れた先で酒を振る舞われ、帰宅してベッドに倒れ込んだら、そのまま眠り込んでいたようだ。崇文はベッドに横になったまま、ドアに向かって応えた。
「起きてるよ」
細くドアが開き、隙間から司が顔を覗かせる。目が合うと音を立てないようにするりと部屋に入ってきて、後ろ手にドアを閉めた。階下では、すでに両親が寝静まっている。
「お疲れさま。あれ、まだ着替えてないの? 帰ってきたばっかり?」
「いや……だいぶ前に帰ってたんだけど着替えるのが面倒で……。今日は朝から法要が四件あって、最後の所で結構飲まされた」
「うわー」
「あー……だるい」
「その顔で下戸ってのが笑えるよね。『辛口の日本酒が好きです』みたいな顔してんのに」
「どんな顔だよ。うちはみんな、アルコール分解が遅い体質なんだ」
まだ胃のあたりがムカムカする。すきっ腹に飲んだのもよくなかった。朝から休む間もなく、食事も移動中の車内でおにぎりを二つほど食べたきりだった。
横になったままでいると、司がベッドのそばに胡坐をかいた。
「疲れてる? 藤田家に行った報告、明日にする?」
と覗き込んできたので、疲労困憊なのも忘れて勢いよく身体を起こした。
「いや、今聞く」
どうだった、と隣に座ると、司は得意げな笑顔を向けてきた。
「ミッション完了! 藤田家のお母さんと志穂さんに会えたよ」
そう言って、ポケットから、くしゃくしゃになった一枚のチラシを取り出した。
チラシには『オープン十周年キャンペーン コーヒー1杯無料サービス カフェ・コバルト』と書かれている。中央にマグカップのイラスト、下部には店の地図と詳細情報が印刷されている。シンプルな構図だが、文字は手書きのように掠れたデザインになっていてなかなか凝っている。「カフェ・コバルト」とは、司がアルバイトをしている喫茶店だ。
「うちの店、ほんとはもう十四年たっているんだけど」
先日、藤田家を見たときの違和感がどうしても拭いきれず、司の目にはどう映るか、藤田家を偵察するよう依頼していた。手ぶらでうろついては怪しまれるだろうと思い、カフェのオープン記念のチラシ配りを装ってもらったのだ。
「藤田さんたちが本当に店に来ちゃったらやばい。店長には何も話してないし」
「……こないだろ」
恵の話だけを鵜吞みにして、突然藤田家に御霊抜きに行くのが少々不安だった。恵の様子からして、御霊抜きの件を義理の家族に話していない可能性もある。それに、この前藤田家を見に行ったときの、父親の落ち着きのない素振りもずっと気になっていた。
「で、どうだった?」
司から見て藤田家がどんな感じか、あわよくば、ほんの一言二言でもいいから藤田家の人間と実際に話をしてみてほしいと頼んでおいた。
「古いけど大きい家だね。周りの家より敷地が広かった」
「俺もそう思った。門は開いてた?」
「閉まってた」
どうやら藤田家は、一日中門を閉ざしている家のようだ。
「藤田家のお母さんが夕飯の買い出しに出る時間帯を狙って、家の前をうろついてみた」
「出てきたか?」
「もっと前に外出してたみたい。お母さんと志穂さんがちょうど帰ってきたところに遭遇した」
あれが噂の志穂さんだと思う、と司は思い出すように遠くを見た。
「どうだった?」
勢い込んで身を乗り出すと、司は手で制し、くっきりとした二重の瞳をすっと目を細めた。
「このチラシ、自分で作った。Canvaで」
「? うん」
チラシの出来を褒めてほしいのかと首を捻る。
「不審者だと思われないように、わざわざ店のエプロンつけて行った。寒いけどエプロン見えるようにしないといけないから、ジャケットの前も締められないし」
十一月の寒空の下、藤田家の人間が出てくる時間を見計らって外をうろついていたと思うと、さすがに労いが足りなかったと反省した。
わかった、と崇文は仰々しく頷いた。
「春公苑の焼肉を奢る。好きなだけ」
「柳屋のうなぎも」
「ここぞとばかりに高い店ばかり……わかったよ」
もう一軒、地元で評判の焼き鳥屋での食事の約束も取り付けると、ようやく司は続きを話し始めた。
「ばったり出くわした風を装って『三丁目にあるカフェです。オープン十周年の無料券をお配りしています』って手渡したんだ」
「よくやった」
こういった時、司の容姿はとても役に立つ。清潔感があって美しく、老若男女、誰からも嫌われない。やや整い過ぎている感はあるが、過度な女っぽさがないため同性に反感を買うこともない。
「どんな人だった?」
「お母さんの方は反応薄かったんだけど、志穂さんがね……」
「やっぱりきつい感じか」
「……ううん、そうじゃなくて」
司は、頭を振って考え込んだ。親指で唇を撫で、その時の様子を思い出すように眉をわずかにひそめた。
「迷惑がるっていうより、怖がってる感じがした。怯えてるっていうか……。私がチラシを手渡そうとしたら、お母さんの前に立ち塞がって、まるで身を挺してお母さんを守ってるみたいだった」
私、そんなに怖く見える? と司が首を傾げる。
「チラシの文字が見えるように表にして『カフェの十周年記念キャンペーンなんです。ぜひいらしてください』って言ったら、二人ともあからさまにほっとした顔してた」
チラシを受け取ると、二人は逃げるようにして玄関へと向かって行ったと言う。
「そのとき、志穂さんがお母さんに言っているのが聞こえたんだ。『あの女が現れてから、ちっとも気が休まらない』って」
「……」
あの女――。
いや、それよりも。
「見た目は気の強い人には見えなかったんだけど、義理のお姉さんを『あの女』呼ばわりするなんて、やっぱりちょっときつい感じだよね」
恵を気の毒に思ってか、司が悲し気に眉を下げる。
「……」
頭の中に、買い物袋を提げて母親を庇う志穂の姿を思い描く。平日の三時過ぎ。そろって買い物に行く母娘。
「……ずいぶんと仲がいいんだな」
頭に浮かんだ疑問をそのまま口にすると、司が目を瞬かせた。
「誰と、誰が?」
「志穂さんとお母さんだよ。成人した娘が母親と一緒に買い物に行くなんて、ずいぶんと仲のいい親子だと思わないか?」
「二人とも両手いっぱいに荷物持ってたから、買い溜めしたんじゃないかな。たぶん志穂さん、お母さんに駆り出されたんだよ」
……平日の昼間に? 志穂の仕事は? 勤め先がもう倒産していて、すでに休職状態で一日中家にいるとでも言うのだろうか。
――そして、先日藤田家を見たときの違和感の正体にようやく気づいた。
「なあ。買い溜めだったら、どうして車で行かないんだ?」
「あ……」
そうだよね、と司が親指で下唇を擦った。色素の薄い唇がぐにゃりと潰れる。口元をいじるのは司の考え込むときの癖だ。
「司。二人が玄関に向かって行くとき、敷地内見えたか?」
「うん。一瞬ちらっとだけ」
「志穂さんの車、あったか? 車がなくても、稲荷を撤去して造ったっていう駐車スペースはあったか?」
「……あれ……? なかった」
司が呆然と呟く。「玄関まで、敷石のアプローチが続いているだけだった」
「――やっぱりそうか」
車が出入りするには、あの門は狭すぎるのだ。間口が二mにも満たず、志穂の車が軽自動車だとしても出し入れするのが困難だ。一見して、車を所有している家には見えなかった。
今頃気づくなんて、自分の鈍さに歯痒くなる。
「『あの女が現れてから気が休まらない』って言ったんだな、志穂さんは」
「うん」
あの女という呼び方は置いておいて、「現れてから」。
新しい家族がやってきたのなら、「うちに来てから」とか、「引っ越してきてから」と言うものではないか?
――俺たちは、はじめから、大きな思い違いをしていたのかもしれない。

