幾星霜の呪いの子 ―下町駆け込み寺の怪異譚―

 玄関を開けた瞬間、温かい出汁の香りが漂ってきた。三和土(たたき)の隅に司の白いコンバースを見つけ、崇文はパーカのポケットの中で小さく拳を握った。
「司? 来てくれたんだ」
 手を洗ってダイニングへ入ると、食卓には湯気を吹く大きな土鍋が置かれていた。父と、今日は顔色の良い母親もすでに席に着いている。司が人数分の小皿を並べているところだった。
「おかえり、崇文。ずいぶん、走っていたのね」
 たどたどしい口調で、母親が崇文を振り返る。病気をしてから右半身が動かなくなり、話す口の動きもぎこちない。
「遅くなってごめん。ちょっと寄るところがあったんだ」
 配膳する司を手伝い、礼を述べる。
「司、作りにきてくれてありがとう」
「今日は海鮮鍋。お母さんと一緒に作ったんだよ」
 ね、と司が母親に微笑みかける。
「もう、だめね。お野菜を、切るのにも、うまくいかなくて、すごく、時間がかかる」
 口ではだめと言いながら、母の表情はいつもより明るく凛としていた。司が来ると気持ちに張りが生まれるようだ。しゃんと背筋を伸ばし、灰汁(あく)を入れる器を準備するよう、司に細々と指示を出している。
 司は、高校の卒業式を終えるとすぐに安アパートを見つけてきて、両親に家を出ると宣言した。三峰家から通学可能な大学に進学が決まっていたにもかかわらず、だ。これまで通り三峰家から通えばいいと両親がいくら説得しても、司は(がん)として首を縦に振らなかった。早々に家を出たがる司の様子を見て、当時やるせない気持ちになったのを覚えている。
 どうしてそんなに早く家を出たがるのだ。本当の家族のように仲良くやってきたじゃないか。――そう思っていたのは、自分らだけだったのだろうか。
 それに長栄寺(うち)にいた方が、お前にとっても――
「白菜が消えちまう。早く食べよう」
 せっかちな父が、張り切って鍋の蓋に手をかける。蓋を外した途端、真っ白い湯気が立ち昇り父の眼鏡が曇った。その様子を見て母と司が笑う。
 血が繋がっていなくとも、司はうちの人間だ。今ここにはいない上の兄と、自分と、司とで三人兄妹だ。成人して、それぞれの都合で離れて暮らしていても、司が家族であることに変わりはない。
 毎日一日の終わりに、心の中で繰り返し考える。
 司はうちの人間だ。俺の妹。自分に言い聞かせるように、ここにはいない誰かに聞かせるように、繰り返し、繰り返し考える。


 司は、五歳の時に見知らぬ女性に手を引かれて我が家にやってきた。
 二人は母娘(おやこ)――には見えなかった。司の手を引く女性は、母親というには年を取り過ぎていた。母というより、祖母と言えるくらい年嵩の女性で、繋がれた司の手は緊張で五指が伸びきっていた。女性と司が初対面同然であるのが、一目瞭然だった。
「ここのお寺の子? 申し訳ないけれど、隆善(りゅうぜん)さんを呼んできてくださる?」
 女性は親し気に祖父の名を口にした。小学生の崇文に対しても丁寧な物腰だったが、優しい口調の中に、何か切羽詰まったものが滲んでいた。
 祖父は二人を家に招き入れると、女性と長いこと仏間で話し込んでいた。襖越しに耳をそばだてると、ぼそぼそと二人が声を潜めて話しているのが聞こえてきた。女性が「どうか、どうか司だけは」と祖父に懇願するのが聞こえ、あの少女の名が「司」なのだとわかった。
 祖父と女性が話し込んでいる間、司は一人、居間で置物のように座っていた。母が出すジュースやお菓子に目もくれず、ただぼんやりと窓の外を見つめていた。
 慣れない女の子への対応に困り、崇文はただ司の横顔を眺めているしかなかった。まろやかな白い頬が西日に照らされていた。一言も喋らず、身動きもせず……。顔の造りが整っていたこともあって、人形のようだと思ったのを覚えている。
 気がつけば女性は、司を置いて、一人で帰ってしまっていた。
 聞けば、司の家族が交通事故で亡くなり、先ほどの女性――司の母方の祖母が、遠縁にあたる三峰家で育ててほしいと頼みに来たそうだ。
 こんな幼い女の子が天涯孤独だなんて――。
 しかも実の祖母に置いていかれてしまうなんて。祖母はなぜ、自分が一緒に暮らしてやろうとは考えなかったのだろう。幼心に司がかわいそうだと思った。
 自分が守ってやらねば。
 初めてできた自分よりも小さく頼りない存在に、崇文は心の中で固く誓った。
 自分が、司を守ってやらねば。
 それから司は我が家で暮らすようになった。司が高校を卒業するまでの十三年間、本物の兄妹のようにして育った。